第1章 第16話:戻る場所が、同じとは限らない
近づいたぶんだけ、怖くなる。
それはたぶん、千歳も同じなのだろう。
朝の光はさらに強くなっていた。
仮殿の障子越しに差し込む白さが、夜のあいだにできた傷や焦げ跡を容赦なく浮かび上がらせる。崩れた壁を仮に塞いだ板の継ぎ目も、床に残る黒い染みも、何もなかったことにはできない。
それは冬真たちの関係にも似ていた。
少し言葉を交わせるようになっても、昨夜までの亀裂が消えたわけではない。
「昼までには戻す」
綾人が言った。
「千歳を家へ戻すなら、それまでに最低限の結界を張り直す必要がある」
冬真は布団の上で眉を寄せる。
「本当に戻すのか」
「戻さない方が不自然だ」
「不自然でいい」
「よくない」
綾人は即答した。
「今の段階で仮殿へ囲い続ければ、村の方が先に動く。お前らの意思とは別の形でな」
それは十分あり得る。
昨夜の異変が広まれば、村は“供物の管理”を強める名目で千歳の行動をもっと縛るだろう。
そうなれば、こちらの手を離れた場所で話が進んでしまう。
冬真は舌打ちしたい気分のまま、壁に背を預ける。
正しい選択肢がどこにもない。
「わたしは戻ります」
千歳が静かに言った。
二人の視線がそちらへ向く。
千歳は戸口の近くに立ったまま、しかし今度は逃げるような顔をしていなかった。覚悟と不安が半分ずつ混じった顔だ。
「家の人たちも心配してるし」
小さく息を吸う。
「ずっとここにいる方が、たぶん余計に話が大きくなる」
冷静だった。
その冷静さが、冬真には少し怖い。
また“自分さえ我慢すれば”の方へ傾いていないか、どうしても疑ってしまうからだ。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「無理して納得しなくていい」
千歳の睫毛が揺れる。
「納得はしてないよ」
返ってきた言葉は静かだった。
「全然してない。でも、だからって隠れてるだけで何とかなるとも思ってない」
その言い方に、昨夜までとは違うものを感じる。
受け身ではない。自分なりに状況を考えようとしている。
それ自体は成長なのかもしれない。けれど同時に、間違った方向へ進みやすくなっている危うさでもあった。
「だから」
千歳は続ける。
「戻る。でも、一人では動かない。勝手に決めない」
そこでほんの少しだけ、視線が冬真に向く。
「……できるだけ」
「最後の一言が信用できない」
冬真が言うと、千歳は少しだけむっとした顔をした。
「信用してないのはそっちでしょ」
「してる」
「してない」
「してる」
「してない」
子どもみたいな応酬だった。
だがそこで、千歳がふっと息を漏らすように笑う。
ほんの一瞬だったが、夜明け前にはなかった笑みだった。
冬真はその顔を見て、胸の奥が少しだけ緩む。
こんな状況で笑わせたいわけじゃない。
でも、笑えるならその方がいいと思ってしまう。
「とにかく」
綾人が小さくため息をつく。
「戻すにしても条件を決める。千歳、お前は夕方以降は絶対に一人になるな」
「はい」
「窓際で寝るな。戸を勝手に開けるな。井戸にも近づくな」
「……はい」
井戸、という単語に千歳の顔が少しだけ強張る。
第2話のことを思い出したのだろう。
もう単なる井戸ではないのだと知ってしまった以上、その響きは変わる。
「家の中にも札を張る」
綾人は続けた。
「お前の部屋だけでは足りん。廊下、奥座敷、裏口、井戸、母屋の四隅。村の者には“社からの厄除け”と説明する」
「そんなの、怪しまれませんか」
千歳が問う。
「怪しまれる」
綾人はあっさり言った。
「だが今さらだ」
それも事実だった。
昨夜の異変が一度でも表に漏れた時点で、もう“普通の娘”としては扱われない。
千歳自身も、それをわかっている顔だった。
「……冬真は」
少し迷ってから、千歳が口を開く。
