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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第6章 第4話:最深部へ


 祓殿へ向かう朝は、音が少なすぎた。


 雪は夜のうちに少しだけ締まり、石畳の上で鈍く白く光っている。踏むたび、足の裏へ返る感触は硬いのに、まわりの空気は妙に柔らかく沈んでいた。

 それが気味悪かった。

 静かすぎる。

 まるで、祓殿の床下のさらに奥が、息を潜めてこちらを待っているみたいで。


 千歳は外套の前を押さえながら、前を歩く冬真の背中を見ていた。

 顔色は、朝の時点でもやはり良くない。

 けれど歩みは止まらない。

 止めようとしても、たぶんもう止まらない。

 それは冬真だけではなく、自分も同じだと千歳は知っていた。


「冬真」

 呼ぶ。


 半歩だけ、足が緩む。

「何だ」

「今どこ」

 冬真はわずかに眉を寄せる。

「祓殿に向かう途中」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐く。


「うん」

「毎回やるな」

「毎回やる」

「面倒」

「知ってる」

 その返しは、少しだけ遠い。

 でも、ちゃんと意味は届いている。

 そのことに、今はすがるように安心するしかなかった。


 綾人が前を見たまま低く言う。

「今日から先は、戻すだけではない」

 千歳が顔を上げる。

「うん」

「最深部へ入る」

「……」

「核の残り、流し路の終点、冬真の中の道」

 一拍置いて、

「その三つが最も強く重なる場所まで行く」

 その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。

 最深部。

 つまり今まで見てきた床下のさらに先だ。

 そこで、本当に終わらせるための条件を揃える。


「危ない?」

 千歳が聞くと、綾人は即答した。

「今までで一番だ」

「即答だね」

「事実だからな」

 そこに冬真が低く言う。

「最悪」

「感想が一貫してる」

 千歳が返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。

「そっちが前向きすぎる」

「前向きじゃない」

「じゃあ何だ」

「逃げたくないだけ」

 そう言うと、冬真は少しだけ黙った。

 その沈黙が、同じことを思っている顔だった。


     ◆


 祓殿の戸を開けた瞬間、内側の冷気が頬を打った。


 火の気のない冷たさ。

 古い木の匂い。

 床下から這い上がる湿った空気。

 ここまで何度も出入りしたはずなのに、今日の祓殿はまた違う顔をしていた。

 静かだ。

 けれど、それは眠っている静けさではない。

 目を開けたまま、じっと待っている静けさだ。


 綾人は左奥の床板の継ぎ目へ膝をついた。

 もう手つきに迷いはない。

 札を差し入れ、低く言葉を落とす。

 ぎし、と鈍い音。

 床板が浮き、その下の暗がりが口を開く。


 湿った冷気が立ちのぼる。


 千歳は息を浅くしながら、まず空気だけを見る。

 井戸とは違う。

 でも、やはり人の体温を嫌う冷たさだ。

 土と灰と、長く閉じた祭具の匂い。

 そしてその奥に、白い核の気配が、もう隠れもせずに沈んでいる。


「降りるぞ」

 綾人が言う。


 順番は今までと同じだった。

 綾人、冬真、千歳。

 手燭の火が揺れ、梁の影が土壁へ長く伸びる。

 膝に湿り気が伝わるたび、千歳はここが本当に人のために作られた場所ではないのだと嫌でも思い知らされた。


 流し路の溝は、今まで見てきた通り、横へ伸びている。

 受け皿のような窪み。

 砕けた祭具。

 焦げた札。

 人ひとり分の代替路。

 何度も見たものだ。

 でも、今日はその全部が“通過点”にしか見えない。


「止まるな」

 綾人が前から言う。

