第1章 第7話:戸一枚ぶんの祈り
「――千歳」
その声は、ひどく優しかった。
母親が幼子を宥めるときみたいに、恋人を呼ぶときみたいに、あまりにも自然で、あまりにも穏やかで。
だからこそ気味が悪い。
冬真は戸にかけた手へ力を込めたまま、息を殺した。
仮殿の薄い板一枚を隔てた向こうで、何かがゆっくりと這っている。木の外壁を撫でる、湿った布のような擦過音。時折混じる鈴の音。地面を引きずる重い気配。
「冬真……」
後ろで千歳が掠れた声を出す。
「動くな」
振り返らずに言う。
「絶対、こっち来るな」
言葉を落とした直後、戸の向こうで爪が立った。
ぎり、と。
板が軋む。
冬真の背筋を冷たいものが走る。
外の気配は仮殿を“叩いている”のではない。撫でている。探っている。どこが薄いか、どこから入り込めるかを確かめるみたいに、ゆっくり、執拗に。
からん。
鈴が、また鳴る。
「千歳」
今度はもっと近かった。
戸のすぐ向こう、耳を寄せれば息づかいまで聞こえそうな距離で、湿った声が囁く。
「寒いでしょう」
「出ておいで」
「みんな待ってる」
冬真は奥歯を噛み締めた。
その言い方を知っている。
“自分が行けば誰かが助かる”と信じている人間に、いちばん効く呼び方だ。
後ろで、布が擦れる小さな音がした。
千歳が、たぶん無意識に一歩前へ出たのだ。
「来るな!」
冬真が振り返る。
千歳は卓の脇で肩を震わせていた。
その顔は青ざめているのに、瞳だけが戸の方へ引っ張られている。自分の意思ではないとわかる。なのに、呼び声の一部は確かに彼女の内側へ届いてしまっている。
「ごめん……」
千歳が小さく呟く。
「なんか、頭が……」
「聞くな」
「でも、」
「聞くなって言ってる」
強い口調に、千歳の肩がびくりと跳ねた。
まただ、と冬真は思う。
守ろうとするたび、先に傷つける。
それでも今は、優しい言い方を選んでいる余裕がなかった。
外で、どん、と低い音が響く。
何か重いものが仮殿の壁へ体当たりしたのだ。
柱が震え、卓の上の茶碗がからりと鳴る。
「ちっ……」
冬真は懐から札を抜いた。
残りは多くない。石段の結界、奥座敷の封じ、ここに来るまでの対処でかなり削っている。
今夜を越えるには、本当なら温存したい数だ。
だが、越えられなければ意味がない。
札へ血を落とそうとしたそのとき、綾人の声が外から飛んだ。
「開けるな! 今、境を切っている!」
次いで、地面を打つ金属音。
銀針か何かを打ち込んでいるのだろう。外の気配が一瞬だけ濁り、壁を這っていた音が遠のく。
だが完全には消えない。
ぐるり、と。
今度は仮殿の裏手へ回る気配がする。
「冬真」
千歳の声が、今度は思ったより近かった。
振り向くと、彼女は卓から立ち上がっていた。
いつの間にか数歩ぶん詰めてきていて、顔色は悪いままなのに、その表情には恐怖だけではない別の色がある。
「何」
「……わたし、邪魔?」
意味がわからず、一瞬言葉を失う。
「は?」
「だって、わたしがいると冬真、無茶するから」
胸の奥で何かがきしむ。
そういう結論になるのか。
ここまで見て、そこへ行くのか。
「だから」
千歳は続ける。
「もし、わたしが外に出た方が――」
「やめろ」
声が思った以上に低く落ちた。
千歳が息を呑む。
「その先を言うな」
「でも」
「言うな」
ぴしゃりと断つと、千歳は唇を噛んだ。
泣きそうな目で、それでもこちらを見ている。
「どうして」
「どうしてもだ」
それしか言えない。
どうして。
その答えを口にした瞬間、たぶん全部が壊れるからだ。
お前を助けたいから、なんて。
お前に消えてほしくないから、なんて。
そんな当たり前の本音すら、今は刃物みたいに危うい。
外で、再び鈴が鳴る。
今度は仮殿の裏ではない。屋根の上だ。
からん。
からん、からん。
這う音が天井へ移る。
冬真は反射的に見上げた。
梁がきしむ。
細かな雪が隙間からぱらぱらと落ちてくる。
「……上か」
冬真が低く吐くのと同時に、綾人の怒声が飛ぶ。
