第1章 第13話:朝の光が痛むほど
仮殿の外では、雪解け前の朝が少しずつ明るくなり始めていた。
白みかけた空の色が、障子の隙間から細く差し込む。
その光はやわらかいはずなのに、今の冬真には妙に痛かった。夜のあいだだけ許されていたものが、朝になった途端に輪郭を持ち始める。傷も、言葉も、千歳の知ってしまった事実も、全部。
仮殿の中はしばらく静かだった。
綾人は戸口の脇で腕を組み、外の気配に耳を澄ませている。
千歳は卓の横に座ったまま、時折こちらを見て、すぐに目を伏せる。
冬真は布団の上で目を閉じかけては、意識を戻すことを繰り返していた。
眠れば少しは楽になるかもしれない。
けれど、今は眠りたくなかった。
目を閉じた隙に、また何かが千歳へ触れる気がして。
「休め」
綾人が言った。
「その顔で起きていられても邪魔だ」
「起きてる」
冬真が掠れた声で返す。
「それを起きているとは言わん」
「うるさい」
短いやり取りだった。
だが、それだけで千歳が少しだけ顔を上げる。
昔と同じ、とまではいかない。けれど完全に壊れたままではないやり取りに、どこかほっとしたような、余計に苦しそうな目だった。
綾人はわざとらしくため息をついた。
「口が回るうちは死なないか」
「縁起でもないこと言うな」
「事実の確認だ」
「……朝から仲悪いですね」
ぽつりと零したのは千歳だった。
二人ともそちらを見る。
千歳は少しだけ困ったように眉を下げる。
「いや、仲がいいとは思ってないけど」
続く言葉が少しだけぎこちない。
「なんか、そうやって普通に言い合ってるの見ると……ちょっとだけ安心する」
その一言が、仮殿の中に静かに落ちた。
冬真は何も返せなかった。
安心、という言葉が、今は思った以上に重い。
自分はずっと、千歳を安心させるどころか不安だけを増やしてきた。
避けて、黙って、傷ついて、それでも何も言わなかった。
だから、たったそんなやり取りひとつで安心されることが、むしろ苦しい。
綾人は小さく肩を竦めた。
「安心できる状況ではない」
「それはわかってます」
千歳は素直に言う。
「でも、少しだけです」
少しだけ。
その慎重な言い方が、今の彼女の状態をよく表している気がした。
全部はまだ整理できていない。けれどゼロのままではない。
夜のあいだに、知らない千歳ではいられなくなってしまったのだ。
◆
少しして、綾人は外の見回りにもう一度出た。
「村の方まで異変が降りていないか確認する」
そう言い残し、戸口で一度だけ振り返る。
「二人とも、勝手なことはするな」
「お前がいない方が静かでいい」
冬真が言うと、綾人は呆れたように鼻を鳴らした。
「その台詞は、立てるようになってから言え」
戸が閉まり、仮殿にはまた二人きりの空気が戻る。
静かだった。
炭の爆ぜる音と、風が屋根の端を撫でる音だけがする。
冬真は視線を天井へ向けたまま、息を整える。
千歳もすぐには何も言わなかった。たぶん、さっきまでの話をまだ自分の中で並べ直しているのだろう。
やがて、かすかな衣擦れの音がして、千歳が少し近くへ移動した気配がした。
「冬真」
「……何だ」
「痛い?」
またその問いだった。
けれど今は、さっきよりも少しだけ違う響きがある。
ただ確認するのではなく、知ってしまったうえで、それでもまだ手が届く形のものとして問うている。
「平気だ」
反射でそう言ってから、自分でも少し間を置く。
「……って言うと、怒るんだろ」
千歳が、ほんの少しだけ目を丸くした。
それから、小さく息を吐く。
「怒るよ」
「そうか」
「うん」
たったそれだけなのに、仮殿の空気が少しだけやわらぐ。
けれど次の瞬間には、千歳の視線がまた冬真の左腕へ落ちて、現実が戻る。
「じゃあ、ちゃんと答えて」
千歳は静かに言う。
「痛い?」
冬真は数秒だけ黙った。
嘘をつけば、もうたぶんすぐに見抜かれる。
「……痛い」
正直に言うと、千歳の睫毛が少し震えた。
「そっか」
それだけ返して、千歳は目を伏せる。
責めない。責めないからこそ苦しい。
「薬、変えた方がいいかな」
千歳が小さく呟く。
「さっきの、もう滲んでたし」