「今日の目的は、核の手前じゃない」

 千歳の喉が小さく鳴る。

 さらに奥へ行く。

 そこがもう、言葉だけではない現実になっていた。


     ◆


 昨日まで固定していた位置を越えたところで、空気が変わった。


 冷たさの質が変わる。

 ただ冷えるのではない。

 皮膚の外からではなく、内側の輪郭をなぞるような冷えだった。

 千歳は思わず息を詰める。


「来たな」

 綾人が低く言う。


 冬真の肩がぴくりと揺れる。

 喉元の黒ずみが、手燭の火の中で少しだけ濃く見えた。


「冬真」

 千歳がすぐに呼ぶ。

「今どこ」

 返事が少し遅れる。

「……床下」

「うん」

「祓殿」

「うん」

「お前」

 一拍置いて、

「怖がってる」

「怖いよ」

 千歳は正直に返す。

「でも行く」

 冬真の目が少しだけ揺れる。

「知ってる」

 そこへ綾人が低く言う。

「そのまま続けろ」


 三人はさらに進む。

 流し路の溝は途中から少しだけ深くなり、土壁は何度も掘り返された痕でまだらだった。

 手燭の先に、崩れた封具の残骸が見える。

 そのさらに向こう。

 白い核の残りが、今までよりもはっきりと輪郭を持って沈んでいた。


 だが、本当に異様なのはその先だった。


 核の向こうに、空間がある。

 ただの土壁ではない。

 流し路の終点が、そこでわずかに落ち込むように開け、横にも下にも判然としない暗がりへ続いている。

 人が通るために作られたのか、怪異を流すために削られたのか、その境目すら曖昧な“口”がそこにあった。


「……ここ」

 千歳が小さく言う。


「最深部だ」

 綾人が答える。

「流し路の終点」

「……」

「そして、通り道の実際の口に最も近い場所」

 言われた瞬間、背筋に冷たいものが走る。

 ここが本当の口。

 冬真の中の道と、現実側の構造が最も深く噛み合っている場所。


「最悪」

 冬真が低く言う。


「知ってる」

 千歳が返すと、冬真は少しだけ口元を動かした。

 でも次の瞬間、その表情は消える。

 視線が、最深部の暗がりへ引かれたからだ。


「冬真」

 綾人が低く呼ぶ。

「どう見える」

 冬真はしばらく答えなかった。

 呼吸が少しずつ浅くなる。

 千歳はその横顔を見るだけで、嫌な予感が強くなった。


「……深い」

 やがて、掠れた声。

「何が」

「道」

「……」

「俺の中のより、こっちの方が古い」

 その言い方に、千歳の胸が重く沈む。

 当たり前だ。

 この構造は村と社が長く先送りしてきたものの積み重ねなのだから。


「その先は」

 綾人が問う。


 冬真の肩が小さく揺れる。

「……見える」

「何が」

「白いの、だけじゃない」

 一拍置いて、

「もっと奥」

「見るな」

 綾人が即座に言う。

「今は切るな」

「……無理」

 冬真の声がかすれる。

「向こうが、近い」


     ◆


 その瞬間だった。


 ざり、と土の奥で何かが擦れる音がした。

 次いで、冷気が一気に逆流する。

 千歳のこめかみがずきりと痛む。


「っ……」

 思わずよろけかける。


「千歳!」

 今度は冬真が呼んだ。

 その声で、千歳ははっとする。

 向こうが、こちらにも触れてきた。

 最深部へ入ったことで、とうとう千歳自身も“引かれる側”へ足をかけたのだ。


「今どこ」

 冬真の声が低く飛ぶ。

 千歳は目を瞬く。

 聞き返されるとは思わなかった。


「……床下」

 自分で答える。

「祓殿の床下」

「そう」

 冬真が続ける。

「夜じゃない」

「昼」

「そうだ」

 その返しは、少し遅いがちゃんと届いている。

 千歳は胸の奥で息を整える。

 今、自分も危ない。

 でも、呼び戻せるのは冬真だけじゃない。

 互いに互いを引く段階へ入ったのだ。


「綾人さん」

 千歳が低く呼ぶ。

「来てる」

「わかっている」

 綾人はすでに札を二枚指に挟んでいた。

