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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第1章 第9話:崩れる夜の、その前で


 夜の闇が、雪崩れ込む。


 仮殿の正面が崩れた瞬間、冷気と一緒に黒い霧が床を這った。炭火の赤は一気に掻き消え、部屋の中は夜より深い色に沈む。

 千歳の肩が腕の中で強く震えた。


 冬真は反射的に彼女を抱え込み、背を向ける。


 背後で、何か巨大なものが敷居を越えた。


 音は重いのに、足音そのものはない。

 濡れた紙を何枚も引きずるような、不快な擦過音だけがじわじわと近づいてくる。正面の崩れた壁から差し込む薄い月明かりが、その輪郭をようやく浮かび上がらせた。


 人の形をしている。

 けれど人間ではない。


 肩幅は異様に広く、首は短すぎる。腕は膝より下まで垂れ、その先の手には節の多い指が何本も揺れていた。

 顔らしきものはある。目鼻の配置も、遠目には人間に見える。なのにそのどれもが少しずつ狂っていて、見れば見るほど“似ているだけ”だとわかる顔だった。


 影は仮殿の中へ半身を滑り込ませると、ゆっくり首を傾げる。


 その視線が、冬真ではなく千歳に落ちた。


「千歳」


 またその優しい声。

 慈しむような響きで名を呼ばれ、千歳の呼吸が浅くなるのが腕の中から伝わってきた。


「聞くな」

 冬真が低く言う。

「見るな」


 千歳は小さく頷いた。

 だが彼女の手は、冬真の服を掴んだまま離れない。


「綾人!」

 冬真が叫ぶ。


「やっている!」


 綾人はすでに壁際へ回り込み、銀針を床へ打ち込んでいた。

 一本、二本、三本。

 針が落ちるたび、仮殿の床に薄い線が走る。白い光が格子のように広がり、影の足元を縫い止めようとする。


 だが影は、笑った。


 口の端がわずかに上がる。

 次の瞬間、その足元から黒い泥のようなものが溢れ、床を這って銀針を呑み込んだ。


「ちっ……!」


 綾人が舌打ちする。

 光の格子が一気に濁る。


 冬真は千歳を背後へ押しやり、懐を探った。

 残り札は少ない。深札はもう使った。ここから先は、温存も何もない。ただ、どこまで身を削れるかだけだ。


 影が一歩、踏み込む。

 床板が軋む。


「返せ」

 冬真は札を抜き、血の滲む指で文字をなぞった。

「お前の居場所はこっちじゃない」


 札を投げる。

 赤い光が一直線に影の胸を裂いた。


 だが浅い。

 紙が焼けるように消えただけで、影は止まらない。


 むしろその胸の奥から、さらに細い黒い糸が幾重にも伸びた。

 糸は空中を泳ぐように進み、冬真の脇をすり抜けて千歳へ向かう。


「させるか!」


 冬真は身を投げるように前へ出た。

 糸を左腕で受ける。


「――っ!」


 触れた瞬間、全身の血が逆流したような痛みが走る。

 糸は冷たいのに、内側へ入ると焼けるように熱い。包帯の下の痣が、今まででいちばん強く脈打った。


 膝が揺れる。

 だがここで崩れれば終わる。


 冬真は糸を掴み、無理やり引き寄せた。

「返せ!」


 黒い糸がびくりと震える。

 影の輪郭が一瞬だけ揺らぎ、低い唸り声が漏れた。


「まだ、足りないか」

 湿った声が嗤う。

「どこまで肩代わりするの」


 千歳が息を呑む音がした。


 肩代わり。

 その単語だけで、空気の温度が変わる。


 まずい。

 向こうはわざとだ。

 ここで千歳に気づかせるつもりではなく、もっと半端な形で疑問だけを深く刻みたいのだ。


「聞くな!」

 冬真が叫ぶ。


 その直後、影が大きく腕を振るった。

 黒い風圧が仮殿の中を薙ぎ払う。


 綾人の札が散り、卓がひっくり返る。炭火が床へ転がり、火の粉が散った。

 冬真は千歳を庇いながら吹き飛ばされ、背中から壁へ叩きつけられる。


「っ、ぁ……!」