「伏せろ!」
次の瞬間、屋根板を突き破って黒いものが垂れ下がってきた。
腕ではない。
髪の束みたいな、縄みたいな、細い黒が何十本も絡まり合った塊だ。その先端にだけ人の指のような形があり、蜘蛛の脚みたいに器用に梁へ絡みつく。
千歳が小さく悲鳴を呑み込む。
冬真は彼女を背に庇いながら、札を二枚、天井へ向けて投げた。
「落ちろ!」
赤い光が走る。
黒い束の一部が弾け、煤のように散る。だが本体はなおも垂れ下がり、真っ直ぐ千歳へ伸びてくる。
呼んでいるのだ。
最初から冬真ではなく、彼女だけを。
冬真は踏み込んだ。
伸びてきた黒を右手で払い、左腕で受ける。瞬間、包帯の下の痣が灼けた。
「っ、ぁ……!」
痛みが視界を白く飛ばす。
だがそのまま退けば千歳に届く。
冬真は歯を食いしばり、逆に黒を掴んだ。
「返せ」
声と同時に、痣が赤黒く脈打つ。
黒い束がぶるりと震え、嫌な悲鳴のような音を立てた。梁に絡んだ部分からじわじわと色を失い、冬真の腕の中へ流れ込んでくる。
多い。
今までよりずっと。
喉の奥が焼ける。呼吸が浅くなる。膝が揺れる。
だが手は離さない。
「冬真!」
千歳の叫びが、すぐ後ろで弾けた。
「下がれ!」
「やだ!」
「千歳!」
怒鳴った瞬間、彼女の手が冬真の背中に触れた。
ほんの一瞬。
それだけで、冬真の全身が凍りつく。
触れられた場所から、痣の熱が跳ねた。
まずい、と本能が叫ぶ。
近すぎる。反動が彼女へ返る。
「離れろ!」
普段よりずっと鋭い声が出た。
千歳がびくっとして、手を離す。
その一瞬の隙に、冬真は最後の力で黒い束を床へ叩きつけ、札を重ねて封じた。
赤い光が網目のように広がり、黒い塊を焼く。
焦げる匂いと濁った絶叫が仮殿の中を満たし、やがて塊は灰のように崩れた。
静かになる。
だが静寂が戻った途端、冬真の足元が大きく揺らいだ。
限界に近い。
わかる。
立っているだけで精一杯だ。
それでも振り返ると、千歳はすぐそこで顔を青くしていた。
その表情を見た瞬間、胸の痛みの種類が変わる。
「……ごめん」
千歳が、掠れた声で言う。
「今、触ったから」
違う。
そうじゃない。
謝るな。
そう思うのに、喉はすぐには動かなかった。
「お前のせいじゃない」
ようやく出た声は、ひどく掠れていた。
千歳の目が揺れる。
「でも、わたしが」
「違う」
言い切ると、外から綾人が戸を開けて飛び込んできた。
袖に雪を払いながら、床に散った灰と冬真の顔色を見て、露骨に眉をひそめる。
「馬鹿か、お前は」
「今さらだろ」
「返す言葉もないな」
綾人はすぐに懐から札を二枚取り出し、天井の破れた箇所と戸口へ貼りつけた。仮殿の空気が一瞬だけ張り詰め、薄い膜ができる。
「ひとまず今ので追い返した。だが長くは保たん」
「わかってる」
「わかっていてその顔か」
綾人の視線が冬真の左腕へ落ちる。
包帯はもう半分ほど赤黒く染まっていた。
千歳もそれを見て、息を呑む。
「そんな……」
冬真は袖を押さえた。
見せたくない。だが隠しきれない。
「もういい」
冬真が低く言う。
「今夜はこっちで持たせる。朝になれば――」
「朝まで、って」
千歳が遮った。
「その腕で?」
痛いほどまっすぐな声だった。
「できる」
「またそうやって」
「できる」
言い切った瞬間、千歳の表情が変わる。
怒った、というより、耐えきれなくなった顔だった。
「どうしてそんなふうに言えるの」
か細いのに、部屋の奥まで届く声。
「もう見てわかるくらい苦しいのに」
「……」
「どうして、わたしにまで平気なふりするの」
返せない。
平気なふりをしている自覚はある。
だが、それ以外のやり方を知らないのも本当だった。
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「今は」
「今は、じゃないです」
千歳は珍しく、綾人の言葉まで遮った。
その声に、冬真も綾人も一瞬だけ黙る。
「ずっと、今はって言われてる」