「いい」
「よくないよ」
すぐに返される。
その速さに、冬真は少しだけ目を向けた。
千歳は視線を逸らさないまま続けた。
「わたし、何もできないの嫌なの」
「……」
「全部はわからなくても、目の前のことくらい、やらせて」
その言い方が、ひどく千歳らしかった。
全部を知ったから動くのではない。今、自分にできることがあるなら、それを放っておけないだけだ。
そしてそれこそが、冬真が一番恐れてきた性質でもある。
「千歳」
「大丈夫。無茶はしない」
先回りするように言って、千歳は少しだけ苦笑した。
「たぶん今のわたし、冬真にそう言われる資格ないけど」
その自嘲が痛い。
昨夜、影に向かって“わたしが行けば”と問いかけた千歳。
その一瞬の揺れを、冬真は忘れられない。
自分が恐れてきたことは、やはり現実になり得るのだと思い知らされたから。
「……資格とかじゃない」
低く言う。
「じゃあ何?」
千歳が問う。
言葉を探して、見つからない。
結局また、肝心なところで詰まる。
千歳は小さく息を吐いた。
「ほんと、そういうとこ」
責めているようでいて、でもどこか諦めきってはいない声だった。
「包帯、替えるだけ」
千歳が言う。
「それくらい、いいでしょ」
冬真はすぐには答えなかった。
見せたくない。触れられたくない。弱っているところを、そのまま差し出すみたいで嫌だった。
けれど。
昨夜、自分のせいで苦しそうだったと言った千歳の顔が脳裏に浮かぶ。
今ここでまた拒めば、それはさらに深い拒絶として残る気がした。
「……痛かったら、やめる」
そう前置きして、冬真はようやく頷いた。
千歳の表情が、ほんの少しだけ和らぐ。
◆
薬草と新しい包帯は、綾人が置いていった木箱の中にあった。
千歳はそれを持って戻ってくると、冬真の布団の脇へそっと座った。
手つきは少しぎこちない。慣れていないのだろう。けれど、そのぎこちなさがかえって真剣さを伝えてきた。
「……触るよ」
小さく言う。
「いちいち言わなくていい」
「言う」
即答だった。
冬真は少しだけ息を吐く。
その短いやり取りが、妙にくすぐったかった。
千歳の指先が、包帯の端に触れる。
冷たい。けれど昨夜のような不吉な冷たさではない、人の手の温度を持った冷たさだった。
するすると包帯がほどかれていく。
薬草の匂いが少し濃くなる。
露わになっていく赤黒い痣に、千歳の息が何度か止まりそうになるのがわかった。
それでも途中で手を止めなかったのは、たぶん自分で見届けると決めたからだろう。
「……ひどい」
千歳が、ほとんど独り言みたいに呟く。
冬真は目を逸らす。
自分の傷を見て、ひどいと言われること自体は別に珍しくない。綾人にも何度も言われてきた。
だが千歳の口から出ると、なぜか違う重さを持った。
「昨日より、広がってる?」
「……たぶん」
「たぶん、じゃ困る」
「医者じゃないんだよ、俺は」
返すと、千歳は少しだけ眉を下げる。
「そういう軽くする言い方、ずるい」
「軽くしてるわけじゃ」
「してるよ」
ぴしゃりと言い切られて、冬真は口を閉じた。
その沈黙のまま、千歳は薬を塗り始める。
薬草を練ったものが皮膚に触れた瞬間、冬真の指先がわずかに強張った。
「痛い?」
「……平気」
「またそれ」
「今のは本当に」
「嘘」
「嘘じゃ――っ」
そこへちょうど薬が沁みて、言葉が途中で途切れた。
千歳が顔を上げる。
視線が合う。
「ほら」
小さく言う。
「やっぱり痛いんじゃん」
その言い方が少しだけ、昔に近かった。
叱っているようで、でもその奥にどうしようもない心配が滲んでいるところが。
「……だから言っただろ」
「言ってない」
「言った」
「言ってない」
不毛なやり取りを繰り返しているうちに、冬真は不意におかしくなりそうになる。
笑う場面じゃない。こんな状況で笑えるわけがない。
なのに、千歳が目の前で眉を寄せながら包帯を巻き直している光景が、ひどく懐かしいものに見えた。
「何」
千歳が怪訝そうに言う。
「なんでそんな顔するの」
「別に」
「絶対別にじゃない」
そのやり取りに、冬真はほんの少しだけ口元を緩めた。
