第1章 第11話:触れてしまった痕
答えは、もう喉のところまで来ているのに。
その夜の冬真には、まだ言葉にする力が残っていなかった。
◆
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
焦げた札の匂い。
薬草を煎じた苦い匂い。
それから、ひどく懐かしい、雪の朝みたいに冷たくてやわらかい匂い。
瞼の裏に薄く光が滲む。
完全な朝ではない。夜の濃さは抜けたが、まだ空は白みきっていないらしい。仮殿の小さな窓から差し込む灰色の光が、ぼんやりと輪郭を作っていた。
身体が重い。
起き上がろうとした瞬間、左腕から肩にかけて激痛が走った。
「……っ」
短く息が漏れる。
「起きた」
すぐ近くで、千歳の声がした。
冬真は反射的に目を開けた。
視界はまだ少し霞んでいる。それでも、枕元に座る千歳の姿はすぐにわかった。昨夜のままではない。簡素な着物に着替えているが、髪は少し乱れていて、目の下には濃い影が落ちている。
眠っていない。
その事実だけで、胸の奥が鈍く痛んだ。
「……どれくらい」
掠れた声で問うと、千歳は少しだけ視線を逸らした。
「そんなに経ってないよ。夜が明ける前」
仮殿の中は静かだった。
炭火は小さく熾っていて、札の貼り直された壁が薄暗く見える。崩れた正面は板で仮に塞がれているのか、風の入り方が昨夜より弱い。
「綾人は」
「外」
千歳は短く答えた。
「本殿の方と村の様子を見てくるって」
「……そうか」
それだけ言って、冬真は目を閉じかけた。
だがその動きを、千歳の静かな声が止める。
「寝ないで」
責める言い方ではなかった。
けれど、拒絶もできない声だった。
冬真は薄く目を開ける。
千歳は膝の上で両手を組み、こちらをじっと見ていた。泣いてはいない。けれど泣く寸前よりも、ずっと危うい顔をしている。
「……何だ」
そう問うしかなかった。
千歳は一拍だけ黙ったあと、低く言った。
「何だ、じゃない」
その声に、冬真の胸が少しだけ沈む。
「わたし、見たよ」
千歳は続ける。
「腕」
左腕が、ひどく重く感じた。
見られた。
昨夜、意識を失う直前に。
知っていたことが、現実になっただけだ。
それなのに、喉の奥が嫌に乾く。
「……傷だ」
とっさに出たのは、そんな言い訳にもならない言葉だった。
千歳は目を細める。
「傷、で済むと思ってるの」
冬真は答えない。
答えられない、の方が正しい。
あの痣は一夜でついたものではない。
昨夜だけの怪異でもない。
もっと前から、ずっと蓄積してきた痕だと、一目でわかるようなものだった。
千歳は、自分の膝の上で握った手を少しだけ強くした。
「今まで、ずっとあったの?」
「……」
「昨夜だけじゃないよね」
沈黙が落ちる。
それだけで、ほとんど答えになってしまう。
千歳はゆっくり息を吸った。
「冬真」
「聞くな」
「聞く」
即答だった。
視線を上げると、千歳の瞳はまっすぐだった。
怖がっている。傷ついている。それでも退かないと決めた目だ。
「ねえ、あれ、何」
「言えない」
「どうして」
「……今は」
その言葉を口にした瞬間、千歳の表情が強張る。
「また今は、なんだ」
小さな声だった。
「ずっと、そればっかり」
冬真は唇を結ぶ。
知っている。今さらそれがどれだけ彼女を傷つけるかも、わかっている。
だが、まだ全部は言えない。
ここで“肩代わりしていた”と断言すれば、その瞬間から千歳は自分が守られていた側だと理解する。そうなれば彼女は、きっと次から守られるだけではいない。
いや、今の千歳なら、たぶんその場で自分を差し出すことまで考える。
だから、まだだ。
「……話せることだけでいい」
千歳が、少しだけ声を落として言う。
「全部じゃなくていいから。わたしが、何も知らないままにしないで」
それは懇願に近かった。
怒っているのではない。ただ、置いていかれることに耐えられないだけだとわかる。
冬真はゆっくり息を吐いた。
腕も背中も、呼吸をするたびに痛む。だが今いちばん苦しいのはそこじゃない。
「……お前が」
喉の奥から言葉を引きずり出す。
「呼ばれてるのは、本当だ」
千歳の肩が小さく跳ねる。
「社の方に、か」
「ああ」
「どうして」
「それはまだ言えない」
千歳が目を伏せる。
期待した答えではない。それでも、ゼロではなくなった分だけ、余計に痛いのだろう。
「家のことも、仮殿のことも、それが関係してる?」
「してる」
「……わたしだけに?」
