第1章 第10話:境の向こうへ踏み出す理由
次の瞬間、冬真は影の空洞へ向かって踏み込んだ。
「冬真!」
千歳の叫びが背中を打つ。
振り返らない。
振り返れば止まる。
止まれば終わる。
空洞の縁は、近づくほど色を失っていた。青白い光ではない。光の皮を被った底なしの穴だ。仮殿の冷気も、雪の匂いも、綾人の札の焦げる匂いも、その手前で全部途切れている。
そこへ足を踏み入れる瞬間、冬真ははっきり悟った。
ここを越えれば、ただでは済まない。
それでも構わなかった。
「戻れ!」
綾人の怒声が飛ぶ。
「今のお前が境を跨げば、呑まれる!」
「呑まれる前に押し返す!」
言い返すと同時に、冬真は裂け目の縁へ札の燃え残りを叩きつけた。
赤黒い火花が散る。
空洞がぶるりと波打つ。
その反動だけで、左腕の痣が肩口まで灼け上がった。骨の内側を削られているみたいな痛みが走る。けれどもう、痛みに構っている余裕はない。
影が笑う。
裂けた仮殿の正面に立つその巨体は、半身を失いながらなお揺らいでいた。青白い空洞を胸に抱えたまま、黒い糸を何本も千歳へ伸ばそうとしている。
冬真は空洞の前に身を滑り込ませ、そのすべてを遮った。
「邪魔」
湿った声が囁く。
「そうだよ」
冬真は吐き捨てる。
「最初からそのつもりだ」
そう言って、空洞の縁へ右手を突き込んだ。
瞬間、世界が裏返る。
「――っ、ぁ!」
冷たい。
熱い。
痛い。
その全部が同時に襲ってきた。
空洞の向こう側は“場所”ではなかった。形のない夜だった。底のない井戸の中へ腕を差し入れたみたいに、何もないのに何かが全身へまとわりつく。
過去に引き受けた穢れが、一斉に反応する。
手の甲。
肘。
肩。
背中。
胸の奥。
これまで肩代わりしてきた無数の痕が、いっせいに熱を持って浮かび上がる。
忘れていた古い痛みまで、全部まとめて呼び起こされた。
見えるわけがないのに、断片が脳裏を掠めた。
千歳が幼い頃、高熱を出した夜。
川辺で足を滑らせかけた日。
神社の石段で、何かに名を呼ばれて立ち止まった冬の夕方。
村で小さな祟りが起きるたび、なぜか彼女だけ無事だった夜。
そのたびに、冬真は知っていた。
向かう先を、少しだけ逸らした。
代わりに、こっちへ引き受けた。
だから今さら、どれが最初だったかもわからない。
空洞の中で、声がした。
「そんなに」
女とも男ともつかない、ぬるい声。
「一人で抱えて」
冬真は歯を食いしばる。
答える必要はない。
「知られたくないの」
その声が嗤う。
「この子に」
胸の奥が強く軋んだ。
違う。
知られたくない、だけじゃない。
知られたら、千歳は絶対に自分を差し出す。
それがわかっているから、最後まで隠すと決めたのだ。
だから。
「……黙れ」
掠れた声を、無理やり押し出す。
「お前に話すことじゃない」
空洞の向こう側が、わずかにざわめく。
怒ったのだろう。
冬真はそこへさらに踏み込んだ。
片膝まで境が沈む。
足元の感覚がなくなる。代わりに、身体の内側を這う冷たいものが増えていく。
「冬真!」
今度は千歳の声が近かった。
「だめ、戻って!」
その一声だけで、意識が現実へ引き戻される。
振り返らなくてもわかる。泣きそうな顔をしているのだろう。自分を止めたくて、でも近づけば余計に悪化することも、もう少しは気づいているのだろう。
だから、余計に苦しい。
「戻れない」
思わず零れた言葉は、独白みたいに低かった。
「戻って!」
千歳の声が重なる。
「お願いだから……!」
お願い。
その響きに、ほんの一瞬だけ足が止まりかける。
昔からそうだ。