 息が詰まる。

 肺から空気が抜けた。


 千歳がすぐ傍で手をついた。

「冬真!」

「来るな!」


 怒鳴るより先に、影がまた一歩踏み込んでくる。

 今度は正面からではない。崩れた壁の裂け目を広げるように、肩から部屋へ押し入ってくる。


 このままでは仮殿ごと呑まれる。


 綾人が立ち上がり、血の滲んだ札を二枚重ねた。

「冬真! 一度、外へ出せ!」

「無理だ」

「仮殿を落とす」

「千歳が巻き込まれる!」


「このままでも同じだ!」


 それは正論だった。

 だが正論に従ったところで間に合う保証はない。


 冬真は歯を食いしばり、立ち上がろうとする。

 視界が歪む。足元が定まらない。

 深札の反動がまだ残っている。さっきの一撃でさらに奥まで食い込まれた。これ以上まともに受ければ、次は立てないかもしれない。


 それでも立つしかなかった。


 そのときだった。


「やめて」


 千歳の声が、はっきり響いた。


 冬真も綾人も、一瞬だけ動きを止める。

 千歳は壁際に手をつきながら、それでも自分の足で立っていた。震えている。顔色も悪い。けれど瞳だけは、今まででいちばんまっすぐだった。


「もう、やめて」

 その言葉は、影に向けたものだった。


 影の動きが、わずかに鈍る。


「呼ばれてるのは、わたしなんでしょ」

 千歳は一歩だけ前へ出る。

「だったら、冬真じゃなくて、わたしに言って」


「千歳!」

 冬真が叫ぶ。

「喋るな!」


 だが千歳は止まらなかった。


「わたしが行けば、この人は苦しまなくて済むの?」


 冬真の背筋が凍る。


 違う。

 そうじゃない。

 その問いの立て方自体が、もう向こうに呑まれかけている。


 影は嬉しそうに首を傾げた。


「そうよ」

 湿った声が甘く囁く。

「お前が来れば、あの子はこれ以上傷つかない」

「千歳、聞くな!」

「村も?」

 千歳は続ける。

「わたしが行けば、村も無事なの?」


「そうだ」

 声が笑う。

「お前は優しい子だもの」


 冬真の中で、何かが完全に切れた。


「黙れッ!!」


 喉が裂けるような声だった。

 仮殿の空気が震える。


 千歳がびくりと肩を跳ねさせる。

 それでも冬真は止まらなかった。


「そんな言葉で、あいつを呼ぶな」

 息が痛い。胸も腕も焼けるように痛む。それでも一歩ずつ前へ出る。

「勝手に、あいつの優しさを使うな」


 影がゆっくり顔を向ける。

 冬真を見る。

 初めて、“邪魔なもの”として認識したような目だった。


「お前は」

 冬真は低く続ける。

「最初からそれしかできないんだな」


 挑発だとわかっていた。

 綾人が横で息を呑む気配がする。


 だが、それでも言わずにいられなかった。

 この怪異は、千歳の優しさを餌にしている。

 “自分さえ差し出せば”という最悪の理屈へ、ずっと彼女を誘っている。

 それが許せなかった。


 影の輪郭が、大きく揺れた。


 笑っていた顔が、ほんの少しだけ崩れる。


「小さな人間が」

 声の温度が変わる。

 低く、底冷えのする響きに。

「どこまで庇う」


「庇う」

 冬真は吐き捨てた。

「当たり前だろ」


 千歳が小さく息を呑む。


 そのまま、冬真は最後の残り札を全部抜いた。

 三枚。

 浅い札だ。だが重ねれば時間は稼げるかもしれない。


「綾人! 正面を切れ!」

「無茶を言う」

「今さらだ!」


 答えるより先に、冬真は走った。


 影へ正面から踏み込む。

 黒い腕が振り下ろされる。避けずに受ける。右肩に激痛が走る。骨が軋む。

 それでも倒れない。


 千歳の前に立つ。

 その一点だけで、どうにか踏みとどまる。


「断て!」


 三枚の札を影の胸元へ叩きつけた。

 赤い光が爆ぜ、影の身体が半身ほど裂ける。裂け目の向こうに青白い空洞が覗いた。奥座敷の床の間で見た“穴”と同じ色だ。


 綾人がそこを逃さなかった。

