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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第1章 第14話:近づいたぶんだけ、怖くなる


 長かった夜は終わった。

 けれど、本当に始まるのはここからだった。


 朝の光は、残酷なくらい静かだった。


 仮殿の外では雪が白く積もったまま、何事もなかったように山の斜面を照らしている。夜のあいだに裂けた壁も、焦げた札も、床にこびりついた黒い痕も、その白さの前ではひどく異質だった。

 村はまだ眠っているのか、それとも異変を見ないふりして朝を迎えているのか。ここからではわからない。


 冬真は布団の上で半身を起こし、壁に背を預けていた。

 無理に起き上がったせいで左腕から肩口にかけて鈍い痛みが広がる。けれど横になったまま千歳と目を合わせ続ける方が、今は余計につらかった。


 千歳は仮殿の入口近くに立ち、外を見ている。

 さっきまでの会話の熱はもう薄れていたが、その代わりに別の緊張が残っていた。

 少し近づいた。

 でも、近づいたからこそ見えてしまったものがある。

 その距離だった。


「寒くないのか」

 冬真が言うと、千歳が振り向く。


「ちょっとだけ」

 素直に答えて、それから少しだけ困ったように笑う。

「でも、外の空気吸いたくて」


 その言い方が、妙にわかった。

 この狭い仮殿の中には、昨夜の気配も、知ってしまったことも、言えなかった言葉も、全部濃く残っている。

 少しでも外気に触れたくなるのは当然だった。


「外、まだ危ない」

「うん。だから出てない」


 千歳はそう言って、戸口の内側に手を置く。

「ちゃんと、約束は守ってるよ」


 その“約束”という言葉に、冬真は少しだけ目を伏せた。

 勝手にいなくならないで。

 何も言わずに決めないで。

 全部は無理でも、少しずつでも話して。


 昨夜から今朝にかけて、千歳は何度もそう言った。

 それは責める言葉ではなく、置いていかれたくないという願いだった。

 わかっている。

 わかっているから苦しい。


「冬真」

 千歳が静かに呼ぶ。


「何だ」

「ひとつ、聞いていい?」


 まだ聞くのか、とは思わなかった。

 むしろ、まだ聞き足りないだろうと思う。

 知ってしまったぶんだけ、問いは増えていく。

 この先ずっとそうなのかもしれない。


「内容による」

 そう返すと、千歳は少しだけ眉を下げた。

「その言い方、ずるい」

「便利だろ」

「便利だけど、ずるい」


 そのやり取りに、ほんの少しだけ昔の温度が滲む。

 だが千歳はすぐに真面目な顔へ戻った。


「……わたしが近くにいると、冬真、余計に苦しくなるの?」


 胸の奥が、ひやりと冷えた。


 予想していた問いだった。

 昨夜、自分に触れた瞬間、痣の熱が跳ねたこと。

 近づくたびに避けられ、距離を取られ、でも危ないときだけ不自然に現れたこと。

 そこまで見れば、そう考えるのは自然だ。


 冬真はすぐには答えなかった。


「やっぱり」

 千歳が小さく息を吐く。

「そうなんだ」


「……程度の問題だ」

 苦し紛れに返した言葉は、半分だけ本当だった。

「近すぎると、反動が強くなることはある」


 千歳の顔から表情が消える。

「ある、って」


「毎回じゃない」

「でも、あるんだ」


 否定はできない。

 千歳はゆっくり視線を落とした。


「だから避けてた?」

「それだけじゃない」

「でも、理由の一つではあったんだよね」


 冬真は目を逸らしたくなった。

 だが逸らしたところで、もう意味がない。


「……ああ」

 短く答えると、千歳は戸口の柱へそっと額を預けた。


「そっか」


 それだけだった。

 泣いてもいない。責めてもいない。

 でも、たったその一言にひどく重いものが詰まっていた。


「じゃあ」

 少しして、千歳がまた言う。

「わたしが近づくと、冬真は傷つく」

「千歳」

「でも、離れたら今度は守れない」

