第1章 第12話:知らないままでは、もういられない
その境界線を、昨夜、自分たちは越えてしまったのだ。
仮殿の中に、短い沈黙が落ちた。
朝にはまだ少し早い灰色の光が、障子の隙間から細く差し込んでいる。炭火の赤は弱く、部屋の空気には夜の名残が濃く残っていた。
綾人は戸の前に立ったまま、千歳を見ている。
千歳もまた、逸らさない。
そのあいだに挟まれた冬真だけが、布団の上で浅い呼吸を繰り返していた。
言わせたくない。
でも、止めきれない。
その両方が胸の奥で鈍くぶつかり合う。
「どこまで話す」
綾人が低く問うた。
冬真は少しだけ目を閉じ、息を整える。
「……掟の表向きと、呼ばれてることまでだ」
「それだけで済むと思うか」
「済ませる」
綾人は一瞬だけ眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
代わりに視線を千歳へ戻す。
「まず確認する」
静かな声だった。
「昨夜、お前が聞いた声と、見たものは幻ではない」
千歳の肩が小さく震える。
それでも頷いた。
「……はい」
「お前は今、この村の“供物”として呼ばれている」
空気が、ひどく静かになった。
供物。
その単語だけで、部屋の温度が一段下がった気がした。
千歳は目を見開いたまま、しばらく何も言えなかった。
たぶん知らなかったわけではない。村の空気や、最近の視線や、家に増えていた白木の箱や晴れ着の準備。それら全部が、うっすらとその言葉へ繋がっていたはずだ。
けれど、明確に口にされた瞬間、もう知らないふりはできなくなる。
「……それ、は」
ようやく絞り出した声は、小さく掠れていた。
「神さまに返される、っていう……」
「ああ」
綾人が答える。
「村に伝わる古い契約だ」
「契約」
千歳が繰り返す。
「誰と、誰の」
綾人は少しだけ間を置いた。
その沈黙は、言葉を選んでいるというより、どこまでが“まだ言っていい範囲か”を測っているようだった。
「この村と、山の奥に祀られているものだ」
「神さま、じゃなくて?」
「そう呼ばれているだけだ」
千歳の表情が固くなる。
冬真は布団の上で、そっと奥歯を噛んだ。
綾人の言い方は正しい。
だが冷たい。
千歳にとっては、昨夜まで曖昧だった不穏が、今こうしてひとつずつ輪郭を持っていく時間だ。あまりに淡々と過ぎると、現実感が遅れて噛みついてくる。
「じゃあ」
千歳が、ゆっくりと言う。
「わたしが呼ばれてるのは、その契約のせい?」
「そうだ」
「どうして、わたしが」
綾人は答えない。
答えられないのではない。まだ、その先を切り分けているのだ。
「……それも、まだ?」
千歳が問う。
「ああ」
綾人は正面から頷いた。
「まだだ」
千歳は一度だけ目を伏せた。
怒鳴らない。取り乱さない。けれど、納得もしていない。その沈黙が、かえって苦しい。
「じゃあ、せめて」
顔を上げた千歳の声は静かだった。
「冬真のことを教えてください」
冬真の肩がわずかに強張る。
「腕のこと」
千歳は続ける。
「怪我じゃないんですよね」
「……」
「わたしに来る何かと、関係あるんですよね」
綾人がこちらを見る。
どうする、とまた問う視線。
冬真は横になったまま、ゆっくり息を吐いた。
ここで完全否定はできない。
もう無理だ。
だが“ずっと守っていた”と断言するのはまだ早い。
この第1章では、千歳が「冬真が自分に向かう災厄の一部を引き受けていたらしい」と知り始めるところまでに留めるのが最も強い。
「……全部じゃない」
冬真が低く言う。
千歳の視線がこちらへ向く。
「でも、無関係でもない」
「無関係じゃないって」
千歳の声が少し震えた。
「どういうこと」
冬真は言葉を探す。
探しても、きれいな言い方はどこにもない。
「呼び声が強くなると」
どうにか続ける。
「周りに零れる」
「零れる……?」