「そこか!」


 銀針が五本、一斉に飛ぶ。

 空洞の縁へ突き刺さり、白い光が走る。


 影が絶叫した。


 人の声にも、獣の声にも似ていない、聞いた者の胃の底を掻き回すような叫びだった。

 仮殿の壁が揺れ、雪が屋根から崩れ落ちる。


 冬真は耳鳴りの中で、なお一歩踏み込もうとして――そこで、身体がついに言うことを聞かなくなった。


 膝が折れる。


「冬真!」


 千歳の声が遠い。

 近いのに遠い。


 床へ手をつく。

 その手の甲に、赤黒い痣が指先近くまで広がっているのが見えた。ここまで来ているのか、と妙に他人事みたいに思った。


 まずい。

 立て。

 まだ終わっていない。


 だが腕に力が入らない。


 影は裂けた身体を引きずりながらも、まだ消えていなかった。

 銀針に縫われ、札に焼かれ、それでもなお青白い空洞を中心に再生しようとしている。


「綾人……!」

 冬真が掠れた声で呼ぶ。


「わかっている!」

 綾人は新しい札を抜きながらも、顔色が悪い。こちらも消耗しているのだろう。

「だが封じきるには、核を押し戻すしかない!」


「押し、戻す……」

「誰かが境を跨いで打つ必要がある!」


 誰か。

 それが誰を指すのか、考えるまでもなかった。


 冬真は歯を食いしばり、立ち上がろうとする。

 そのとき、千歳が目の前へ膝をついた。


「だめ」

 涙声だった。

「もうだめ」


「千歳」

「行かないで」

 その一言が、真っ直ぐ胸に刺さる。


「わたしのせいで、これ以上」

「違う」

 冬真はすぐに否定した。

「だから、それは違う」

「でも冬真、もう……」


 千歳の目が、冬真の腕を見る。

 包帯はほとんど赤黒く染まり、袖の下から覗く皮膚にも痣が走っている。


 隠せない。

 もう、どれだけ平気だと言っても誤魔化せないところまで来ていた。


「……平気だ」

 それでも言うしかない。

 千歳の目が揺れる。傷ついた、というより、泣きたくなるほど困っている顔だった。


「どうして」

 千歳が震える声で言う。

「どうして、そんな嘘ばっかりつくの」


 答えられない。


 答えたら最後だ。

 そう思い続けてきた。

 だが今この瞬間、何も言わないことの方が、もっと彼女を追い詰めている気もした。


 冬真が言葉を探した、その一瞬。


 背後で、影の空洞が大きく脈打つ。


 綾人が叫ぶ。

「来るぞ!」


 青白い空洞から、今度は腕ではなく、“門”そのものが開きかけた。

 仮殿の奥に、社へ繋がる異界の裂け目が広がろうとしている。


 まずい。

 これが開けば、もう仮殿どころでは済まない。


 冬真は咄嗟に千歳の肩を押した。

「下がれ」


「冬真」

「下がれ!」


 千歳は涙を滲ませたまま、首を振る。

「いや」


 その拒絶は、これまでのどの言葉より強かった。


「もう、ひとりで決めないで」

 声が震える。

「お願いだから」


 心臓が強く打つ。

 この状況で言われるには、あまりにも痛い言葉だった。


 けれど今は、それに答える時間がない。


「……悪い」


 また謝ってしまう。

 そう言って、冬真は最後の力で立ち上がった。


 千歳の手が袖を掴む。

 離れない。


「行かないで」

 か細いのに、どうしようもなく真っ直ぐな願いだった。


 冬真は、その手を一瞬だけ見た。


 昔、雪道で転んだ千歳に差し出した手。

 泣きそうなときに先に見つけたかった顔。

 遠ざけながらも、ずっと守りたかったもの。


 それが今、自分を止めている。


 胸が痛かった。

 怪異の傷じゃない、別の痛みで。


 それでも冬真は、震える指先で千歳の手をそっと外した。


「待ってろ」


 ひどく低い声だった。


 次の瞬間、冬真は影の空洞へ向かって踏み込んだ。


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