第6章 第5話:こちらへ伸びる手
最深部の気配を持ち帰った夜、仮殿の中はいつもより狭く感じた。
囲炉裏の火は落としていない。
札も打ち直した。
板戸も閉めてある。
なのに、千歳は何度も背中を振り返りたくなる。祓殿の床下のさらに奥で見た、こちらを真似ようとする白い輪郭が、まだ視界のどこかに残っている気がしたからだ。
冬真は壁際に座ったまま、目を閉じていた。
眠ってはいない。
呼吸は浅く、時々喉元がかすかに強張る。その細かな変化だけで、今夜が静かに済まないことがわかる。
「……千歳」
低い声。
顔を上げる。
「何」
「考え込みすぎ」
「そっちも」
返すと、冬真は小さく息を吐いた。
「俺はいつもだ」
「便利な逃げ方」
「知ってる」
そのやり取りのあと、千歳は少しだけ呼吸を整える。
まだ届く。
まだ今は、ここにいる。
「冬真」
「何だ」
「今どこ」
冬真はわずかに眉を寄せた。
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「うん」
「それ、ほんとに挨拶だな」
「必要だから」
「知ってる」
そこまで返ってきて、千歳はようやく少しだけ肩の力を抜く。
綾人は戸口の近くで札の端を見ていた。
「今夜は来る」
低い声。
千歳がそちらを見る。
「やっぱり」
「最深部まで見た」
綾人は答える。
「向こうも、こちらを見た」
「……」
「しかも今夜は」
一拍置いて、
「冬真だけで済まん可能性が高い」
その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。
わかっていた。
最深部で見た白い輪郭は、明らかに千歳の方へ触れようとしていた。
戻す線であり、意味の核でもある千歳へ。
「千歳」
綾人が続ける。
「今夜、お前が引かれ始めたら」
「……」
「自分で自分を現実へ固定しろ」
「うん」
「冬真に全部やらせるな」
その言い方に、千歳は少しだけ目を細める。
「やらせない」
「本当に?」
「やらせない」
言い切ると、綾人は小さく頷いた。
◆
夜半を過ぎた頃だった。
最初に変わったのは、火の色だった。
囲炉裏の炎が細くなり、赤が少しだけ白っぽく見える。次いで、戸口の札の端がじわりと光った。
からん。
鈴が鳴る。
一度だけ。
でも、それだけで十分だった。
「来た」
綾人が低く言う。
千歳はすぐに立ち上がる。
いつもの位置。
冬真の真正面ではなく、少しずらした場所。
だが今夜は、その配置に立った瞬間から、自分の足元が少しだけ危ういことに気づいた。
床が遠い。
ほんのわずかに、感覚が浮く。
「千歳」
綾人の声。
「はい」
「今どこ」
先に問われて、千歳ははっとする。
そうだ。
今夜は自分も確認される側だ。
「……仮殿」
「うん」
「夜」
「うん」
「囲炉裏の前」
「そうだ」
綾人の返答が低く落ちる。
「切らすな」
「うん」
冬真の肩がわずかに揺れる。
喉元の黒ずみが、火の明かりの中でじわりと濃くなる。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
「……仮殿」
「うん」
「夜」
「うん」
「お前」
一拍置いて、
「顔色悪い」
その返答に、千歳は思わず息を呑む。
まだ見えている。
まだ、こちらの細かいところまで。
「そっちも」
返すと、冬真の口元がかすかに動いた。
「知ってる」
そこへ、鈴がもう一度鳴る。
からん。
今度は少し近い。
「何が見える」
綾人が低く問う。
冬真の視線が少しずつ遠くへ滑る。
「……白い」
「核?」
千歳が聞く。
冬真は小さく首を振った。
「違う」
「何」
「……こっち」
その一言と同時に、千歳の背筋へ冷たいものが走った。
何かが触れた。
肌ではない。
もっと内側。
名前や声の手前、輪郭の縁へ指をかけられるような、ひどく嫌な感触だった。
「っ……」
思わず息を呑む。
視界がほんの一瞬だけ白く揺れる。
「千歳!」
今度は冬真の声が飛ぶ。
「今どこ」
その問いが、刃みたいに意識へ入る。
「……仮殿」
千歳は絞り出す。
「囲炉裏」
「そう」
冬真が低く続ける。
「夜」
「……夜」
「お前は」
そこで言葉が少し引っかかる。
自分の名前はわかる。
でも、そこへ辿り着くまでにほんの一瞬、薄い膜がある。
「秋月千歳」
自分で言う。
その瞬間、冷たいものが少しだけ引く。
「千歳」
綾人の声。
「来ているな」
「……うん」
認めたくないが、もう認めるしかなかった。
向こうは本当に、こちらへ手を伸ばしてきている。
◆
「保持しろ」
綾人が低く言う。
「切るな」
「うん」
「冬真」
「何だ」
「お前は千歳を庇うな」
「無茶言うな」
「今さらだ」
綾人は即答した。
だが、次の瞬間にそれは崩れた。
白い気配が、今度ははっきり千歳の方へ寄った。
板壁の向こうでも床下の奥でもない。
仮殿の中、囲炉裏の熱の届く場所まで、音もなく滲んでくる。
千歳の視界の端に、白い影が揺れる。
人の形に似ている。
でも完全には似ていない。
それが一番気味悪かった。
「……何」
小さく零れる。
「見るな!」
綾人の声。
だが、その直前にもう千歳は見てしまっていた。
白い輪郭の中に、自分に似たものがある。
顔ではない。
名前でもない。
“こう呼ばれる自分”の形だ。