自分でも気づかないほどの、かすかな笑みだったと思う。
けれど千歳にはわかったらしい。
目を丸くして、それから困ったように笑う。
「……久しぶり」
「何が」
「そういう顔するの」
胸が詰まる。
久しぶり。
それはつまり、それだけ長く、千歳の前でまともに笑っていなかったということだ。
「悪い」
また謝ってしまう。
千歳はすぐに眉を寄せる。
「だから謝らないでってば」
「癖なんだよ」
「直して」
「無理」
「善処して」
「お前がそれ言うのか」
そう返した瞬間、二人とも一拍だけ止まる。
さっき自分が千歳に返した、不器用な約束と同じ言葉だったからだ。
千歳がほんの少しだけ、泣きそうに笑う。
「……そうだね」
包帯が巻き終わる。
前より少しだけ綺麗に巻かれていた。たぶん慎重すぎるほど慎重にやったのだろう。
「ありがとう」
冬真が言うと、千歳の手がわずかに止まる。
「ちゃんとお礼言えるんだ」
「何だそれ」
「昨日までの冬真なら、言わなかった」
否定できなかった。
千歳は包帯の端を整えながら、低く続ける。
「わたし、まだ全部は許してないから」
「……」
「でも、ありがとうは……ちゃんと受け取る」
その言葉に、冬真は何も返せなかった。
許していない。
当たり前だ。
今までのすれ違いも、隠されていたことも、全部まだ途中だ。
それでも“ありがとうは受け取る”と言ってくれるあたりが、やはり千歳なのだと思う。
◆
包帯を巻き終えたあとも、千歳はすぐには離れなかった。
布団の脇に座ったまま、手元の薬箱を見つめている。
何かを考えている顔だった。
「……冬真」
やがて、小さく名を呼ぶ。
「何だ」
「ひとつだけ、約束して」
またか、と思う。
だが今度は前より重い響きがあった。
「内容による」
「逃げないで」
「それは前も聞いた」
「違う」
千歳は顔を上げる。
「今度は、ちゃんと答えるって意味で」
その瞳は、昨夜までよりずっと強かった。
何も知らないままではいられないと決めた人の目だ。
「全部じゃなくてもいい」
千歳は言う。
「でも、もう何も言わずに勝手に決めないで」
胸の奥が痛む。
それはまさに、自分がずっとやってきたことだった。
「……難しいな」
正直に言うと、千歳は少しだけ眉をひそめる。
「なんで」
「お前を巻き込みたくないからだ」
「もう巻き込まれてる」
即答だった。
その言葉に、冬真は完全に黙るしかなかった。
昨夜の仮殿で、空洞の前まで来てしまった時点で、確かにその通りだった。
「ねえ」
千歳が静かに言う。
「守るつもりなら、せめてちゃんと隣にいて」
冬真の呼吸が、そこで一瞬止まる。
守る。
千歳はまだそこまで断定していないはずなのに、その言い方は、もう薄く気づき始めている人のそれだった。
「……何のことだ」
苦し紛れに返すと、千歳は少しだけ呆れたように笑った。
「ほんと、最後までそうやって誤魔化すんだ」
「誤魔化してない」
「してる」
即答に、もう反論する気力もなかった。
「でも」
千歳は続ける。
「全部じゃなくても、さっきみたいに少しずつでいい」
薬箱を閉じながら、目を伏せる。
「わたしも、急に全部知りたいわけじゃないから」
それはたぶん、本音だろう。
今の千歳に、全部の真実を一度に受け止める準備はまだない。
それでも、ゼロのままではいられない。
だから少しずつでも、ということなのだ。
冬真は、ようやくほんの少しだけ頷いた。
「……考える」
「善処じゃなくて?」
「考える」
「微妙」
千歳がそう言って、少しだけ肩の力を抜く。
その表情を見て、冬真もかすかに息を吐いた。
完全には戻れない。
でも、完全に切れてもいない。
第1章の終盤として、この回は「千歳が冬真の異変に触れ、その一端を知り、ふたりの距離が“秘密を挟んだまま少しだけ近づく”」地点に来ている。
最後の最後で全部バレる構造はまだ守っている。
だが、もう完全な誤解だけで進む段階ではなくなった。
その変化は、たぶん二人ともわかっていた。
仮殿の外では、朝の光がようやく雪の白さを取り戻し始めている。
長かった夜は終わった。
けれど、本当に始まるのはここからだった。




