第1章 第17話:日常の皮を被った圧力
その矛盾を抱えたまま、朝は容赦なく先へ進んでいく。
千歳の家を離れても、冬真の足はすぐには動かなかった。
門柱に貼られた札が、朝の白い光の中で冷たく揺れている。たった数枚の紙で何を防げるのかと思う。昨夜の仮殿で見たものを思えば、こんなものは気休めにも見えた。
それでも、ないよりはましだと知っている自分が、余計に腹立たしかった。
「立ち尽くしていても変わらん」
綾人が言う。
冬真はようやく門から目を離した。
「わかってる」
「なら動け」
「わかってるって言ってるだろ」
吐き捨てるように返すと、綾人は小さく息を吐いた。
「苛立つのも結構だが、千歳の家の前でそんな顔をするな」
「してない」
「している」
そこで会話が切れる。
綾人の言うことはもっともだった。千歳の前でこれ以上余裕のない顔を見せれば、彼女はまた自分を責める。
だからと言って平静を装えるほど、器用でもない。
「村長の家へ行く」
綾人が言った。
「昨夜の件について先に釘を刺しておく」
「効くのか」
「効かなくても言う必要はある」
「面倒だな」
「お前は寝ていろ」
「寝てる間に話が進んだら笑えない」
「今のお前が来ても足手まといだ」
言い返そうとして、冬真は口を閉じた。
否定できないからだ。
左腕は包帯の下でじくじくと熱を持っている。深札の反動は思った以上に深いらしい。足元もしっかりしていない。無理に動けば、昼を待たず倒れる可能性もある。
それでも寝ていろと言われて素直に頷ける性分ではなかった。
「……千歳の家の周りだけ見てから戻る」
「好きにしろ。ただし本当に倒れたら縛ってでも寝かせる」
「やってみろ」
「その元気があるうちは大丈夫か」
最後にそう言い残して、綾人は坂を上っていった。
冬真はその背を見送り、ひとつ息を吐く。
千歳の家のまわりは静かだった。
静かすぎるとも言える。近所の家々はすでに戸を開け、雪かきや水汲みを始めているのに、千歳の家の周囲だけ妙に空気が硬い。
誰も近づかない。近づきたがらない。
それが“心配”ではなく、“穢れた供物には一定以上触れない”という村の習いに近いものだと、冬真は知っている。
軒下へ回る。
裏口にも札が打たれている。井戸の周囲には灰が撒かれ、昨日まで見慣れていた庭が別の家みたいに見えた。
そこで、不意に障子が少しだけ開いた。
千歳だった。
ほんの細い隙間から、冬真の姿を見つける。
「……何してるの」
小さな声。
「見回り」
「さっき帰ったばっかりでしょ」
「気になったから」
「それ、見回りじゃなくて心配って言うんだよ」
そう言って、千歳は少しだけ笑う。
朝の薄い光の中で見るその顔は、昨夜よりずっと人間らしかった。けれど目の下の影と、笑いきれない口元が、何も終わっていないことを告げている。
「中、入る?」
千歳が言った。
冬真は一瞬だけ沈黙する。
入りたい。
だがそれは今の自分には危険でもあるし、村の目もある。
「やめとく」
短く返すと、千歳は少しだけ寂しそうに睫毛を伏せた。
「そっか」
その顔が痛い。
けれど今は入れない。ここで不用意に距離を詰めれば、また昨夜と同じことになるかもしれない。
「お前は」
冬真が言う。
「今日は外に出るな」
「わかってる」
「本当に?」
「本当に」
千歳は少しだけむっとして続ける。
「信用してないでしょ」
「してる」
「してない」
「……半分」
「最低」
その応酬のあと、二人とも少しだけ黙った。
沈黙は気まずいというより、何を言えばいいかわからないだけの沈黙だった。
やがて千歳が、障子の桟に手を置いたまま小さく言う。
「さっきの続きなんだけど」
「何」
「待つって言ったの、本当だよ」
冬真は眉を寄せる。
「でも」
千歳は続ける。
「待つだけじゃなくて、考える」
「何を」
「わたしにできること」
その一言に、冬真の背筋がすっと冷える。
ほら来た、と思う。
「余計なこと考えるな」
「余計かどうかは、まだわかんないでしょ」
「わかる」
「なんでそんなに決めつけるの」
千歳の声に、少しだけ棘が混じる。
責めたいのではない。けれど昨日までみたいに素直に引き下がりもしない。
それが今の彼女の変化だった。
「千歳」
冬真は低く言う。
「お前が何かしようとするたび、向こうはそこを使う」
「それはわかる」
「わかってない」
言い切った瞬間、千歳の目が揺れる。
しまった、と思う。わかっていないと言われるのは、彼女にとって“また置いていかれる”のとほとんど同じ痛みだからだ。
「……じゃあ」
千歳が静かに言う。
「わかるようにしてよ」
返す言葉が止まる。
その通りだった。
「何が危なくて」
千歳は続ける。
「何なら大丈夫なのか、少しでも教えてくれなきゃ、わたしだって考えようがない」
そこで一度、息を挟む。
「全部はまだ無理でも、ゼロのままにはしないって言ったの、そっちだからね」
痛いところを突かれて、冬真は目を伏せた。
たしかにそうだ。少しずつ共有すると言ったのは自分だ。
ならば、何も考えるなと命じるだけでは足りない。
「……夕方以降は一人になるな」
千歳が目を瞬く。
「それから、呼ばれても返事するな。夢でも同じだ。井戸と奥座敷には近づくな。夜に窓を開けるな」
「……うん」
「変な匂いとか、鈴の音とか、名前を呼ぶ声がしたら、すぐ誰か呼べ」
「うん」
「我慢して黙るな」
「……うん」
最後のひとつだけ、千歳の返事が少し遅れた。
図星なのだろう。気づかれたくないことほど黙ってしまう癖は、たぶん彼女にもある。
「それが今、お前にできることだ」
冬真が言うと、千歳は少しだけ黙った。
それから小さく頷く。
「わかった」
そう言ったあと、障子の隙間の向こうで少し笑う。
「ちょっとだけ、先生みたい」
「うるさい」
そのやり取りの直後、表の方で女たちの声がした。
噂話めいた、遠慮のない声。
『やっぱり昨夜、何かあったのよ』
『仮殿なんて、供物の前にしか使わないじゃない』
『まだ日も決まってないのに気の毒にねえ』
『でも、そういう運命の子ってことでしょう』
冬真の背中に、鈍い怒りが走る。
千歳も聞こえたのだろう。障子の向こうの気配が少し固くなる。
「聞くな」
冬真が言う。
「無理」
千歳は正直に返した。
「聞こえるもん」
たしかにそうだ。
村の視線も噂も、怪異と違って札では防げない。
「でも」
千歳は小さく続ける。
「昨日までよりは、少しだけ平気」
「何で」
「……冬真が、行かせないって言ったから」
胸が強く打つ。
そういうことを、いちいち真っ直ぐに返すから困る。
今の自分には、その言葉の重さを受け止めきる余裕がない。
「……じゃあ、それ信じとけ」
ようやく返すと、千歳が少しだけ目を細める気配がした。
「ずるいけど、信じる」
障子がそっと閉まる。
冬真はその薄い白の向こうをしばらく見つめていた。
完全には離れない。
だが、すぐそばにいられるわけでもない。
その中途半端な距離のまま、第1章の最後の引きへ向かっていく。




