表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

92/99

第6章 第5話:こちらへ伸びる手


 最深部の気配を持ち帰った夜、仮殿の中はいつもより狭く感じた。


 囲炉裏の火は落としていない。

 札も打ち直した。

 板戸も閉めてある。

 なのに、千歳は何度も背中を振り返りたくなる。祓殿の床下のさらに奥で見た、こちらを真似ようとする白い輪郭が、まだ視界のどこかに残っている気がしたからだ。


 冬真は壁際に座ったまま、目を閉じていた。

 眠ってはいない。

 呼吸は浅く、時々喉元がかすかに強張る。その細かな変化だけで、今夜が静かに済まないことがわかる。


「……千歳」


 低い声。

 顔を上げる。


「何」

「考え込みすぎ」

「そっちも」

 返すと、冬真は小さく息を吐いた。

「俺はいつもだ」

「便利な逃げ方」

「知ってる」

 そのやり取りのあと、千歳は少しだけ呼吸を整える。

 まだ届く。

 まだ今は、ここにいる。


「冬真」

「何だ」

「今どこ」

 冬真はわずかに眉を寄せた。

「仮殿」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

「うん」

「それ、ほんとに挨拶だな」

「必要だから」

「知ってる」

 そこまで返ってきて、千歳はようやく少しだけ肩の力を抜く。


 綾人は戸口の近くで札の端を見ていた。

「今夜は来る」

 低い声。

 千歳がそちらを見る。


「やっぱり」

「最深部まで見た」

 綾人は答える。

「向こうも、こちらを見た」

「……」

「しかも今夜は」

 一拍置いて、

「冬真だけで済まん可能性が高い」

 その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。

 わかっていた。

 最深部で見た白い輪郭は、明らかに千歳の方へ触れようとしていた。

 戻す線であり、意味の核でもある千歳へ。


「千歳」

 綾人が続ける。

「今夜、お前が引かれ始めたら」

「……」

「自分で自分を現実へ固定しろ」

「うん」

「冬真に全部やらせるな」

 その言い方に、千歳は少しだけ目を細める。

「やらせない」

「本当に?」

「やらせない」

 言い切ると、綾人は小さく頷いた。


     ◆


 夜半を過ぎた頃だった。


 最初に変わったのは、火の色だった。

 囲炉裏の炎が細くなり、赤が少しだけ白っぽく見える。次いで、戸口の札の端がじわりと光った。


 からん。


 鈴が鳴る。

 一度だけ。

 でも、それだけで十分だった。


「来た」

 綾人が低く言う。


 千歳はすぐに立ち上がる。

 いつもの位置。

 冬真の真正面ではなく、少しずらした場所。

 だが今夜は、その配置に立った瞬間から、自分の足元が少しだけ危ういことに気づいた。

 床が遠い。

 ほんのわずかに、感覚が浮く。


「千歳」

 綾人の声。

「はい」

「今どこ」

 先に問われて、千歳ははっとする。

 そうだ。

 今夜は自分も確認される側だ。


「……仮殿」

「うん」

「夜」

「うん」

「囲炉裏の前」

「そうだ」

 綾人の返答が低く落ちる。

「切らすな」

「うん」


 冬真の肩がわずかに揺れる。

 喉元の黒ずみが、火の明かりの中でじわりと濃くなる。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。

「今どこ」

「……仮殿」

「うん」

「夜」

「うん」

「お前」

 一拍置いて、

「顔色悪い」

 その返答に、千歳は思わず息を呑む。

 まだ見えている。

 まだ、こちらの細かいところまで。


「そっちも」

 返すと、冬真の口元がかすかに動いた。

「知ってる」

 そこへ、鈴がもう一度鳴る。

 からん。

 今度は少し近い。


「何が見える」

 綾人が低く問う。


