第6章 第3話:最後の準備
朝は、静かなまま冷えていた。
仮殿の板戸の向こうで、雪を踏む音が遠く鳴る。囲炉裏の火は細く残り、その赤さだけがこの場所を人の側へ引き留めていた。
千歳は囲炉裏の前に座ったまま、灰の中の小さな火を見ていた。
次で終わる。
綾人はそう言った。
たぶん本当に、その段階まで来ている。
流し路と核の噛み合いは崩した。
冬真の中の道も少し薄くなった。
でも、意味の核は残った。
だから次は、その“残したかったもの”を抱えたまま終わらせるしかない。
それがどれだけ危ういことかも、もう十分わかっていた。
「……千歳」
低い声に顔を上げる。
冬真が壁際からこちらを見ていた。
顔色は相変わらず良くない。
でも、その目はちゃんとここを見ている。
「何」
「考えすぎ」
「そっちも」
返すと、冬真は少しだけ目を細めた。
「俺は元からだ」
「便利な逃げ方」
「知ってる」
そのやり取りに、ほんの少しだけいつもの温度が戻る。
それだけで、胸の奥の硬さが少しゆるむ。
「冬真」
「何だ」
「今どこ」
冬真は小さく息を吐く。
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「うん」
「満足か」
「まだ」
「だろうな」
その返しが、少しだけ遠い。
でも意味は届く。
今はそれでいい。
◆
綾人は朝から、仮殿の中央で札を並べていた。
流し路用。
核固定用。
外周の封じ。
そして、人を人の側へ留めるための細い札。
今までと同じようでいて、置き方が少し違う。
ひとつひとつの距離が狭い。
重ねも深い。
最終突入のための配置なのだと、見ればわかった。
「今日やるのは、最後の確認だ」
綾人が低く言う。
「祓殿へ入る前の、か」
冬真が問う。
「そうだ」
綾人は頷く。
「固定の順」
「……」
「声の重ね方」
「……」
「お前たちがどこで崩れやすいか」
千歳は膝の上で手を握り直す。
最後の準備。
それはつまり、もう逃げ場のないところまで来たということだ。
「千歳」
綾人が呼ぶ。
「何」
「次の最深部では、お前の“戻し”はこれまでと少し違う」
「……」
「名前や位置確認だけでなく」
「……」
「意味の核へ届く呼び方を維持し続けろ」
千歳は小さく頷く。
言葉としてはわかる。
でも、それを本当にやるとなると簡単ではない。
名前だけではなく、その人との関係の深さそのものへ声を届かせる。
そんなことが本当にできるのか、不安がないわけではない。
「不安そうだな」
冬真が低く言う。
「不安だよ」
千歳は正直に返した。
「むしろ何で平気そうなの」
「平気じゃない」
「そう見える」
「見えるようにしてる」
あっさり返ってきた答えに、千歳は少しだけ言葉を失う。
そうか。
この人はまだ、そうやって見せ方で持ちこたえようとするのだ。
「それ」
千歳は低く言う。
「次はなし」
冬真が目を細める。
「何が」
「平気そうにするやつ」
「今さらだろ」
「今さらだから」
一拍置く。
「もう一人で守る顔しないで」
その言葉に、冬真の表情がほんの少しだけ止まる。
綾人は何も言わない。
止めないのは、それが必要な会話だとわかっているからだろう。
「……難しいこと言うな」
やがて冬真が低く言う。
「今さらだよ」
千歳が返すと、冬真は小さく息を吐いた。
◆
午前のうち、綾人は実際の流れを仮殿の中で何度も確認させた。
戸口からの圧が来たと想定する。
冬真が視線を遠くへやる。
千歳は少しずれた位置から呼ぶ。
綾人は札を切り、外周の固定を重ねる。
そのたびに言葉の順番を変えず、温度を変えすぎず、日常の雑音を混ぜる。
「今どこ」
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「しつこい?」
「しつこい」
「面倒?」
「面倒」
「知ってる?」
「知ってる」
何度も繰り返す。
口にしている内容だけ見れば、どうでもいい。
でも、どうでもいいから強いのだと今はわかる。
感情を剥き出しにしすぎると、怪異に意味を食われる。
だからこそ、暮らしの温度を持った雑音が必要になる。
「千歳」
綾人が言う。
「はい」
「次の最深部では、ここにさらに一つ足す」
「一つ」
「そうだ」
綾人は囲炉裏の灰を指でなぞった。
「“戻ってきたあとの現実”を先に置け」
千歳は眉を寄せる。
「戻ってきたあと」
「たとえば」
綾人は続ける。
「終わったら何を言うか」
「……」