「怪異とか、祟りとか、そういう形で」
千歳は息を止めるように聞いている。
「それを」
冬真は目を伏せた。
「逸らしたり、押し戻したりはしてた」
千歳の瞳が大きく見開かれる。
「してた……?」
しまった、と一瞬思う。
だがもう戻せない。
「それが、肩代わりってことですか」
今度は綾人ではなく、千歳自身がその言葉を使った。
冬真はすぐには答えなかった。
その沈黙は、ほとんど肯定に等しい。
千歳の顔から、また少しずつ血の気が引いていく。
「……いつから」
かすれた声。
「千歳」
「いつからって聞いてるの」
強い言い方ではなかった。
でも、その静けさが余計に痛い。
冬真は目を閉じる。
幼い頃からだ、とは言えない。
言った瞬間、彼女の中で“今まで無事だった理由”がすべて組み変わる。
「前から」
結局、それしか言えなかった。
千歳は唇を噛んだ。
「前からって、どれくらい」
答えない。
答えられない。
「……ずるい」
小さく漏れたその言葉に、冬真の胸が強く軋む。
「わたしばっかり、知らない」
千歳は膝の上で拳を握る。
「知らないまま、避けられてると思って」
一度、息を吸う。
「嫌われたのかなって思ってた」
「違う」
冬真はすぐに言った。
「じゃあどうして、言ってくれなかったの」
それが一番痛い問いだった。
綾人が何か口を開きかけたが、冬真は微かに首を振った。
それは自分で返さなければいけない言葉だ。
「……言えなかった」
「その理由を聞いてるの」
千歳の目に、涙が薄く滲む。
泣いているわけではない。ただ、もう限界に近いのだろう。
冬真は視線を逸らしたくなった。
だが逸らせばもっと残酷だ。
「お前が」
喉の奥から、ひどく低い声を引きずり出す。
「……自分を後回しにするからだ」
千歳の呼吸が止まる。
綾人も、わずかに目を細めた。
そこまで言うのか、という顔だった。
「え……」
千歳の声は、掠れてほとんど音になっていない。
「知ったら、お前」
冬真はまだ目を合わせないまま続ける。
「たぶん、自分が我慢すればいいって思うだろ」
静かな仮殿の中で、その言葉だけがやけにはっきり響いた。
「村のためとか、家のためとか、そういう理由つけて」
胸の奥が痛む。
「自分から差し出しかねない」
千歳は何も言わない。
言い返さないのが、そのまま図星だと語っていた。
冬真は目を閉じたくなる。やはり、こういう話をしたくなかった。結局、自分が一番知られたくない部分に、千歳の性質ごと触れてしまうからだ。
「だから」
冬真はそこで言葉を切る。
その先――“だから黙ってた”まで言えば、ほとんど答えになりすぎる。
最後の最後でバレる構造を守るなら、ここは寸止めが最善だ。
綾人が代わりに、低く言った。
「だから、軽々しく話せなかった」
千歳がゆっくり視線を上げる。
綾人は続ける。
「それが正しかったかどうかは別として、少なくとも冬真は、お前が知れば自分を選ばないと考えた」
千歳の目が揺れる。
傷つきと、納得と、否定したい気持ちが全部混ざったような顔だった。
「……そんなふうに、思われてたんだ」
小さな呟き。
冬真はそこでようやく、千歳を見た。
その顔は、予想していた“怒り”ではなかった。
ただ深く傷ついた顔だった。
信用されていなかった、という傷ではなく、自分がそう見えるくらい、これまで自分を軽く扱ってきたのかもしれない、という痛みだ。
胸が重い。
「違う」
思わず言っていた。
千歳がこちらを見る。
「そういう意味じゃない」
「じゃあ、どういう意味」
今度は答えに詰まる。
大事だからだ。
失いたくないからだ。
それだけのことを、どうして今もまっすぐ言えないのか、自分でも嫌になる。
「……お前は」
冬真は、掠れる声で言う。
「優しすぎる」
千歳の睫毛が震えた。
「それが、怖かった」
そこまで言って、冬真はゆっくり息を吐く。
