第1章 第8話:境を裂く声
「――千歳」
その呼び声が落ちた瞬間、仮殿の空気が変わった。
炭火のぬくもりは一気に遠のき、薄い板壁の向こうから、冬より冷たい何かが染み込んでくる。札の貼られた正面の壁は、上から順に黒ずみ、文字がじわじわと滲んでいった。
まるで墨を落とした紙みたいに、結界そのものが内側から腐っていく。
「下がれ」
冬真が短く言う。
千歳は息を呑んだまま動けずにいた。
その肩越しに見える壁の影は、さっきよりさらに濃くなっている。輪郭がはっきりしてきていた。腕の長さも、肩の異様な張りも、首の位置の低さも、もはや影だけでは誤魔化せない。
壁一枚隔てた向こうに、“いる”。
「綾人」
冬真が低く呼ぶ。
「わかっている」
綾人はすでに札を三枚、指の間に挟んでいた。
「だが今の状態で正面から受けるな。お前はもう削れすぎている」
「今さらだ」
「今さらでは済まない相手だ」
その言葉と同時に、正面の札が一枚、ぱちん、と乾いた音を立てて裂けた。
千歳が肩を震わせる。
冬真は反射で彼女の前へ踏み出した。
その動作だけで、左腕の痣が灼ける。背中に残った黒い腕の痕も、痛みを思い出したみたいに脈打った。
「冬真」
千歳が掠れた声で名を呼ぶ。
「だめ、もう……」
「黙ってろ」
強く言ったつもりはなかった。
だが声が思った以上に鋭くなり、千歳の表情が痛そうに揺れる。
まただ、と胸の奥で何かが軋む。
守るために立つたび、先に傷つける。
その一瞬の迷いを、向こうは見逃さなかった。
どん、と鈍い音が仮殿全体を揺らす。
壁の向こうの影が、今度は掌を押し当てたのだ。人の手の形に似ているのに、指の数が多い。壁板の向こうからでも、その異様さがはっきりわかる。
貼られた札が、じゅ、と焼ける音を立てた。
「来るぞ!」
綾人が叫ぶ。
次の瞬間、正面の板壁が内側へ膨らんだ。
破れる。
冬真は懐の札を一気に抜き、床へ叩きつけた。
「断て!」
赤い光が扇状に走る。
壁の前に薄い境が張られ、同時に綾人の札が左右から飛ぶ。白い紙片が刃のように板壁へ突き立ち、内側へめくれかけた黒を押し返す。
濁った笑い声が、壁の向こうで響いた。
「そんなに」
女とも男ともつかない声だった。
「隠したいの」
「黙れ」
冬真が吐き捨てる。
「この子に、知られたくないの」
ぞくり、と背筋が冷える。
綾人の視線が一瞬だけ冬真に向いた。
千歳も、息を止める気配がした。
まずい。
向こうは、ただ呼ぶだけではない。
こちらの一番痛いところを知っている。千歳の優しさも、自分の隠し事も、そのどちらをどう揺らせば一番崩れるかを、まるで最初から理解しているみたいに。
「聞くな!」
冬真が振り返らずに叫ぶ。
だが千歳は、怯えたまま小さく呟いた。
「……何を」
その問いが胸に刺さる。
答えを返す前に、正面の壁がついに裂けた。
ばき、と木が割れる音。
冷たい夜気と一緒に、黒いものが雪崩れ込んでくる。
腕だ。
けれど第5話で見たものより、もっと大きい。肩口の先が見えないほど太く、表面は濡れた和紙を何枚も貼り重ねたみたいにざらついている。
その先端の手だけが異様に白く、節の多い指がゆっくり開いた。
真っ直ぐ、千歳へ向かって。
冬真は考えるより先に飛び込んでいた。
右手で千歳の肩を押し、背後へ庇う。左腕を突き出し、黒い手を受ける。
「っ、ぁ……!」
骨まで凍るような痛みが走る。