「だからここが最終点だ」

「……」

「ここで均衡を崩せば、次はもう決着しかない」

 その言葉の意味が、あまりにも重い。


「千歳」

 綾人が続ける。

「ここから先、お前は戻すだけの位置にはいない」

「……」

「引かれる」

「……」

「それでも声を切らすな」

 千歳は強く頷く。

「うん」

 怖い。

 でも、ここで引いたら全部無駄になる。


「冬真」

 今度は千歳が呼ぶ。

「今どこ」

 冬真の視線はまだ奥を見ていたが、返事は返る。

「……最深部」

「うん」

「わたしは」

 少し間がある。

 千歳の胸がきゅっと締まる。

「……千歳」

「フルネーム」

「秋月千歳」

「うん」

「面倒」

「知ってる」

 そこまで返ってきて、千歳はさらに一歩だけ声を重ねる。


「終わったら」

「……」

「ちゃんと怒る」

 冬真の眉が少しだけ寄る。

「何に」

「いろいろ」

 一拍置いて、

「一人で決めようとした分も」

 冬真の口元が、ほんの少しだけ動く。

「……面倒」

「知ってる」

 そのやり取りが、最深部の冷えの中で細い火みたいに残る。


     ◆


 綾人は最深部の手前、流し路の終点と核の残りのあいだへ新しい札を打った。


 今までよりも小さい。

 だが、紙質が違う。

 薄いのに、光を吸うような白さをしている。


「それ何」

 千歳が問う。


「最後の固定だ」

 綾人が答える。

「次でこれを基点に切る」

「……」

「今日の目的は、この位置を保ったまま戻ること」

 それだけでも難しいことは、もう嫌というほどわかる。

 最深部まで来て、均衡を崩さず戻る。

 ここで一つ狂えば、次へ進む前に持っていかれるだろう。


「戻るぞ」

 綾人が言う。


 その瞬間、最深部の奥で、かすかに白いものが揺れた。

 人の形ではない。

 でも、何かがこちらを真似ようとしているような輪郭。

 千歳の背筋に冷たいものが走る。


「見るな!」

 綾人の声。


 千歳は反射で視線を切る。

 だが一瞬見えてしまった。

 あれはたぶん、向こうがこちらを映している形だ。

 千歳へ触れようとしている。

 冬真だけではなく、もうこちら側の意味の核ごと。


「千歳」

 冬真が低く呼ぶ。

「今どこ」

「……床下」

「そう」

「祓殿」

「そう」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「しつこい」

「知ってる」

 返しながら、千歳は自分の手が少し震えているのを感じる。

 危なかった。

 でもまだ切れていない。


 三人はじりじりと後退する。

 最深部の冷えが背中を追ってくる。

 けれど、完全には追いつかせないように、千歳は言葉を切らさない。

 今どこ。

 祓殿の床下。

 昼。

 秋月千歳。

 しつこい。

 面倒。

 知ってる。

 その全部が、細い綱のように三人を人の側へ繋いでいた。


 床下から這い出した瞬間、冬の空気が肺を刺した。

 冷たい。

 でも、ただの冬の冷たさだった。

 最深部の奥にあった“こちらを真似る冷え”とは違う。


 千歳は祓殿の前で一度だけ大きく息を吸う。

 足元が少しだけ震える。

 でも立っていられる。


「今の」

 小さく呟く。

「触られた」

 冬真が少し遅れて答える。

「だろうな」

「軽く言わないで」

「軽く言ってない」

 その返しが少し掠れている。

 でも、ここにいる。


 綾人が祓殿を振り返りながら低く言った。

「最深部は見えた」

「……」

「向こうも、千歳へ触れ始めた」

「……」

「これで条件は揃った」

 千歳は唇を噛む。

 つまり、次は本当に最後だ。

 もう観測や準備の段階ではない。


 冬はまだ終わらない。

 でも、終わりの場所は、はっきり見えた。


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