 冬真の視線が少しずつ遠くへ滑る。

「……白い」

「核?」

 千歳が聞く。

 冬真は小さく首を振った。

「違う」

「何」

「……こっち」

 その一言と同時に、千歳の背筋へ冷たいものが走った。


 何かが触れた。


 肌ではない。

 もっと内側。

 名前や声の手前、輪郭の縁へ指をかけられるような、ひどく嫌な感触だった。


「っ……」

 思わず息を呑む。

 視界がほんの一瞬だけ白く揺れる。


「千歳!」

 今度は冬真の声が飛ぶ。

「今どこ」

 その問いが、刃みたいに意識へ入る。


「……仮殿」

 千歳は絞り出す。

「囲炉裏」

「そう」

 冬真が低く続ける。

「夜」

「……夜」

「お前は」

 そこで言葉が少し引っかかる。

 自分の名前はわかる。

 でも、そこへ辿り着くまでにほんの一瞬、薄い膜がある。


「秋月千歳」

 自分で言う。

 その瞬間、冷たいものが少しだけ引く。


「千歳」

 綾人の声。

「来ているな」

「……うん」

 認めたくないが、もう認めるしかなかった。

 向こうは本当に、こちらへ手を伸ばしてきている。


     ◆


「保持しろ」

 綾人が低く言う。

「切るな」

「うん」

「冬真」

「何だ」

「お前は千歳を庇うな」

「無茶言うな」

「今さらだ」

 綾人は即答した。


 だが、次の瞬間にそれは崩れた。


 白い気配が、今度ははっきり千歳の方へ寄った。

 板壁の向こうでも床下の奥でもない。

 仮殿の中、囲炉裏の熱の届く場所まで、音もなく滲んでくる。


 千歳の視界の端に、白い影が揺れる。

 人の形に似ている。

 でも完全には似ていない。

 それが一番気味悪かった。


「……何」

 小さく零れる。


「見るな!」

 綾人の声。

 だが、その直前にもう千歳は見てしまっていた。


 白い輪郭の中に、自分に似たものがある。

 顔ではない。

 名前でもない。

 “こう呼ばれる自分”の形だ。

 冬真の中に残っている千歳の意味を、向こうが真似ようとしている。


「千歳!」

 冬真が強く呼ぶ。

「今どこ!」

 千歳は答えようとして、一瞬だけ言葉を失う。

 危ない。

 今、自分の方が引かれている。


「……仮殿」

 やっと出す。

「うん」

 冬真の声。

「囲炉裏」

「……うん」

「俺は」

「白瀬冬真」

「そう」

 一拍置いて、

「面倒」

 その一言に、千歳の眉がほんの少しだけ寄る。

 そんなとこでそれ言うの。

 そう思った瞬間、逆に視界が戻る。


「知ってる」

 反射で返した。

 その返答が返せるなら、まだこっちだ。


 だが、今度は冬真の方が大きく揺れた。


「っ……」

 喉元を押さえ、壁へ手をつく。

 千歳の方へ触れかけたものを、反射的に自分側へ引いたのだと、見ただけでわかった。


「冬真!」

 千歳が叫ぶ。


「だからやるなと言った」

 綾人が低く吐き捨てる。

「千歳、続けろ! 今あいつは庇いに入った!」

 庇った。

 やっぱりだ。

 最終章に入っても、この人はまだ反射でそうする。


「冬真!」

 千歳は一歩だけ前へ出る。

「今どこ!」

 返事がない。

 視線が遠い。

 しかも、今までと違って“千歳を庇うこと”そのものに意識が持っていかれている。


「何見てる!」

 強く問う。


 数秒の沈黙。

 そのあと、掠れた声。

「……お前」

「何」

「引くな」

 その一言が、胸に深く刺さる。

 自分が落ちるより先に、千歳が触られることを止めようとしている。

 やっぱり最後までそうなのかと、怒りと苦しさが一緒にこみ上げる。


「引かない」

 千歳は言い切る。

「そっちこそ!」

「……」

「今どこ!」

 返事がない。

 だめだ。

 今は叱るだけでは戻らない。


     ◆


「千歳」

 綾人が低く言う。

「うん」

「お前が現実を維持しながら、冬真も引け」

「両方?」

「そうだ」