そこが難しい問いだった。
「中心は、お前だ」
冬真は正直に言った。
「でも、お前だけじゃない。村全体にも影響は出る」
千歳の指先が小さく震える。
「じゃあやっぱり、わたしが」
「違う」
今度は、前より穏やかに言えた。
「お前が悪いわけじゃない」
「でも、わたしが中心なんでしょ」
千歳の声が掠れる。
「だったら同じだよ」
「同じじゃない」
冬真は言い切った。
「お前のせいで起きてるんじゃない」
千歳は唇を噛んだ。
すぐには納得できないのだろう。だが少なくとも、昨夜のように“自分がいなくなればいい”という方向へそのまま流させるわけにはいかなかった。
しばらく、炭の爆ぜる音だけが続いた。
やがて千歳が、静かに顔を上げる。
「じゃあ、腕は」
冬真の指先がわずかに強張る。
「それも、そのせい?」
「……」
「ねえ」
逃がしてくれない声音だった。
言わない。
全部は言わない。
そう決めている。
けれど、何も返さなければ、千歳はまた自分のせいだと思うだろう。
それだけは避けたい。
「……昨夜だけじゃない」
冬真は低く言った。
「前からだ」
千歳の息が止まる。
「前から?」
「ああ」
「どれくらい前から」
そこには答えない。
答えれば、その長さがそのまま積み重ねの重さになるからだ。
千歳はその沈黙を見つめて、それからゆっくり言った。
「わたし、昨日の綾人さんの言葉、ちゃんと覚えてる」
冬真は目を伏せたくなる。
「優しいから、ってやつ」
「……」
「あと、さっきの“肩代わり”って言葉も」
喉が詰まる。
「冬真」
千歳の声はやわらかいのに、逃がさない。
「わたしに来る何かを、あなたが引き受けてるの?」
正面から、その言葉が落ちた。
全部ではない。
だが核心にかなり近い。
ここで否定しきれるか。
否定したところで、千歳はもう信じないだろう。
冬真はしばらく黙っていた。
その沈黙の長さで、たぶん千歳には十分だったのだと思う。
彼女の顔から、わずかに血の気が引いていく。
「……本当に?」
掠れた声。
「千歳」
「本当に、そうなの?」
答えないことが、答えになってしまう。
だから冬真は、せめてそこだけは誤魔化さずに言った。
「全部じゃない」
喉が痛い。
「でも、近い」
千歳の目が大きく見開かれる。
「どうして」
その問いは昨夜までとは違った。
ただ事情を知りたいのではない。もっと根の深い、痛みに触れた声だった。
「どうして、そんなこと」
「……」
「いつから」
「それは」
「どうして、わたしに言わなかったの」
静かな問いが、いちばん深く刺さる。
なぜ言わなかったのか。
答えは決まっている。
言えば、お前は止めるからだ。
言えば、笑って自分を差し出すからだ。
だから最後まで知られないようにしたかった。
だが、それをそのままここで口に出すのは、まだ早い。
第1章の段階では、まだ“全部の告白”ではなく、“薄く露見し始める”ところで止めるべきだ。
「言えなかった」
だから冬真は、そう言うしかなかった。
千歳が目を伏せる。
「言えなかった、じゃわからないよ」
「……わかってる」
「わかってない」
珍しく、千歳の声が少しだけ強くなった。
「わかってたら、こんなふうに何も知らないまま見せたりしない」
その通りだった。
冬真は何も返せない。
「わたし」
千歳は膝の上で拳を作る。
「ずっと、避けられてるんだと思ってた」
冬真の胸が痛む。
「嫌われたのかなとか、何か悪いことしたのかなとか、そういうことばっかり考えてた」
言葉の一つ一つが、遅れて胸に沈んでいく。
「でも」
千歳は顔を上げた。
「本当は、そんなことしてたの?」
そんなこと。
その中に含まれる重さを、彼女はまだ全部わかっていない。
それでも、輪郭にはもう触れてしまっている。
「……大げさに考えるな」
冬真は苦し紛れに言う。
「まだ、どうにかなってる」
「どうにかなってないでしょ」
即答だった。
千歳は泣きそうな顔で笑う。
「その腕で、そんなこと言わないでよ」
冬真は目を閉じた。
もう平気だと言うことが、ただの嘘にしかならない段階まで来ている。
しばらく沈黙が続いたあと、千歳がそっと身を乗り出した。
「見せて」
冬真は目を開ける。
「何を」
「腕」
「嫌だ」
反射的に返していた。
千歳は傷ついた顔をするでもなく、ただ真っ直ぐ言う。
「見たから言ってるの。ちゃんと」
「……」
「隠さないで」
その一言が重い。
見せたくない。
見られたくない。