「どうするの」
綾人より先に、冬真が答えた。
「行ける範囲で動く」
「またその言い方」
千歳が眉を寄せる。
「じゃあ何て言えば満足なんだよ」
「もっと、ちゃんと」
「ちゃんとって何だ」
「曖昧にしないでってこと」
その言葉に、冬真は口を閉じる。
たしかに自分はずっと、曖昧な言い方で逃げてきた。
行けるときは行く。
平気だ。
気のせいだ。
全部、断定を避けた言葉だ。
「……家まで送る」
少し間を置いて、冬真は言った。
千歳が目を見開く。
綾人もわずかに眉を動かした。
「本気か」
綾人が言う。
「その腕で」
「家までだ」
「その“家まで”が危ないと言っている」
「わかってる」
わかっている。
近づくほど反動が強まることも、いまの自分が万全ではないことも。
それでもここで見送るだけにしたら、千歳の中にまた“やっぱり距離を取られる”という感覚だけが残る気がした。
昨夜から今朝にかけて、少しだけ戻った温度を、ここでまた壊したくなかった。
「……無理しなくていい」
千歳が小さく言う。
その声は優しい。優しいから厄介だ。
「お前は黙って守られとけ」
思わず口をついて出る。
千歳の表情がぴたりと止まった。
しまった、と思うには遅い。
「それ」
千歳の声が少し低くなる。
「そういう言い方、すごく嫌」
冬真は言葉に詰まる。
綾人が横で小さく鼻を鳴らした。
「自業自得だ」
「うるさい」
千歳は視線を逸らさず、ゆっくり言う。
「守られてばっかりなのが嫌なんじゃないよ」
「……」
「何も知らされないまま、“守られてろ”って言われるのが嫌なの」
正論だった。
昨夜から、千歳は何度もそこを言っている。
守ることそのものを拒んでいるのではない。
自分の意思ごと置き去りにされることが苦しいのだ。
冬真は短く息を吐いた。
「……言い方が悪かった」
「それは認めるんだ」
「認める」
「珍しい」
その返しに、ほんの少しだけ千歳の表情が和らぐ。
完全に怒っているわけではないのだろう。たぶん今のは、ちゃんと伝えたかっただけだ。
「一緒に行く」
冬真は言い直した。
「ただし、俺が無理だと思ったらその場で止める」
「……うん」
「勝手に抜けるな」
「うん」
「何か聞こえても返事するな」
「うん」
そこまで並べてから、冬真は少しだけ眉をひそめる。
「返事いいな」
「ちゃんと聞いてるから」
「本当かよ」
「本当」
そのやり取りを聞きながら、綾人がため息をついた。
「なら私は先に家へ入って結界を張る。お前らは少し遅れて来い」
「村の目は」
冬真が問う。
「あるだろうな」
綾人は率直だった。
「だからなおさら、“不自然に隠れる”より“社の管理下で戻った”形を作る方がいい」
最悪だが、理屈は通っている。
千歳も黙って頷いた。
◆
綾人が先に出ていってしばらくしてから、二人も仮殿を出た。
外の空気はひどく冷たかった。
けれど夜の冷たさとは違う。朝の光があるだけで、同じ温度でも少しだけ現実味を帯びる。
雪は薄くきらめき、山の端にはかすかな青が戻っていた。
千歳は冬真の半歩後ろを歩く。
昨夜までなら、もっと距離があったか、逆にもっと不用意に近づいていたかのどちらかだっただろう。
今は違う。
お互いが距離を測っている。
「寒い?」
千歳が小さく問う。
「別に」
「嘘」
「……少し」
「やっぱり」
その短い会話だけで、冬真は少しだけ苦く笑いそうになる。
もう、平気だという嘘は以前ほど通らない。
そのこと自体は厄介だが、同時にどこかで安堵もあった。
山道を下りるあいだ、二人は長くは話さなかった。
だが沈黙は、前みたいな冷たさではない。
言えないことが多すぎるだけで、完全に断絶している沈黙ではなかった。
村に近づくと、いくつかの視線がすぐに刺さった。
雪かきをしていた老人。
井戸端に集まる女たち。
薪を運ぶ男。
