第1章 第6話:言えないまま、手だけが残る
塀にもたれたまま、冬真は荒い呼吸を繰り返していた。
夜気は冷たいはずなのに、身体の内側では別の熱が暴れている。背中に食い込んだ黒い腕の痕が、皮膚の下を這い回るように脈打っていた。
視界の端がじわじわと暗く滲む。
「冬真」
千歳の声が近い。
腕の中にいたはずの彼女は、いつの間にか自分の足で立っていた。無理やり下ろしたのだろう。塀に手をついて身体を支えながら、それでも冬真の方を見上げている。
「下がってろ」
「やだ」
「千歳」
強く言ったつもりだった。
だが声は思ったより掠れていて、脅しにもならなかった。
千歳は一歩だけ近づく。
寝間着の上から羽織を引っ掛けただけの姿で、頬は夜の冷気に白く冷えている。それでも瞳だけは逸れない。
「また、平気って言うの」
「……平気だ」
「嘘」
間髪入れず返されたその一言が、痛いほどまっすぐ胸に刺さる。
綾人が小さく舌打ちした。
「言い争っている場合じゃない。千歳、まず中へは戻るな」
「え……」
「家の中はまだ不安定だ。今は門の外の方がましだ」
千歳の表情が強張る。
当然だろう。自分の家に戻るなと言われて、すぐに呑み込めるはずがない。
「どういうことですか」
声は震えていたが、問いは真っ直ぐだった。
「さっきから何が起きてるんですか。あの部屋も、声も、今のも……全部、見間違いじゃない」
冬真は目を閉じたくなった。
そうだ。もうここまで来て、見間違いで押し通せる段階ではない。千歳は見た。感じた。自分の家の奥で起きた異常を、もう知らないふりでは飲み込めないところまで来ている。
けれど、説明はできない。
説明の最初の一言を口にした瞬間、その先に続くものまで全部崩れる気がした。
今まで隠してきたことが、全部。
「冬真」
千歳がもう一度、名を呼ぶ。
「お願い。何でもいいから、ちゃんと話して」
その“お願い”に含まれた切実さに、胸の奥が大きく軋んだ。
話したい。
何もかも。
社のことも、供物のことも、お前が呼ばれていることも、ずっと前から知っていたことも。
けれど、そのどれか一つでも零せば、きっと千歳は自分を優先しない。
だから、言えない。
「……今は無理だ」
絞り出した声は低かった。
千歳の顔から、表情が静かに消える。
泣きはしない。ただ、諦めに似た色が滲んだ。
「また、それなんだね」
「千歳」
「わたし、怖かった」
遮るように落ちた言葉に、冬真は息を呑む。
「すごく怖かった。でも、それより」
千歳は両手を胸元で強く握りしめる。
「冬真が、わたしの前で傷つく方が、もっと怖かった」
言葉を返せない。
目の前の少女は、たった今、自分の家が怪異に呑まれかけたばかりだというのに、それでもなおこちらの痛みを先に見ている。
やはり知られてはいけない。
この優しさを知っているからこそ、なおさら。
「だから」
千歳は続ける。
「わたしのせいでそうなるなら、もう来ないでって言いたいのに……」
そこで一度、声が震えた。
冬真の喉が強く締まる。
「それも嫌なの」
か細い告白だった。
「怖いのに、来てほしいって思ってる自分が、いちばん嫌」
その一言で、夜の冷たさが意味を失う。
心臓だけが、嫌なほど大きく鳴っていた。
来てほしい。
そう思ってくれているのに、自分はそのたびに突き放す。
守るためだと言い聞かせながら、実際には何一つ返せていない。
冬真が何も言えずにいると、綾人が静かに口を開いた。
「千歳。今夜だけは、社の仮殿へ移ってもらう」
「社、に……?」
「ここよりは安全だ」
「安全って……何からですか」
綾人は一瞬だけ冬真を見た。
答えるかどうかを測るような視線だった。
冬真は何も言わない。
言えない。
綾人は小さく息を吐く。
「今は、説明より先に距離が必要だ」
「それじゃ何もわからないままです」
「わからないままで済ませるつもりはない」
「でも、今は言えない?」
千歳の問いは鋭かった。