皮膚の上ではない。腕の中へ、黒い泥を無理やり流し込まれるみたいな感覚だった。痣が一気に熱を帯び、包帯の下で裂ける。
「冬真!」
千歳の叫びが近い。
「下がれ!」
怒鳴り返しながら、冬真は黒い手首を掴んだ。
重い。熱いのに冷たい。矛盾した感覚が全身を駆け巡る。
「返せ」
低く命じると、赤黒い光が痣から逆流した。
黒い腕がびくりと震える。
だが、吸いきれない。今まで相手にしてきたどの怪異よりも密度が濃い。こちらへ流し込まれる量の方が速い。
まずい、と本能が叫ぶ。
その瞬間、綾人が横から踏み込んだ。
「抱え込むな!」
銀針が三本、冬真の足元と黒い腕の影へ打ち込まれる。
境がねじれ、黒い腕の動きが一瞬だけ鈍った。そこへ綾人の札が重なる。
「裂けろ!」
白い閃光が走る。
黒い腕の肘から先が断ち切られ、仮殿の床へ落ちた。落ちたはずのそれはどろりと溶け、黒い霧になって畳を這う。
冬真はよろめいた。
千歳の肩を押した右手が震えている。左腕はもう感覚が曖昧で、指先がちゃんと動いているかもわからない。
それでもまだ終わっていない。
正面の裂けた壁の向こうには、影の“本体”が立っている。
夜そのものを切り抜いたみたいに巨大で、頭の位置は異様に低い。
人の形をしているのに、人として成立していない。
その胸のあたりから、細い黒い糸が幾重にも伸びていた。
その先は全部、仮殿の中――千歳へ向いている。
千歳が息を呑む。
「綾人」
冬真が掠れた声で言う。
「あれ、糸を断てば」
「切れるほど浅くない」
「なら」
「触るな。お前が触れれば、今度こそ持っていかれる」
言い終えるより早く、影が動いた。
巨体のわりに速い。
裂けた壁を押し広げるでもなく、黒い霧そのものになって滑り込んでくる。
冬真は咄嗟に千歳を庇いながら札を投げたが、すり抜けられた。
霧は足元から回り込み、千歳の足首へ絡みつく。
「っ……!」
千歳の身体が硬直する。
呼吸が浅くなる。目が揺れ、焦点が外れかける。
「千歳!」
冬真が腕を伸ばす。
その瞬間、千歳が小さく呟いた。
「……行けば、いいの?」
時間が止まったように思えた。
綾人の顔色が変わる。
冬真の胸に、ぞっとするほど冷たいものが落ちる。
影は、笑っていた。
口などないくせに、確かにそう感じた。
「そうよ」
湿った声が甘く囁く。
「お前が来れば、あの子はこれ以上壊れない」
だめだ、と冬真は思った。
それだけは言わせてはいけない。
その理屈に乗せてはいけない。
「千歳、聞くな!」
叫ぶ。
だが彼女の瞳は揺れたままだった。
「冬真、ずっと苦しそうだった」
千歳の唇が、夢の中みたいに微かに動く。
「わたしがいたから……?」
「違う!」
怒鳴るように否定した声は、仮殿の中で鋭く弾けた。
千歳がびくりと肩を震わせる。
冬真はそこで初めて、自分がほとんど悲鳴に近い声を出していたことに気づく。
「お前のせいじゃない」
喉が焼ける。息が痛い。それでも言葉を押し出す。
「絶対に違う」
「でも」
「でもじゃない!」
千歳の目に涙が滲む。
傷つけた。わかる。それでも今は優しい言い方なんて選んでいられない。
「勝手に、自分を理由にするな」
冬真は一歩踏み出した。
足元が揺れる。黒い霧が脛へ絡む。構わない。
「お前がいなくなって、楽になることなんか一つもない」
言った瞬間、自分で息を呑んだ。
ここまで剥き出しの本音を、今まで一度も口にしたことがなかったからだ。
