第1章 第15話:朝が来ても、終わらない
そしてその沈黙の向こうで、朝の村がゆっくりと、不穏な次の一日を始めようとしていた。
雪を踏む足音が、仮殿の外でいくつか重なった。
冬真は反射的に顔を上げる。
綾人も同時に戸口へ目を向けた。千歳の肩がわずかに強張る。
「誰だ」
冬真が低く問う。
綾人は耳を澄ませ、一拍置いて答えた。
「村の者だ。二人……いや、三人か」
嫌な予感がした。
夜明け直後に社の仮殿を訪ねてくる理由など、ひとつしか思い浮かばない。
供物の準備。
あるいは確認。
昨夜の異変が表に滲んだことで、村がいよいよ“見て見ぬふり”をやめたのだ。
「入れるな」
冬真が言う。
「そうしたいところだが」
綾人は戸口へ歩きながら、軽く肩を竦める。
「向こうもおそらく、それで引く気はない」
戸の向こうで、遠慮がちな、それでいて逃がさない調子の声がした。
「綾人さま。朝早くに失礼いたします」
年寄りの男の声だった。
「村長さまが、千歳さまのご様子を案じておられます」
千歳の指先が、膝の上で小さく強張る。
冬真はその変化を見逃さなかった。
案じている。
よく言う、と思う。
どうせ本音は別だ。供物に異変があったなら、予定どおり差し出せる状態かどうか確かめに来たに決まっている。
綾人は戸を少しだけ開けた。
冷たい朝の空気が細く入り込む。
「まだ休ませている」
外へ向けた声は淡々としている。
「昨夜の件もある。今すぐ人目に触れさせるわけにはいかない」
「ですが」
今度は別の声、女のものだった。
「儀の準備もございますし、家の方も騒ぎになっております。せめてお顔だけでも――」
「ならぬ」
綾人の声が一段低くなる。
「今は社預かりだ」
戸の隙間の向こうで、気配が揺れる。
引き下がるべきか、押すべきか測っているのだろう。
冬真は布団の上で拳を握った。
身体がまともなら、自分が出ていって追い返していた。
だが今の状態では、立ち上がるだけで痣が軋む。
「……千歳さま」
戸の外から、今度は三人目の声がした。
若い女の声だった。
「お家の方も、ご心配なさっています。どうか一言だけでも」
その言い方に、千歳の瞳が揺れる。
家族を出されると弱い。
それを、向こうも知っている。
「返事をするな」
冬真が言う。
千歳がはっとしてこちらを見る。
「でも」
「今はだめだ」
「母さんたちが――」
「それも込みでだ」
言い切ると、千歳は唇を噛んだ。
家族を心配しているのはわかる。昨夜の異変のあと、自分だけ仮殿へ移されれば、家の方が不安になっているのは当然だ。
けれど今ここで素直に顔を見せれば、村の連中はそれを“供物はまだ差し出せる”という確認に使う。
その仕組みごと、冬真は憎かった。
綾人が背中越しに言う。
「冬真の言う通りだ。今はまだ出るな」
「……わかってる」
千歳の返事は小さかった。
わかっていても、心は追いついていないのだろう。
戸の外では、なおも遠慮がちな説得が続く。
「綾人さま、村長さまも大変案じておられまして」
「案じるなら、今は下がれ」
「ですが、儀の日取りも……」
その一言に、仮殿の中の空気がひやりと冷える。
日取り。
まだ明言はされていなかったはずのものが、とうとう口にされた。
「儀、って」
千歳が掠れた声で繰り返す。
綾人は一瞬だけ目を閉じた。
隠しきれなくなったか、という顔だった。
冬真の胸の奥で、怒りが鈍く燃える。
よりによって、このタイミングでそれを口にするのか。
「今、その話をするな」
綾人が低く言う。
「しかし村としては、備えを」
「黙れ」
その一言には、神職としてではなく、綾人個人の苛立ちが滲んでいた。
戸の外が、一瞬しんと静まる。
綾人はその隙を逃さず、淡々と告げた。
「必要なことはこちらから伝える。今日のところは下がれ。二度言わせるな」
戸の向こうで、気配が渋々下がる。
雪を踏む音が、少しずつ遠ざかっていった。
完全に聞こえなくなるまで待ってから、綾人は戸を閉めた。
仮殿に再び静けさが戻る。
だが今度の沈黙は、さっきまでのものとは違った。
もう、はっきり言葉になってしまったからだ。