綾人が少しだけ目を細める。
「……そうだ」
「どうして」
「君が優しいからだ」
空気が止まった。
冬真が反射的に綾人を見る。
綾人はそれ以上何も言わなかったが、その一言だけで十分すぎた。
千歳の瞳が揺れる。
「優しい、から……?」
まずい、と思った。
そこから先は言わせてはいけない。綾人は核心を知っている。このまま口を滑らせれば、まだ早い段階で千歳に余計な形の真実が触れてしまう。
「綾人」
冬真が低く呼ぶ。
「わかっている」
淡々と返した綾人は、それ以上は続けなかった。
「とにかく今は移る。話はその後だ」
「わたしは」
千歳が、はっきりと言った。
「冬真が来ないなら行きません」
冬真の胸が強く跳ねる。
綾人も一瞬黙った。
この頑固さは想定していたのかもしれないが、正面から言われるとやはり重い。
「千歳」
冬真が声を絞る。
「わがまま言うな」
「わがままなのはそっちでしょ」
返ってきた声は震えていたが、弱くなかった。
「わたしには何も言わない。何が起きてるのかも教えない。傷ついてても平気だって言う。なのに危ないときだけ勝手に来て、また黙る」
千歳は冬真を見上げる。
「それで、はいそうですかって従えるわけないよ」
何も言えなかった。
全部、正しい。
正しいからこそ、痛い。
「……今は説明できない」
それでも同じ言葉しか出てこない自分が、嫌になる。
千歳はわずかに目を伏せた。
「わかってる。たぶん、ちゃんとした理由があるんだろうなって、ずっと思ってる」
そこで一度、呼吸を挟む。
「でも、それで傷つかないわけじゃないよ」
その静かな一撃に、冬真は何も返せなかった。
◆
結局、千歳は仮殿へ移ることになった。
ただし条件付きだった。
冬真も一緒に来ること。
それが千歳の譲らなかった条件で、綾人はしばらく渋った末に折れた。
「本当に最悪の噛み合わせだな」
村はずれの細道を先導しながら、綾人が小さく漏らす。
「うるさい」
冬真は短く返した。
千歳はその少し後ろを歩いている。
さっきまでの寝間着のままでは冷えるため、志乃たちを起こさないよう最低限の荷だけ持ち出した。だが今も足取りは少し不安定だ。
本当なら支えたい。手を貸したい。昔みたいに当たり前に。
けれどそれをすれば、今度は千歳の方が手を放してくれなくなる気がした。
だから冬真は半歩だけ前を歩き、振り返らないまま気配だけで彼女の足取りを追った。
「ねえ」
不意に、千歳が後ろから言う。
「仮殿って、社の近くなんだよね」
「ああ」
答えたのは綾人だった。
「本殿よりは手前だが、山の入口にある」
「危なくないんですか」
「今の家よりは、ましだ」
その物言いに、千歳は納得しきれていない顔をした。
当然だ。危険の輪郭を教えられていないのだから。
しばらくして、また小さな声が落ちる。
「冬真」
歩きながら名を呼ばれ、冬真の肩がわずかに強張る。
「……何だ」
「さっき、綾人さんが言ったこと」
優しいからだ。
あの一言のことだとすぐわかった。
「どういう意味?」
冬真は答えない。
「冬真は、知ってるんだよね」
「……」
「わたしに言えない理由」
知っている。
知っていて隠している。
それがどれだけ残酷かもわかっている。
けれど今ここで答えれば、千歳の中で点と点がつながり始める。
それはまだ早い。
最後まで隠し通すと決めたのなら、こんな中途半端な形で揺らしてはいけない。
「あとで綾人から聞け」
やっと出たのは、それだった。
冬真の背後で、千歳の足音が一瞬だけ止まる。
「……それ、本気で言ってる?」
低い声だった。
静かなのに、さっきまでよりずっと傷ついているのがわかる。
「お前に関わることなのに、冬真は自分で話さないんだ」
「今は」
「今は、今はって、そればっかり」
声が少しだけ掠れた。
振り返りそうになるのを、冬真はどうにか堪える。
「わたし、そんなに頼りない?」
またその問いだ。
何度も何度も、同じところへ戻ってくる。