千歳の瞳が大きく見開かれる。
黒い霧がざわつく。
影の輪郭が揺れる。嫌がっているのがわかった。こちらの言葉が、向こうの誘いを乱している。
「冬真」
千歳が、今度ははっきりこちらの名を呼ぶ。
冬真はその隙を逃さなかった。
懐に残っていた最後の深札を抜く。普段なら絶対に使わない、身代を前提にした札だ。血だけでは足りない。もっと深いものを削る札。
綾人が目を見開く。
「待て、それは――」
「今しかない」
言い切って、冬真は札へ自分の血を押しつけた。
紙が赤ではなく、暗い朱に染まる。腕の痣が熱を通り越し、痺れに変わる。
「冬真、だめ!」
今度は千歳が叫ぶ番だった。
冬真は影を見据えたまま、低く言う。
「断ち切れ」
札を床へ叩きつける。
仮殿の中に、音のない衝撃が広がった。
赤黒い線が畳の目を走り、千歳へ伸びていた黒い糸を一斉に焼き切る。霧が悲鳴を上げ、影が半歩ぶんだけ後退する。
だが反動は、全部こちらへ返ってきた。
肺が潰れるみたいに苦しい。
視界が白く飛び、足元が完全に崩れる。
「っ、ぁ……!」
倒れる、と思った瞬間、誰かが腕を掴んだ。
千歳だった。
今度は彼女の手がはっきりと冬真の右腕を支えている。震えているのに、離さない。
「離せ!」
反射的にそう叫ぶ。
けれど千歳は首を振った。
「離さない」
その一言が、想像よりずっと強かった。
「だって」
涙を滲ませたまま、千歳が言う。
「今、ちゃんと聞こえたから」
何が、と聞き返す余裕はなかった。
黒い影はまだ消えていない。綾人が札と銀針で押し返しているが、仮殿の外側でうねる気配はむしろ濃くなっている。
「二人とも下がれ!」
綾人が怒鳴る。
「今ので境は一度切れた! この隙に――」
言葉の途中で、仮殿の奥、千歳の背後の壁にひびが入った。
まずい。
正面だけではない。向こうは最初から、出入口を一つに絞っていなかったのだ。
冬真は千歳を引き寄せるように抱き込んだ。
もう隠してどうこうの距離ではない。今は守るしかない。
ひび割れた壁の向こうから、無数の細い指が差し込まれてくる。
正面の影もまた、裂け目からゆっくり腕を伸ばす。
挟まれる。
綾人が舌打ちした。
「……持たない」
冬真は呼吸を整えようとした。
だが吸った空気がうまく肺へ入らない。深札の反動が大きすぎた。あと一手あるかどうかも怪しい。
それでも、千歳の肩が腕の中で震えているのがわかる。
怖いだろう。
当然だ。
なのに彼女は逃げず、自分を支えようとしている。
その事実が、皮肉なくらい胸を締めつけた。
「冬真」
千歳が掠れた声で言う。
「わたし、もう……何もわからなくていいから」
「何言って」
「でも、これだけは嘘にしないで」
冬真が顔を向ける。
千歳は泣きそうな顔で、でもまっすぐこちらを見ていた。
「わたしがいなくなっても平気なんて、思ってないって」
声が震える。
「今の、ちゃんと本当だって言って」
心臓が止まりそうになる。
言ってはいけない。
ここでそれを認めれば、隠してきたものの輪郭が一気に近づく。
そう頭ではわかっているのに。
正面の影が嗤う。
背後の壁も軋む。
仮殿はもう保たない。
そのすべての狭間で、冬真は数秒だけ目を閉じた。
そして、ぎりぎり絞り出すように言った。
「……嘘じゃない」
千歳の目から、とうとう涙が零れた。
同時に、仮殿の正面の壁が大きく崩れた。
夜の闇が、雪崩れ込む。