冬真の中に残っている千歳の意味を、向こうが真似ようとしている。
「千歳!」
冬真が強く呼ぶ。
「今どこ!」
千歳は答えようとして、一瞬だけ言葉を失う。
危ない。
今、自分の方が引かれている。
「……仮殿」
やっと出す。
「うん」
冬真の声。
「囲炉裏」
「……うん」
「俺は」
「白瀬冬真」
「そう」
一拍置いて、
「面倒」
その一言に、千歳の眉がほんの少しだけ寄る。
そんなとこでそれ言うの。
そう思った瞬間、逆に視界が戻る。
「知ってる」
反射で返した。
その返答が返せるなら、まだこっちだ。
だが、今度は冬真の方が大きく揺れた。
「っ……」
喉元を押さえ、壁へ手をつく。
千歳の方へ触れかけたものを、反射的に自分側へ引いたのだと、見ただけでわかった。
「冬真!」
千歳が叫ぶ。
「だからやるなと言った」
綾人が低く吐き捨てる。
「千歳、続けろ! 今あいつは庇いに入った!」
庇った。
やっぱりだ。
最終章に入っても、この人はまだ反射でそうする。
「冬真!」
千歳は一歩だけ前へ出る。
「今どこ!」
返事がない。
視線が遠い。
しかも、今までと違って“千歳を庇うこと”そのものに意識が持っていかれている。
「何見てる!」
強く問う。
数秒の沈黙。
そのあと、掠れた声。
「……お前」
「何」
「引くな」
その一言が、胸に深く刺さる。
自分が落ちるより先に、千歳が触られることを止めようとしている。
やっぱり最後までそうなのかと、怒りと苦しさが一緒にこみ上げる。
「引かない」
千歳は言い切る。
「そっちこそ!」
「……」
「今どこ!」
返事がない。
だめだ。
今は叱るだけでは戻らない。
◆
「千歳」
綾人が低く言う。
「うん」
「お前が現実を維持しながら、冬真も引け」
「両方?」
「そうだ」
無茶だと思った。
でも、今それ以外に手はない。
千歳は一度だけ強く息を吸う。
怖い。
けれど、もうここまで来たらそれを言い訳にはできない。
「冬真」
低く呼ぶ。
「今どこ」
「……」
「仮殿」
「……」
「囲炉裏」
「……」
「夜」
「……」
「わたしは秋月千歳」
そこで、冬真の喉が小さく動く。
「……千歳」
薄い声。
届いた。
でも、まだ浅い。
「そう」
千歳は続ける。
「しつこい」
「……」
「面倒」
「……」
「知ってる」
ほんの少し間があってから、
「……知ってる」
返ってきた。
千歳はそのまま自分にも言い聞かせるように続ける。
「わたしはここ」
「……」
「引かれてない」
「……」
「囲炉裏の前」
「……」
「終わったら、ちゃんと怒る」
冬真の眉が、はっきり寄る。
「……何に」
返ってきた。
そこに千歳は息を吐く。
まだ話ができる。
「今の」
一拍置いて、
「勝手に庇うやつ」
冬真の目が少しだけ揺れる。
「……仕方ないだろ」
「よくない」
「……」
「何で一人で引くの」
「……」
「一緒に決めるって言った」
その言葉の直後、冬真の視線が少しだけこちらへ戻る。
綾人が札を切る。
白い光が戸口から囲炉裏の周囲へ走り、仮殿の中の冷えが一瞬だけ弾かれる。
だが白い気配は完全には消えない。
千歳の背中側でまだ揺れている。
「千歳!」
綾人が言う。
「自分の位置!」
はっとして、千歳は自分へ向けて言葉を重ねる。
「今どこ」
「……仮殿」
自分で答える。
「囲炉裏」
「……」
「秋月千歳」
「……」
「白瀬冬真がいて」
「……」
「月代綾人もいる」
声に出して、ようやく視界の揺れが少し戻る。
「よし」
綾人の低い声。
「そこで保て」
保て。
つまり今は、切るより先に均衡を守る時間なのだ。
◆
それ以上、深追いはしなかった。
綾人が撤退を選んだからだ。
「戻る」
「でも」
千歳が言いかけると、綾人は即座に返した。
「今日はこれ以上やれば、千歳まで噛み合う」
その言葉で、反論は止まる。
今の白い手は、本当に千歳へ届きかけていた。
その事実を無視はできない。
仮殿の外へ出ると、冬の空気が頬に刺さった。
冷たい。
でも、ちゃんと外の冷たさだ。
祓殿の床下とも、仮殿の中へ滲んだ白い気配とも違う。
千歳は戸口の前で一度だけ大きく息を吐く。
脚が少しだけ震えていた。
怖かった。
今までで一番、自分が“触られる側”になった実感がある。
「千歳」
冬真の声。
振り向く。
「何」
「今どこ」
一瞬、目を見開く。
聞き返された。
でも、その問いの意味はすぐにわかった。
今度は冬真が、千歳を人の側へ留めようとしているのだ。
「……祓殿の前」
答える。
「うん」
「冬」
「うん」
「白瀬冬真」
「……うん」
「月代綾人」
「うん」
そこまで返して、千歳はようやく少しだけ呼吸を整えた。
「今の」
低く言う。
「だめ」
冬真が少しだけ目を細める。
「何が」
「庇うやつ」
「……」
「もう一人で引くの、なし」
冬真は何も言わなかった。
でも、否定もしない。
その沈黙は、少なくとも届いている形だった。
綾人が祓殿を振り返りながら言う。
「向こうは千歳へ直接触れ始めた」
「……」
「そして冬真は反射で庇った」
「……」
「次は、その癖ごと壊す必要がある」
千歳は唇を噛む。
怪異との最終決着だけじゃない。
冬真が一人で庇うしかないと思い込んできた、その反射そのものを終わらせる。
それが第6章の核心なのだと、今はっきりわかった。