 自分の言葉みたいに静かだった。

「……最悪だね」


 冬真は返せない。


 その通りだった。

 守るために離れ、離れるほど守れない。

 近づけば守れるかもしれないが、そのぶん反動が強くなる。

 綾人の言った矛盾を、千歳もここでようやく自分の言葉として掴んだのだろう。


「ごめん」

 不意に千歳が言った。


 冬真は顔を上げる。

「何でお前が謝る」

「だって」

 千歳はゆっくり振り返った。

「知らなかったとはいえ、わたし、ずっと近づこうとしてたし」

「それは関係ない」

「あるよ」

「ない」

 少し強く返すと、千歳は一瞬だけ黙った。


 それから、小さく首を横に振る。

「……そうやって、また全部一人で引き取ろうとする」

「引き取ってない」

「引き取ってる」


 その応酬が、少し前なら噛み合わないだけで終わっていた。

 今は違う。

 お互いが、何に引っかかっているかだけはわかってしまう。


「わたしね」

 千歳は言う。

「昨日まで、冬真に嫌われた方がまだ楽だったかもしれないって思ってた」


 その言葉に、冬真の息が止まる。


「嫌われてるなら、しょうがないって諦められるから」

 千歳は笑おうとして、うまくいかない。

「でも、本当はそうじゃなくて……わたしが知らないところで傷ついてたって言われると、そっちの方がずっと苦しい」


 胸の奥へ、鈍い刃物みたいに沈んでいく言葉だった。


 そうだろう。

 知らずにいた自分を責めるだろうし、知らされなかったことにも傷つくだろう。

 だから本当は、こうなる前にもっと別のやり方があったのかもしれない。

 けれど今さら考えても遅い。


「……悪かった」

 結局また、それしか言えない。


 千歳は眉を下げる。

「謝らないでって言ったのに」

「直らない」

「善処して」

「お前、本当にそれ好きだな」

「便利だから」


 少しだけ、空気がやわらぐ。

 けれどそれも長くは続かなかった。


 千歳は静かに歩いてきて、布団の少し手前で立ち止まった。

 近すぎないように、でも遠すぎないように。たぶん、無意識に距離を測っている。


「じゃあ」

 慎重に言葉を選ぶみたいに、千歳が口を開く。

「今のわたしたちは、どうしたらいいの」


 答えに詰まる。


 今のわたしたち。

 その言い方には、ただ状況を問うだけではなく、関係そのものを問う響きがあった。

 距離を取るのか。

 それとも一緒にいるのか。

 何をどこまで共有するのか。

 守ることと隣にいることを、どう両立させるのか。


 簡単に答えられる問いではない。

 むしろこの物語の中盤まで引っ張る核そのものだ。


「……正解は、まだわからない」

 冬真は正直に言う。

「でも」

 一拍置く。

「完全に離れるのは、もう無理だ」


 千歳の睫毛がわずかに震える。


「それって」

 かすれた声。

「どういう意味」


 そこまで言うつもりはなかった。

 だが撤回する気にもなれなかった。


「今さら距離を置いても」

 冬真は低く続ける。

「お前はもう知ってるし、向こうも止まらない」

「……うん」

「だから前みたいに、何も知らないまま遠ざけるのは無理だ」


 千歳はしばらく黙っていた。

 その沈黙は、拒絶ではなかった。

 ようやく掴んだ小さな希望を、怖くてすぐには握り返せないときの沈黙に近かった。


「じゃあ」

 千歳がゆっくり言う。

「前みたいに戻れなくても、全部切れるわけじゃないんだ」


 冬真は答えなかった。

 答えなかったが、否定もしなかった。


 それだけで、千歳には十分だったのかもしれない。

 彼女は少しだけ目を伏せ、それから小さく頷いた。


「……そっか」

 今度のその言い方は、少しだけあたたかかった。


     ◆


 そのとき、戸の外で雪を踏む音がした。


 綾人だ。

 今度はすぐわかった。

 戸が開く前から、仮殿の中の空気が少しだけ現実へ引き戻される。


 綾人は中へ入るなり、二人の距離感を見て一瞬だけ目を細めた。

 何も言わないところを見ると、少なくとも最悪ではないと判断したのだろう。