もう十分だろう。これ以上は、この章では踏み込みすぎる。
千歳はしばらく何も言わなかった。
やがて、ぽつりと落とす。
「だったら、もっと早く言ってほしかった」
たったそれだけの言葉なのに、怪異の傷より痛かった。
「何も知らないまま、ひとりで勘違いする方が」
千歳は笑おうとして、失敗する。
「そっちの方が、ずっと苦しかったよ」
冬真は何も返せない。
返せる言葉が、どこにも見つからなかった。
綾人が静かに視線を落とす。
彼にしては珍しく、口を挟まない。
この沈黙は、たぶん他人が入るべきものではないとわかっているのだろう。
「……でも」
千歳が続ける。
「今ので、少しわかった」
冬真が顔を上げる。
「冬真が、わたしを避けてた理由」
千歳の声はまだ不安定だったが、はっきりしていた。
「嫌いになったわけじゃなかったんだね」
その言い方に、胸の奥がどうしようもなく痛くなる。
今さら何を、と自分でも思う。
だがそこだけは、曖昧にしたくなかった。
「……当たり前だ」
低く答える。
千歳の目に、また薄く涙が滲む。
けれど今度は、さっきまでと少し違った。
「そっか」
小さく頷く。
「よかった」
その“よかった”が、冬真には重かった。
こんな状況で、ようやくそこを確認しなければいけないほど、自分は彼女を追い詰めていたのだ。
仮殿の中に、再び静かな空気が落ちた。
さっきまでの沈黙より、少しだけ形が違う。
痛みは消えていない。けれど、完全なすれ違いのままではなくなった沈黙だった。
綾人がそこで、ようやく口を開く。
「今話したのは、本当に最低限だ」
千歳が視線を向ける。
「これ以上先は、まだ状況が整っていない」
「……まだ、あるんですね」
「ある」
綾人は即答した。
「ただし今は、知ればいいという段階じゃない」
千歳は納得しきれない顔をしたが、それでもすぐには言い返さなかった。
今しがた触れたものだけで、もう十分重いのだろう。
「今日はまず休め」
綾人が冬真を見る。
「お前もだ。次に動けなくなれば、本当に終わる」
「……わかってる」
冬真が答えると、綾人はさらに千歳へ向き直る。
「お前も、もう一人で考えるな」
その言い方は少しだけ柔らかかった。
「勝手に自分を差し出すような結論に行くな。そういう顔をしている」
千歳が、息を呑む。
図星だったのだろう。
「……しません」
少し間を置いてからの返事だった。
冬真はその横顔を見つめる。
本当にしないかどうかは、まだわからない。
だからこそ、最後の最後まで知られたくなかったのだ。
けれどもう、完全に遠ざけることもできない。
これからは、隠しながらも一緒にいる時間が増える。その矛盾の方が、たぶんもっと苦しい。
千歳がふと、こちらを見る。
「冬真」
「何だ」
「もう、勝手にいなくならないで」
それは約束の要求ではなく、祈りに近かった。
冬真は少しだけ目を伏せる。
昨夜、影の空洞へ踏み込んだ自分を思い出す。
あのとき千歳の手を外した感触が、まだ指先に残っていた。
「……善処する」
ようやく出たのは、そんな不器用な返事だった。
千歳は少しだけ呆れたように眉を下げ、それでも小さく笑う。
「何それ」
「それ以上は無理だ」
「もう」
ほんの僅かだけ、昔に近い温度が戻る。
けれど次の瞬間には、千歳の視線がまた冬真の左腕へ落ちた。
傷も、痣も、今までと同じではいられないことも、そこに全部ある。
そう簡単には戻れない。
戻ってはいけないのかもしれない。
それでも。
冬真はゆっくりと息を吐いた。
第1章の終盤として、この回は「完全露見ではないが、千歳が『冬真が自分の見えないところで災厄を引き受けていた』と確信し始める」地点に到達した。
まだ最後ではない。
だが、すれ違いだけだった関係は、ここで確実に次の段階へ入る。
仮殿の外では、雪解け前の朝が少しずつ明るくなり始めていた。