皆が一瞬だけ手を止め、千歳を見る。
それから冬真にも視線が移る。
好奇心。
不安。
値踏み。
その全部が混ざった目だった。
千歳の肩がわずかに強張る。
冬真はそれを感じ取り、ほんの少しだけ歩幅を緩めた。
「大丈夫か」
低く問うと、千歳は前を向いたまま答える。
「大丈夫じゃないけど、歩ける」
その言い方が、少しだけおかしくて、少しだけ痛い。
今の自分たちは、たぶんそういう段階なのだ。
大丈夫とは言えない。
でも立ち止まれもしない。
家の前まで来ると、すでに門柱と軒先に新しい札が貼られていた。
綾人の仕事だろう。白い紙が朝の光に冷たく浮いて見える。
玄関先には志乃が立っていた。
「千歳!」
娘の姿を見た瞬間、志乃は駆け寄ろうとして――札に気づき、綾人に制されて足を止めた。
その一瞬の躊躇が、家の状況を物語っている。
「お母さん」
千歳が一歩前へ出る。
志乃の顔は泣きはらしたように見えた。
「無事なのね……?」
「うん。大丈夫」
その言葉に冬真は反射で眉をひそめたが、今は何も言わなかった。
大丈夫じゃないのはお互いさまだ。
志乃の視線が冬真へ移る。
そして、彼の顔色や左腕を見て、わずかに息を呑む。
「冬真くん、その腕……」
「平気です」
反射的にそう答えてから、すぐに隣から小さくため息が聞こえる。
千歳だ。
志乃は何か言いたげだったが、綾人が先に口を開いた。
「詳しい話はまだできません。ただ、しばらくは社の指示に従っていただく」
淡々とした神職の声。
「家の中にも制限を設けます。今夜以降、千歳は一人にしないでください」
志乃は蒼白になりながらも頷いた。
もう疑う段階ではないのだろう。昨夜の異変を目の当たりにしていればなおさらだ。
千歳は家の戸口を見つめたまま、少しだけ立ち尽くしていた。
戻る場所のはずなのに、もう以前と同じ家には見えないのかもしれない。
「千歳」
冬真が呼ぶ。
彼女が振り向く。
「何かあったら」
そこまで言って、冬真は少しだけ言葉を探した。
「……すぐ呼べ」
千歳の瞳が、わずかに揺れる。
「来てくれる?」
その問いはあまりに真っ直ぐだった。
答えは決まっている。
だが、それをそのまま綺麗に言えるほど、自分は器用じゃない。
「行ける限り」
結局そうなる。
千歳は少しだけ笑った。
「やっぱりずるい答え」
「便利だからな」
「便利だけど、心細い」
その一言が、胸に残る。
心細い。
そう思わせているのだ、自分はまだ。
少し距離が戻ったところで、問題の本質はそこにある。
千歳は戸口の前で一度だけ立ち止まり、それから小さく言った。
「でも、待つ」
冬真が目を向ける。
「今度は、ちゃんと待つから」
その言葉は静かだった。
けれど以前よりもずっと強かった。
冬真は何も返せなかった。
返せば、今はまだ言えないことまで零れそうだったからだ。
千歳はそれ以上何も求めず、家の中へ入っていく。
志乃がその後を追う。
綾人は札の位置を最後に確認し、軽く息を吐いた。
冬真だけが、門の前に取り残される。
朝の白さの中で、家の中へ消えた千歳の背中が、妙に遠く見えた。
でも昨夜までの遠さとは違う。
届かないままではない。
ただ、間に秘密と代償が横たわっているだけだ。
第1章の締めに向けて、この回は「千歳が家へ戻り、日常へ戻ったように見えて、実際にはもう何も元通りではない」ことを明確にする回になる。
次話以降で第1章ラストへ向かうなら、
・村の圧力
・供物の準備の具体化
・冬真と千歳の“少し近づいたけれど不安定な関係”
この三本を束ねて締めるのが最適だ。
冬真は門柱に貼られた札を見上げ、それからゆっくりと息を吐いた。
待つ、と千歳は言った。
なら自分は、待たせるだけでは駄目だ。
だが同時に、最後の最後まで知らせてはいけない真実もまだ残っている。
その矛盾を抱えたまま、朝は容赦なく先へ進んでいく。