「村の方は」

 冬真が問う。


「まだ大きな異変はない」

 綾人は答える。

「だが今夜の件で、社も村の年寄り連中も黙ってはいないだろう」


 千歳の表情が強張る。

「どういうことですか」


「お前が仮殿へ移されたことも、家に異変が出たことも、いずれ知られる」

 綾人は淡々と続ける。

「そうなれば、供物の準備は表向きにも加速する」


 冬真は奥歯を噛んだ。

 予想していたとはいえ、嫌な言葉だ。


「だから」

 綾人が冬真を見る。

「休んでいる暇は長くない」

「わかってる」

「わかっていて、その腕か」

「うるさい」


 短いやり取りのあと、綾人は今度は千歳へ向き直る。


「お前も今日から、前までと同じようには動けない」

「……はい」

「一人で出歩くな。特に夕方以降は絶対にだ」

「わかりました」


 素直な返事だったが、その目の奥では別のことも考えているのが見て取れた。

 昨夜から今朝にかけて知ったこと。

 冬真の痣。

 自分が呼ばれているという事実。

 その全部を抱えたまま、彼女の中でも何かが変わり始めている。


 綾人はそれを見透かしているのか、少しだけ声を低くした。

「考えるのは勝手だ。だが一人で結論を出すな」


 千歳が、はっとしたように顔を上げる。

 図星だったのだろう。


「……はい」

 今度の返事は、少しだけ遅かった。


 冬真はその横顔を見つめた。

 危うい。

 まだ完全には止まっていない。

 昨夜の影の言葉は、今もどこかで千歳の中に残っているはずだ。

 “自分が行けば”という最悪の思考は、そう簡単には消えない。


 だからこそ。

 やはり最後まで知られたくなかった。

 でも、もうそこへ戻れない。


「冬真」

 綾人が名を呼ぶ。

「今日のうちに、次の手を考えるぞ」

「今日、動く気か」

「動かせる頭があるうちにな」

「嫌味か」

「事実だ」


 千歳が少しだけ眉を寄せる。

「まだ休ませた方がいいんじゃ」


「休ませる」

 綾人は即答した。

「だが寝かせて終わる状況ではない」


 それは正しい。

 夜が明けたからといって、何も終わっていない。

 むしろここから、村の因習も、社の思惑も、怪異の呼び声も、全部がはっきり動き始める。


 第1章のラストへ向けて、この話は「夜を越えたあと、関係の温度が少し戻る一方で、外側の状況はさらに悪化していく」という役割を持つ。

 内面は近づく。

 外部の圧は強くなる。

 その両輪で、次話以降の章末へ繋げる形だ。


「……わかった」

 冬真が答えると、綾人は頷いた。


 千歳はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。

「じゃあ、わたしも聞いていいですか」

「内容による」

 綾人が言うと、千歳が少しだけ呆れた顔になる。

「それ、冬真と同じ言い方」


「不本意だ」

「似てる」

「不本意だ」


 その繰り返しに、冬真は少しだけ口元を緩めた。

 綾人がそれに気づいて鼻を鳴らす。


「笑っていられるうちに笑っておけ」

「縁起でもないな、お前」

「事実確認だと言ったはずだ」


 千歳がそのやり取りを見て、ほんの少しだけ笑う。

 本当に少しだけ。

 けれど夜のあいだにはなかった笑みだった。


 朝の光はまだ冷たい。

 傷も消えない。

 秘密もまだ大半が残っている。

 それでも、完全に途切れる寸前だった糸は、今ここでかろうじて結び直され始めていた。


 ただしその糸は、以前よりずっと危うい。

 少し引けば切れるし、間違った力がかかれば、今度こそほどけない形に歪む。


 それでも。


 冬真は目を閉じる前に、もう一度だけ千歳を見た。

 彼女もこちらを見ていた。

 何も言わない。

 でも、前よりは少しだけ近い沈黙だった。


 そしてその沈黙の向こうで、朝の村がゆっくりと、不穏な次の一日を始めようとしていた。


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