儀の日取り。
供物。
準備。
「……決まってるんですか」
千歳の声が落ちる。
泣いてはいない。けれど泣く寸前みたいに薄い声だった。
綾人はすぐには答えなかった。
その沈黙だけで、十分すぎたのかもしれない。
千歳の目がゆっくり閉じる。
「いつ」
短い問い。
「まだ最終の正式決定ではない」
綾人が答える。
「だが、このままなら冬の終わりまでには」
「そんな……」
千歳の声が途切れる。
冬真は布団の上で身を起こした。
腕が痛む。だがそんなことに構っていられなかった。
「綾人」
低く呼ぶ。
「何で今それを」
「もう隠しきれん」
綾人は静かに返した。
「昨夜の件で、村も社も動く。今さら耳障りのいい嘘を重ねたところで、余計に遅れるだけだ」
正しい。
正しいが、だからといって許せるわけではない。
千歳は俯いたまま、両手を強く握っていた。
指先が白くなっている。
「千歳」
冬真が呼ぶ。
彼女はすぐには顔を上げなかった。
やがてゆっくり視線を向けてくる。
その目には、恐怖より先に、奇妙な静けさがあった。
「……わたし、薄々わかってた」
小さく言う。
「最近の空気とか、家の準備とか、みんなの目とか」
一度、息を吸う。
「でも、ちゃんと口にされると、やっぱり違うね」
その言い方が、ひどく痛かった。
知っていたのだ。
たぶんずっと前から。
けれど明言された瞬間に、本当に“自分の未来”として立ち上がってしまう。
「嫌なら嫌だって言え」
冬真はほとんど反射で言っていた。
千歳の睫毛が揺れる。
「え?」
「嫌なんだろ」
喉が痛む。だが言葉は止まらない。
「行きたくないなら、行きたくないって言え」
綾人がこちらを見る。
それ以上煽るな、と言いたげな視線だったが、冬真は無視した。
千歳は少し黙った。
その沈黙が、かえって怖かった。
「……嫌だよ」
ようやく零れた声は、あまりに正直で、冬真の胸を強く打った。
「怖いし、行きたくない」
よかった、と心の底で思った。
少なくとも今この瞬間、千歳はまだ“仕方ない”の方へ自分を押し込めてはいない。
だが次の言葉が、その安堵をすぐに奪う。
「でも」
千歳は続ける。
「わたし一人が嫌だって言って、村の人たちが困るなら――」
「そこで止まれ」
冬真の声が鋭くなる。
千歳がびくりと肩を震わせる。
また傷つけた、とわかる。
だが止めなければならなかった。
「困るから我慢する、とか」
冬真は低く続ける。
「そういう考え方をするな」
「でも」
「でもじゃない」
仮殿の中が張りつめる。
綾人も、今度は口を挟まない。
「お前がいなくなる前提で話すな」
冬真は言う。
「そんなの、誰も勝手に決めていいことじゃない」
千歳の瞳が揺れる。
怖いのだろう。
でも、その怖さの中に、別の色も混じり始めていた。
昨夜から何度も見せている、“それでも自分を後回しにしようとする癖”だ。
「冬真は」
千歳が小さく問う。
「どうしたいの」
その問いに、綾人が少しだけ目を細める。
どうしたいのか。
そんなもの、最初から決まっている。
お前を行かせたくない。
そのためなら何でもする。
何を削っても構わない。
だが、それをそのまま全部言うには、まだ早い。
「……行かせない」
それでも、そこだけは曖昧にしたくなかった。
千歳の呼吸が止まる。
「本気で?」
「本気だ」
「村の人たちが何て言っても?」
「関係ない」
「神さま、じゃないものが相手でも?」
「なおさらだ」
言葉にするほど、胸の奥の芯だけが静かになっていく。
それ以外は全部曖昧なのに、そこだけは最初から変わらない。
千歳はその答えを聞いて、泣きそうに笑った。
「……そんなふうに言うんだ」
「何だよ」
「わたし、もっと曖昧な返事するかと思った」
「俺はお前じゃない」
「ひどい」
「事実だろ」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
だがその直後、千歳はまた真顔に戻った。
「でも、そうすると」
小さく言う。
「冬真はもっと傷つく」
そこへ戻るのか、と冬真は思う。