「違う」
「じゃあどうして」
答えられない。
沈黙だけが伸びていく。
それが答えの代わりになってしまうと知りながら、どうしても言葉が出ない。
やがて千歳は、もうそれ以上は何も聞かなかった。
その代わり、足音が少しだけ遠くなる。
半歩ぶんの距離が、そこでまた広がった。
◆
仮殿は山の入口にひっそりと建っていた。
本殿ほど大きくはない。木造の小さな社で、旅人が一時的に身を寄せるための部屋が横に付いている。普段はほとんど使われていないため、人の気配は薄い。
けれど今夜は、入口に新しい札が何枚も貼られ、敷居の前には塩と灰が撒かれていた。
「中に入れ」
綾人が言う。
千歳は従ったが、敷居をまたぐ前に振り返る。
「冬真も?」
「入る」
短く答えると、彼女はようやく中へ入った。
室内は狭いが暖かかった。
炭が焚かれ、木の香りと薬草の匂いが混じっている。壁際には簡素な寝台が二つ置かれ、中央の卓には水と茶が用意されていた。
誰かが急いで整えたのだろう。雑だが、最低限は揃っている。
千歳は入口の近くで立ち尽くしている。
ここまで来ても落ち着けないらしい。視線が定まらず、指先が袖口を握り込んでいた。
「座れ」
冬真が言う。
「……うん」
素直に応じたものの、千歳は寝台ではなく卓の脇へ座った。
それを見届けてから、冬真も壁際に寄る。
綾人が戸を閉め、結界札を一枚、内側へ貼り足した。
「これでひとまずは保つ。私は外の見回りに出る」
「一人で?」
千歳が不安げに問う。
「本殿側を見ないといけない」
綾人は淡々と答え、それから一瞬だけ冬真を見る。
「お前は、勝手に外へ出るな。千歳から目を離すな」
「命令するな」
「今夜ばかりは命令だ」
それだけ言い残し、綾人は出ていった。
戸が閉まり、部屋には炭の爆ぜる小さな音だけが残る。
沈黙が落ちる。
冬真は壁にもたれ、視線を伏せた。
千歳は卓の向こうで膝を抱えるように座っている。
狭い部屋だ。
それなのに、距離はさっきまでよりずっと遠い。
「……ありがとう」
最初に沈黙を破ったのは千歳だった。
冬真が顔を上げる。
「何が」
「連れてきてくれたこと」
「綾人が言ったからだ」
「そういう言い方、しなくていいのに」
少しだけ、千歳が笑った。
泣きそうなときの笑い方だった。
「わたし、ちゃんと覚えてるよ」
「何を」
「冬真が来てくれたこと。何回も」
どくりと心臓が鳴る。
何回も。
そこにどこまで含まれているのかはわからない。昨夜のことか、昼のことか、それとももっと前――自分が知られないように処理してきた“偶然”まで含まれているのか。
「覚えなくていい」
反射的に言ってしまう。
千歳は少しだけ目を見開いて、それから静かに目を伏せた。
「……そうやって、すぐ消そうとする」
責める声音ではなかった。
でもその分、痛みが深い。
「消えないよ」
千歳は続ける。
「わたし、全部はわからない。でも、冬真が何かしてくれてるのは、もうわかる」
「気のせいだ」
「まだ言うの?」
苦笑するような声だった。
「わたし、そんなに鈍くないよ。昔から、冬真が何か隠してるときくらい、ちゃんとわかる」
そこで少し間を置く。
「……でも、何を隠してるのかまでは、わからない」
言葉が胸に沈む。
そこだけは、どうしても越えさせたくない線だ。
気づかれている。疑われている。心配もされている。それでもなお、本当のところだけは届かせたくない。
千歳は膝の上で指を組みながら、小さく息を吐いた。
「わたしね」
視線を卓に落としたまま言う。
「昔、冬真が怖い夢を見たとき、絶対言わない人だって思ってた」
「……そんなこと、あったか」
「あるよ。小さい頃。雪の日の夜に」
冬真は黙る。
覚えていないわけではない。ただ、思い出したくない種類の記憶だった。
「冬真、朝になっても平気な顔してた。でも手がずっと冷たくて」
千歳が少し笑う。