千歳はゆっくり息を吸う。
「怖いことが起きてる。冬真は傷ついてる。わたしは呼ばれてる。そこまではもう、わかる」
握った指先が小さく震えていた。
「なのに、その先だけ、何も教えてくれない」
静かな部屋に、炭の爆ぜる音が小さく響く。
誰もすぐには口を開けない。
やがて千歳は、ひどく静かな声で続けた。
「わたし、そんなに頼りない?」
「違う」
冬真は反射で答えていた。
「じゃあどうして」
その問いに、また言葉を失う。
綾人が横目でこちらを見る。
話すのか、と問うような視線。
無理だ、と冬真は目だけで返す。
まだ言えない。
ここで半端に口を開けば、千歳はきっと全部自分のこととして受け取る。
その瞬間から、彼女は“守られる側”でいてくれなくなる。
それだけは、最後まで避けたかった。
「……あとで話す」
苦し紛れに出た言葉は、自分でも情けなかった。
千歳はそれを聞いて、わずかに目を細める。
「それ、本当?」
「……」
「答えて」
冬真は数秒、黙った。
その沈黙で、もう十分だったのだろう。
千歳は小さく笑った。
泣きそうな、でも泣かない笑い方で。
「やっぱり」
その一言だけで、胸の奥が重く沈む。
「わたし」
千歳は視線を落としたまま言う。
「冬真に嫌われたのかと思ってた」
冬真の呼吸が止まる。
「でも違うんだよね。嫌ってるんじゃなくて、たぶん……遠ざけてる」
静かな声だった。
「それが、余計に苦しい」
何かを言わなければならない。
今すぐ。
そう思うのに、喉の奥にあるのは言葉ではなく鈍い痛みばかりだ。
綾人が小さく息を吐いた。
「千歳」
「はい」
「今夜を越えたら、少なくとも一つは話す」
冬真が顔を上げる。
綾人は構わず続けた。
「それでいいか」
「綾人」
低く制する。
だが綾人は一歩も引かない。
「これ以上は持たん。お前も、彼女も」
その一言は冬真にだけ向けられていた。
千歳はしばらく黙っていたが、やがて小さく頷いた。
「……わかりました」
けれど次に顔を上げたとき、その目にはまだ消えない不安が残っていた。
「でも、約束してください」
「何を」
「それまで、冬真を一人で無茶させないで」
綾人がわずかに目を細める。
「善処する」
「善処じゃなくて」
「千歳」
冬真が口を開く。
「いい」
二人の視線がこちらへ向く。
「俺は平気だ」
言った瞬間、千歳の眉が寄る。
ああまたそれだ、と言いたげな顔だった。
だが今は、それしか言えなかった。
本当は平気ではない。限界も近い。けれどここで弱った顔を見せれば、千歳は今すぐ自分を差し出しかねない。
だから、嘘でも何でも言い切るしかない。
千歳は何か言おうとして、結局、唇を引き結んだ。
その沈黙が落ちた直後――。
仮殿の外で、ずるり、と重い音がした。
綾人が即座に戸口を見る。
冬真も反射で身構える。
今のは、さっきまでの這うような気配とは違う。もっと大きい。もっと近い。地面そのものを引きずるみたいな重さだ。
からん。
鈴がひとつ鳴る。
次いで、仮殿の正面の壁へ、ゆっくりと大きな影が映った。
人の形に似ている。
だが頭が低すぎて、肩が異様に広い。腕は膝より下まであり、その先にいくつも指が揺れている。
影だけなのに、そこに“いる”とわかる密度だった。
千歳が小さく息を呑む。
影は壁越しに、まるでこちらの位置を確かめるように首を傾げた。
それから、ひどくゆっくりと、片手を持ち上げる。
次の瞬間、仮殿の正面の札が、上から順に黒く染まり始めた。
「……まずい」
綾人の声が低く落ちる。
「本体に近い」
冬真は千歳の前へ半歩出た。
腕の痛みはもう感覚を越え、熱と痺れが曖昧に混じっている。
それでも目を逸らさない。
壁の向こうの影が、口の形もないまま、はっきりと笑った気がした。
そして今度は、冬真ではなく、部屋の中の千歳だけを見つめるようにして、もう一度その名を呼ぶ。
「――千歳」
優しく。
慈しむように。
まるで最初から、迎えに来るつもりでいたみたいに。