いや、戻るのは当然だ。
千歳にとっては、今や“自分が行くかどうか”より、“冬真がどれだけ傷ついてきたか”の方が、すでに同じ重さになりつつあるのだから。
「それは俺が決める」
冬真が言う。
千歳は少しだけ目を伏せる。
「また、そうやって一人で決める」
「……」
「さっき、全部は無理でも少しずつって言ったのに」
痛いところを突かれる。
その通りだった。
口では少しずつ共有すると言いながら、肝心なところではまだ全部自分だけで抱えようとしている。
綾人がそこで、静かに口を挟んだ。
「二人とも、極端すぎる」
千歳と冬真が同時にそちらを見る。
「冬真は一人で背負いすぎる」
綾人が言う。
「千歳は、自分が消えれば丸く収まると思いすぎる」
千歳の肩が小さく揺れる。
「そのどちらも、向こうにとっては都合がいい」
仮殿の中に沈黙が落ちた。
正しい。
あまりに正しいからこそ、誰もすぐに反論できない。
「今必要なのは」
綾人は続ける。
「どちらがどれだけ我慢するかではなく、どうやって契約を崩すかだ」
「崩せるんですか」
千歳が問う。
「方法がないわけではない」
綾人は即答しなかった。
「だが簡単ではない」
「代償もあるんだろ」
冬真が低く言う。
綾人は一瞬だけ黙った。
「ある」
その一言だけで、千歳の顔色がまた少し変わる。
代償。
その言葉が何を意味するのか、まだ詳しくは知らないだろう。
けれど軽いものではないことだけは、もう理解している顔だった。
「それは、まだ言えないんですね」
千歳の声には、少しの諦めが混じっていた。
「ああ」
綾人は答える。
「少なくとも今はな」
「じゃあ、知れるところまででいい」
千歳は静かに言う。
「わたし、もう勝手に“たぶんこうだろう”って考えるの、怖いから」
その言葉に、冬真はゆっくり息を吐いた。
そうだろう。
想像のまま自分を供物側へ押し込んでしまうのが、今の千歳には一番危うい。
「……次を考える前に」
綾人が言う。
「今日は一度、千歳を家へ戻す必要がある」
「は?」
冬真が即座に顔を上げる。
「今の話の流れで?」
「ずっと仮殿に閉じ込めておけば、余計に村が騒ぐ」
綾人は冷静だった。
「家を捨てさせるわけにもいかん。だがその代わり、今までと同じようには戻さない」
千歳が緊張した面持ちで問う。
「……どうするんですか」
「見張りをつける。結界も張り直す。夜の行動も制限する」
綾人はそう言って、冬真を一瞥する。
「そしてお前は、もう少し動けるようになるまで無理をするな」
「最後だけ無理難題だな」
「当然だ」
千歳は二人のやり取りを見て、それから小さく口を開く。
「冬真は、来ないんですか」
その問いに、空気が少しだけ止まる。
来る。
と言いたい。
言えるなら、そうしたい。
けれど近づけば反動は強まる。
昨夜の段階で、それはもう千歳にも見えてしまっている。
前みたいに何も言わずそばに行くことは、もうできない。
「……行けるときは行く」
結局、そんな答えになる。
千歳はそれを聞いて、少しだけ寂しそうに笑った。
「ずるい答え」
「便利だからな」
冬真が返すと、千歳がほんの少しだけ目を細める。
完全に元には戻れない。
でも、全部が断ち切れているわけでもない。
その中途半端で危うい関係のまま、第1章はさらに終盤へ進んでいく。
第15話の役割は、ここではっきりしていた。
夜を越えた二人が、感情の面では少し近づく。
だが外側では「供物の儀」が具体的に動き始め、もう逃げ場のない時間制限が生まれる。
次話以降は、その圧力を受けながら第1章の締めへ向かう形になる。
仮殿の外で、朝の風が雪を払う。
白い光が少しずつ強くなっていく。
その明るさの中でさえ、冬真にはまだ、昨夜の影の声が耳の奥に残っていた。
――お前が来れば、あの子はこれ以上壊れない。
そんな言葉に絶対乗せないと、あらためて思う。
たとえそのために、自分がどれだけ壊れても。
そして同時に、その考え方そのものが、また千歳を遠ざけるのだともわかっていた。
近づいたぶんだけ、怖くなる。
それはたぶん、千歳も同じなのだろう。