今まで隠してきたものを、自分から差し出すみたいで。
けれど、ここで拒み続ければ、千歳はますます自分のせいだと思い込むかもしれない。
それなら、少しだけなら。
冬真はゆっくりと、右手で左袖に触れた。
痛みを堪えながら布を少しだけ捲る。
包帯の隙間から覗く赤黒い痣。
昨夜裂けた部分は薬草で覆われているが、その周囲には古い紋のような筋がいくつも重なっていた。
千歳の息が、はっきり止まる。
「……こんなの」
指先が震える。
「いつから……」
冬真は答えない。
千歳は触れそうで触れない距離で手を止めた。
怖いのだろう。触れたらもっと確かなものになる気がして。
「痛い?」
その問いがあまりにも素直で、冬真は少しだけ息を詰めた。
「平気だ」
「嘘」
「……まあ、多少は」
正直に言うと、千歳の目がひどく苦しそうに揺れる。
その顔を見たくなくて、冬真は袖を戻そうとした。
だがその前に、千歳の指先が、そっと包帯の端に触れた。
びくりと身体が強張る。
けれど振り払えなかった。
触れ方があまりにも軽く、あまりにも恐る恐るで、拒絶したら本当に壊れてしまいそうだったからだ。
「……ごめん」
千歳が小さく言う。
「わたし、知らなかった」
その謝罪に、冬真は眉を寄せた。
「謝るな」
「でも」
「お前が謝ることじゃない」
「でも、わたしのことなんでしょう」
静かな声だった。
違う、と即座に言いたかった。
だが今はもう、それだけでは足りない。
「お前のことだけじゃない」
冬真は低く言う。
「俺が勝手にやったことだ」
千歳の指先が、わずかに止まる。
「勝手に?」
「ああ」
「なんで、そんな勝手なことするの」
その問いは、責めているようでいて、実際には理解したいだけなのがわかった。
だから余計につらい。
冬真は視線を逸らした。
「……それは、まだ」
言い終える前に、千歳が小さく息を吐く。
諦めたような、でも完全には引いていないため息だった。
「ほんとに、肝心なところだけ言わない」
「悪い」
「また謝る」
そのやり取りが、少しだけ昔に近い響きを持っていた。
近いのに、今はそこへ戻れない。
千歳は包帯からそっと手を離した。
その代わり、逃げないようにするみたいに、冬真の布団の端を握る。
「……でも」
小さく続ける。
「もう、何も知らないままではいられないよ」
冬真は答えなかった。
答えられなかった。
その通りだ。
もう、完全には隠しきれないところまで来ている。
ただし、それでもまだ“最後の真実”までは渡せない。
「綾人が戻ったら」
千歳が静かに言う。
「ちゃんと聞く」
「千歳」
「逃げないで」
その三文字が、ひどく重かった。
逃げているつもりはない。
守っているつもりだった。
けれど結果として、千歳から見れば、ずっと逃げ続けているようにしか見えなかったのだろう。
冬真が返す言葉を探していると、仮殿の戸の外で足音が止まった。
綾人だ、とわかる。
静かで迷いのない歩き方だった。
戸が開く。
外の白み始めた光を背負って立つ綾人は、二人の空気をひと目で察したらしかった。
その視線が、千歳の顔、冬真の捲られた袖、そして包帯の露わになった痣を順に捉える。
「……なるほど」
短い息と一緒に零れた声は、呆れとも諦めともつかなかった。
千歳が立ち上がる。
「綾人さん」
その呼び方には、もう昨夜までの遠慮がなかった。
「聞きたいことがあります」
「あるだろうな」
「はぐらかさないでください」
綾人は少しだけ目を細め、それから冬真を見た。
どうする、と問うような視線。
冬真はゆっくり息を吐いた。
ここで止めるか。
それとも、最低限の情報だけは進めるか。
まだ全部は言えない。
だが第1章の終盤として、千歳が完全に疑いの段階を越え、「冬真が自分の見えないところで何かを引き受けていた」ことまでは確信し始める流れに入るのが自然だ。
「……話せるところまででいい」
冬真が低く言う。
「でも、全部はまだ言うな」
千歳の表情が揺れる。
綾人はしばらく黙っていたが、やがてひとつ頷いた。
「いいだろう」
そう言って戸を閉め、部屋の中へ入る。
「ただし、聞くなら覚悟して聞け。昨夜までと同じ顔では、もういられなくなる」
千歳は小さく息を呑んだ。
それでも視線は逸らさない。
「聞きます」
冬真は布団の上で目を閉じかける。
まだ全部を知られるわけにはいかない。
けれど、もう“何も知らない千歳”には戻れない。
その境界線を、昨夜、自分たちは越えてしまったのだ。