「わたし、あのとき初めて思ったの。あ、この人は平気なふりが上手なんじゃなくて、平気なふりしかできないんだって」
息が詰まる。
見抜かれていた。
そんな昔から。
今よりずっと単純だった頃から、千歳はちゃんと見ていたのだ。
「だから」
千歳は顔を上げる。
「今も、たぶん同じなんだろうなって思ってる」
冬真は言葉を探した。
けれど見つからない。
「……お前は」
ようやく出た声は低かった。
「そういうとこ、変わってないな」
「何が?」
「余計なとこまで見てる」
「余計じゃないよ」
千歳は即座に否定した。
その強さに、冬真は少しだけ目を伏せる。
「わたしにとっては、大事なことだもん」
その一言は、静かな部屋の中でひどく真っ直ぐ響いた。
大事。
そう言われる資格が自分にあるのか、冬真にはわからない。
守るために傷つけて、突き放して、今も何一つ話していないのだから。
「……悪い」
また謝ることしかできない。
千歳は困ったように眉を下げる。
「謝ってほしいわけじゃない」
「知ってる」
「じゃあ、どうしてそんな顔するの」
そんな顔。
たぶん、自分でもろくでもない顔をしているのだろう。
「知らない」
「嘘」
「……嘘だ」
認めると、千歳はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
それでも笑顔にはならない。
「冬真」
「何だ」
「今夜だけでいいから、ひとつだけ約束して」
嫌な予感がした。
こういうときの千歳は、昔から妙に核心を突く。
「何を」
「無茶しないで」
冬真は目を逸らした。
「無理だ」
「即答しないでよ」
思わず、千歳が少しだけ声を荒げる。
その反応に、冬真はかすかに目を見開いた。ほんの少しだけ、昔みたいな温度だったからだ。
「だって」
千歳は唇を尖らせ、でもすぐに弱くなる。
「見てる方は、すごく嫌なんだよ」
「……」
「怖いし、苦しいし、何もできないのがいちばん嫌」
その言葉に、冬真はゆっくり息を吐いた。
何もできない。
そう思わせているのは自分だ。
本当なら、千歳に背負わせたくないからこそ隠している。なのに結果として、何も知らされない不安だけを押しつけている。
「約束はできない」
冬真は正直に言った。
「でも」
一拍置く。
「死なない」
千歳が顔を上げる。
その目が、ほんの少しだけ揺れた。
「それ……信じていい?」
「信じなくてもそうする」
「何それ」
「事実だ」
久しぶりに、千歳が本当に少しだけ笑った。
泣きそうな気配は残っていたが、それでもさっきまでの硬さは和らいでいる。
「じゃあ」
千歳は小さく言う。
「わたしも、勝手に諦めない」
冬真の指先がわずかに強張る。
さっき奥座敷で言った言葉を、覚えていたのだろう。
――お前が勝手に諦めるな。
あれをそのまま返された形だった。
「……そうしろ」
それだけ答えるのが精一杯だった。
炭が小さく爆ぜる。
沈黙が戻る。
けれどさっきまでとは少しだけ違った。まだ重く、まだ痛いのに、完全に切れてはいない沈黙だった。
そのとき、不意に外で鈴が鳴った。
からん。
部屋の空気が張りつめる。
冬真は即座に立ち上がり、戸の方を見る。
千歳の肩も強張った。
からん、からん。
今度は二度。
しかも近い。仮殿のすぐ外だ。
「冬真……」
「動くな」
低く言い置き、冬真は戸へ向かう。
包帯の下の痣が熱を持つ。呼び声は止んでいない。それどころか、社へ近づいた分だけ濃くなっている。
外から、綾人の怒鳴る声が飛んだ。
「出るな! まだ開けるな!」
同時に、何か重いものが地面を引きずる音がする。
仮殿の周囲を、ぐるりと回るように。
千歳が息を呑むのがわかった。
冬真は戸に手をかけたまま、歯を食いしばる。
ここまで来ても、まだ追ってくる。
仮殿の薄い壁一枚を隔てた向こうで、何かがこちらを覗いている気配がした。
そしてその気配は、はっきりと千歳の名を呼んだ。
「――千歳」
低く、湿った、優しい声で。