千歳にそう言われると、自分は弱い。
けれど今は、それに従えない。
「……待ってろ」
振り返らないまま、冬真は言う。
「すぐ終わらせる」
嘘だった。
すぐ終わる保証なんてない。
けれど、そうでも言わなければ千歳は余計に自分を責める。
綾人が仮殿の床を蹴った。
「押し戻すなら今だ! 核はその奥にある!」
「見えてる!」
「見えているならさっさとやれ! それ以上沈めば本当に帰れなくなる!」
冬真は浅く息を吐いた。
帰れない、か。
そんな言葉は、これまで何度も頭をよぎった。けれどそのたび、自分は無視してきた。
帰るためにやっているのではない。
千歳を、明日の側へ残すためにやっている。
だから。
冬真は空洞の奥へ、さらに右手を差し入れた。
指先に、何かが触れる。
冷たく、硬い。
石か、骨か、それとも凍った心臓か。
形は定かでないのに、そこが“核”だと直感でわかった。
掴む。
瞬間、空洞の全体が狂ったように脈打った。
仮殿の中で、影が絶叫する。
壁が揺れ、梁が軋み、崩れた正面から雪が吹き込んだ。
千歳が小さく悲鳴を呑む。
「離せ」
湿った声が、今度ははっきり怒気を帯びる。
「嫌だね」
答えながら、冬真は核を握り潰すように力を込めた。
だが簡単には砕けない。逆にそこから黒い脈が腕を伝い、一気に胸元まで這い上がる。
「っ……!」
視界が白く弾ける。
喉から血の味がせり上がった。
まずい。
このままでは、核より先に自分が呑まれる。
綾人が叫ぶ。
「冬真、引け!」
「まだ……!」
「それ以上は肩代わりじゃ済まない!」
肩代わり。
その言葉が、仮殿の中で不自然に大きく響いた。
千歳の息が、確かに止まるのがわかった。
しまった、と思ったが遅い。
冬真は歯を食いしばり、無理やり核を引きずり出そうとする。もう今は、余計なことを考えている余裕はない。
そのとき。
「肩代わりって、なに」
千歳の声がした。
静かなのに、あまりにも鋭かった。
冬真の心臓が跳ねる。
綾人も、一瞬だけ言葉を失った気配がある。
「冬真」
もう一度、千歳が呼ぶ。
「今の、どういう意味」
答えられない。
答えてはいけない。
そう思うのに、空洞の中の核は嘲るように脈打つ。
向こうもわかっているのだ。自分が一番隠したい言葉に、ついに千歳が触れたことを。
「教えて」
千歳の声が震える。
「何を、わたしに隠してるの」
胸が締めつけられる。
今ここで言えば、まだ早い。
最後の最後でバレるからこそ、この物語の核になる。
まだここでは、全部は明かせない。
だが完全に誤魔化すことも、もう難しい。
冬真は奥歯を噛み、空洞の中で低く言った。
「……聞くな」
「聞く」
「千歳」
「聞くよ!」
初めて、千歳が泣きそうな声で言い返した。
「だって、わたしのせいで冬真が苦しいなら」
「違う!」
反射で怒鳴る。
「お前のせいじゃない!」
「じゃあ何なの!」
その叫びに、冬真は一瞬だけ完全に黙った。
何なのか。
答えはある。
お前を守りたいからだ。
お前がいなくなるのが嫌だからだ。
お前が自分を最後にするのを知っているから、その前に全部奪ってやりたかった。
けれど、その形まではまだ言えない。
「……俺の問題だ」
結局、絞り出せたのはそれだった。
千歳が息を呑む。
傷ついたのが、声だけでわかった。
「また、そうやって」
かすれた声だった。
「わたしを置いていく」
その一言が、怪異の痛みとは別の場所を深く裂いた。
違う。
置いていきたいわけじゃない。
巻き込みたくないだけだ。
だが今さら、それが届く言い方を持っていない。
空洞の奥で、核がまた脈打った。