 無茶だと思った。

 でも、今それ以外に手はない。


 千歳は一度だけ強く息を吸う。

 怖い。

 けれど、もうここまで来たらそれを言い訳にはできない。


「冬真」

 低く呼ぶ。

「今どこ」

「……」

「仮殿」

「……」

「囲炉裏」

「……」

「夜」

「……」

「わたしは秋月千歳」

 そこで、冬真の喉が小さく動く。


「……千歳」

 薄い声。

 届いた。

 でも、まだ浅い。


「そう」

 千歳は続ける。

「しつこい」

「……」

「面倒」

「……」

「知ってる」

 ほんの少し間があってから、

「……知ってる」

 返ってきた。

 千歳はそのまま自分にも言い聞かせるように続ける。


「わたしはここ」

「……」

「引かれてない」

「……」

「囲炉裏の前」

「……」

「終わったら、ちゃんと怒る」

 冬真の眉が、はっきり寄る。

「……何に」

 返ってきた。

 そこに千歳は息を吐く。

 まだ話ができる。


「今の」

 一拍置いて、

「勝手に庇うやつ」

 冬真の目が少しだけ揺れる。


「……仕方ないだろ」

「よくない」

「……」

「何で一人で引くの」

「……」

「一緒に決めるって言った」

 その言葉の直後、冬真の視線が少しだけこちらへ戻る。


 綾人が札を切る。

 白い光が戸口から囲炉裏の周囲へ走り、仮殿の中の冷えが一瞬だけ弾かれる。

 だが白い気配は完全には消えない。

 千歳の背中側でまだ揺れている。


「千歳!」

 綾人が言う。

「自分の位置!」

 はっとして、千歳は自分へ向けて言葉を重ねる。


「今どこ」

「……仮殿」

 自分で答える。

「囲炉裏」

「……」

「秋月千歳」

「……」

「白瀬冬真がいて」

「……」

「月代綾人もいる」

 声に出して、ようやく視界の揺れが少し戻る。


「よし」

 綾人の低い声。

「そこで保て」

 保て。

 つまり今は、切るより先に均衡を守る時間なのだ。


     ◆


 それ以上、深追いはしなかった。


 綾人が撤退を選んだからだ。

「戻る」

「でも」

 千歳が言いかけると、綾人は即座に返した。

「今日はこれ以上やれば、千歳まで噛み合う」

 その言葉で、反論は止まる。

 今の白い手は、本当に千歳へ届きかけていた。

 その事実を無視はできない。


 仮殿の外へ出ると、冬の空気が頬に刺さった。

 冷たい。

 でも、ちゃんと外の冷たさだ。

 祓殿の床下とも、仮殿の中へ滲んだ白い気配とも違う。


 千歳は戸口の前で一度だけ大きく息を吐く。

 脚が少しだけ震えていた。

 怖かった。

 今までで一番、自分が“触られる側”になった実感がある。


「千歳」

 冬真の声。

 振り向く。


「何」

「今どこ」

 一瞬、目を見開く。

 聞き返された。

 でも、その問いの意味はすぐにわかった。

 今度は冬真が、千歳を人の側へ留めようとしているのだ。


「……祓殿の前」

 答える。

「うん」

「冬」

「うん」

「白瀬冬真」

「……うん」

「月代綾人」

「うん」

 そこまで返して、千歳はようやく少しだけ呼吸を整えた。


「今の」

 低く言う。

「だめ」

 冬真が少しだけ目を細める。

「何が」

「庇うやつ」

「……」

「もう一人で引くの、なし」

 冬真は何も言わなかった。

 でも、否定もしない。

 その沈黙は、少なくとも届いている形だった。


 綾人が祓殿を振り返りながら言う。

「向こうは千歳へ直接触れ始めた」

「……」

「そして冬真は反射で庇った」

「……」

「次は、その癖ごと壊す必要がある」

 千歳は唇を噛む。

 怪異との最終決着だけじゃない。

 冬真が一人で庇うしかないと思い込んできた、その反射そのものを終わらせる。

 それが第6章の核心なのだと、今はっきりわかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