「終わったら何をするか」
「……」
「それを、まだ終わる前に差し出す」
千歳は少しだけ息を呑む。
それはたぶん、ただ現実を確認するより深い。
帰る場所そのものを先に差し出すやり方だ。
「効くの」
問うと、綾人は短く答えた。
「効く可能性が高い」
「絶対じゃない」
「当然だ」
容赦のない返答。
でも、今はそれでいい。
絶対だと言われる方が嘘になる。
「冬真」
綾人が呼ぶ。
「何だ」
「お前もやれ」
「何を」
「戻る前提で思考を保て」
冬真が小さく顔をしかめる。
「面倒だな」
「面倒な方を選べ」
「雑な指示」
「正しい指示だ」
綾人は即答した。
◆
昼過ぎ、少し休憩を挟んだあと、千歳は仮殿の裏手へ出た。
雪はまだ残っている。
踏み固められた白のあいだから、黒い地面が少し見える。季節はまだ冬の中にあるのに、どこかでわずかに終わりの匂いもした。
寒い。
でも、床下の湿った冷えとは違う。
ただの冬の寒さだ。
「ここにいたか」
綾人の声。
振り向くと、綾人が外套を着たまま立っていた。
「少しだけ、息抜き」
千歳が言うと、綾人は頷いた。
「必要だ」
「珍しい」
「お前が直前で硬くなると面倒だからな」
「結局そこも面倒なんだ」
「大抵のことはそうだ」
平然と返されて、千歳は少しだけ肩の力を抜く。
「綾人さん」
「何だ」
「次」
一拍置く。
「本当に終わると思いますか」
綾人は少しだけ視線を遠くへやった。
すぐには答えない。
やがて、低く言う。
「終わらせる」
千歳はその言葉を静かに受け取る。
「思う、じゃなくて」
「ここまで来て、思うで動く気はない」
綾人は続ける。
「流し路も、核も、構造も、もう先送りはさせん」
「……」
「ただし」
一拍置いて、
「何も失わずに済むとは言わん」
その現実は痛い。
でも、もう聞ける。
痛いままでも、目を逸らさずに聞けるところまで、自分も来たのだと思った。
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「何」
「お前が次で崩れるとしたら」
「……」
「怖さより、欲だ」
千歳は少しだけ眉を寄せる。
「欲」
「全部残したいという欲」
図星だった。
その言葉に反論できない。
「それは悪いことじゃない」
綾人は続ける。
「だが」
「……」
「全部守るために一線を越えるな」
「……」
「最終局面では、どこかで止まる判断も必要になる」
千歳はゆっくり頷く。
難しい。
でも、本当に必要な言葉だった。
◆
夕方が近づくころ、仮殿の中で最後の確認が行われた。
「次」
綾人が静かに言う。
「最深部で、冬真がまた自分を切る方へ寄る可能性が高い」
千歳はすぐに冬真を見る。
冬真は露骨に嫌そうな顔をした。
「またその話か」
「必要だからだ」
綾人は返す。
「お前の癖は最後まで残る」
「……」
「だから先に潰しておく」
冬真は何も言わない。
否定できないのだろう。
「冬真」
千歳が低く呼ぶ。
「何だ」
「次」
一拍置く。
「本当に、一人で決めないで」
冬真は少しだけ目を細める。
「それ、今日何回目だ」
「何回でも言う」
「面倒」
「知ってる」
「……」
「わたしも一緒に決める」
その言葉に、冬真は一瞬だけ言葉を失ったように黙った。
それから、ひどく小さく息を吐く。
「……わかった」
千歳は目を瞬く。
「え」
「一応」
「一応って何」
「全部は無理でも」
一拍置いて、
「勝手には決めないようにする」
その返答は完璧ではない。
でも、この人にしては十分すぎるくらい大きかった。
「善処よりまし」
千歳が言うと、冬真の口元が少しだけ動く。
「厳しいな」
「当然」
「知ってる」
その応酬を、綾人は何も言わずに聞いていた。
けれど、最後に小さく頷く。
「それでいい」
その一言が、今は何より重かった。
◆
夜、仮殿の火が少しだけ落ち着いたころ、千歳は布団に入る前にもう一度だけ冬真を見た。
顔色は悪い。
疲れている。
でも、ここにいる。
今はまだ、そのことを確かめられる。
「冬真」
小さく呼ぶ。
少し遅れて視線が向く。
「何だ」
「今どこ」
冬真はほんの少しだけ呆れた顔をした。
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「……面倒」
「知ってる」
そこまで返ってきて、千歳はようやく小さく息を吐いた。
次で終わる。
終わらせる。
そのための最後の準備は、もう整いつつあった。