腕が限界に近い。これ以上迷えば、本当に持っていかれる。
冬真は息を殺し、最後の力を右手へ込める。
「綾人!」
「何だ!」
「こじ開ける! 今だ!」
「正気か、お前――!」
綾人の言葉は最後まで続かなかった。
冬真が核を、力任せに引き裂いたからだ。
ばき、と。
何か硬いものが折れる鈍い感触が、腕の内側に伝わる。
次の瞬間、空洞の向こう側からとてつもない奔流が逆流した。
「――っ、が、ぁ……!」
真っ黒な濁流が、冬真の腕から肩、胸へ一気に流れ込む。
視界が完全に白く弾け、音が遠のく。
身体のどこが痛いのかも、もうよくわからない。
だが同時に、仮殿の中で影が大きく裂けた。
綾人がその隙を逃さなかった。
「閉じろ!」
銀針が一斉に飛ぶ。
札が燃える。
白い光が空洞の縁を縫い、裂け目そのものを無理やり閉じにかかる。
影の絶叫が夜を裂いた。
巨大な身体が半分ほど崩れ、黒い泥のように床へ落ちる。
千歳が壁際で肩を震わせながら、それでも目を逸らさずに見ていた。
冬真はそこで、ようやく核を手放した。
空洞が縮む。
青白い裂け目は細くなり、銀針と札に縫われながら、ゆっくり、確実に閉じていく。
終わる。
そう思った、そのとき。
冬真の身体が、完全に力を失った。
「冬真!」
千歳の声が、今度はすぐ傍だった。
空洞の縁から手を抜く。
だが足がもつれ、前へ倒れる。
床にぶつかるはずだった衝撃は来なかった。
代わりに、細い腕が必死に支えようとしてくる感触があった。
「しっかりして」
千歳の声が震えている。
「冬真、ねえ、見て」
瞼が重い。
だがその声だけは、遠くなってほしくなかった。
どうにか目を開ける。
視界は滲んでいる。千歳の顔も輪郭が曖昧だ。泣いているのか、そうでないのかも、よく見えない。
けれど、その手が震えながらも自分を離さないことだけはわかった。
「……無事、か」
かすれた声が、自分でも驚くほど小さかった。
千歳が息を詰まらせる。
「何それ……」
泣き笑いみたいな、ひどい声だった。
「今、それ聞くの」
冬真は少しだけ口元を動かした。
たぶん、笑おうとしたのだと思う。
よかった。
まだ喋れる。
まだ生きている。
綾人の足音が近づく。
「閉じた。ひとまずは」
その声にも、珍しく僅かな焦りが混じっていた。
「だが冬真、お前――」
続く言葉は、途中で止まった。
なぜ止まったのか、冬真にはすぐわからなかった。
だが千歳の手が、自分の左腕へ触れた瞬間、理由がわかる。
包帯が、裂けていた。
袖の下から覗く皮膚一面に、赤黒い痣が走っている。
手の甲から肘、肘から肩へ。
古いもの、新しいもの、幾重にも重なった傷痕のような紋。
今夜のものだけではない。もっと前から、ずっと蓄積してきた痕だと、一目でわかるような。
しまった、と思う。
だが遅かった。
千歳の指先が、その痣の上で震えていた。
「……なに、これ」
声が、凍るほど小さい。
冬真は反射的に腕を引こうとした。
けれど力が入らない。
千歳は痣から目を離せないまま、もう一度呟く。
「どうして、こんなの……」
綾人が何か言いかけた気配がする。
だが冬真にはもう、その続きを止めるだけの力も残っていなかった。
まずい。
まだだ。
まだ最後ではない。
ここで全部知られるわけにはいかない。
そう思うのに、意識が暗く沈んでいく。
最後に見えたのは、泣きそうに歪んだ千歳の顔だった。
そして、途切れる寸前に聞こえたのは、掠れた彼女の声。
「冬真……ずっと、何をしてたの」
答えは、もう喉のところまで来ているのに。
その夜の冬真には、まだ言葉にする力が残っていなかった。




