第1章 第5話:結界の夜、ほどけない誤解
日が落ちるのは、あっけなかった。
夕暮れは山の端から滲むように村を呑み込み、薄紫だった空はあっという間に深い藍へ沈んでいく。雪はやんでいるのに、空気は昼より冷たかった。
冬真は村外れの小道をひとり、社の方へ向かっていた。
袖の下の包帯は、もう何度も巻き直したせいで少し緩んでいる。
その内側では、新しい熱と古い痛みが混ざり合い、絶えず脈を打っていた。
足を進めるたび、千歳の顔が浮かぶ。
『優しいふりしなくていいよ』
あれは怒りではなかった。
だから余計に苦しい。
怒られる方がよほど楽だ。
恨まれるならまだ耐えられる。
けれど、傷ついたまま引き下がられるのは、逃げ道がない。
冬真は奥歯を噛み、肩越しに村を振り返った。
家々の灯りがぽつぽつと点いている。その中のひとつに、千歳がいる。
今夜だけは、何も起こらなければいい。
そう願うこと自体が甘いとわかっていても、そう思わずにいられなかった。
◆
社の石段の下で、綾人はすでに待っていた。
濃紺の外套の裾を雪に揺らし、灯りも持たずに立っている。背後の杉林は黒く沈み、その奥にある社は夜の中へ溶け込んでいた。
見上げるだけで、喉の奥に冷たいものが落ちる。
「遅い」
綾人が言う。
「時間どおりだ」
「君の歩幅なら、もっと早く来られた」
図星だった。
千歳の家の前を遠回りしたぶん、少しだけ遅れたのだ。
綾人はそれ以上追及せず、足元に置かれた木箱を示した。
「札と釘、それから境を縫う糸だ。石段の左右、杉の根元、社の手前。三重に張る」
「足りるのか」
「足りなくても、それでやるしかない」
簡潔な言い方だったが、緊張は伝わる。
綾人ですら余裕がないのだ。今夜の結界は、それだけ切羽詰まった対処なのだろう。
冬真は木箱を受け取った。
中に収められた札はどれも新しいのに、触れた指先へ重たく沈む。血を通す前から、何かを吸う前提の紙だ。
「一つ聞く」
石段へ向かいながら、冬真が言う。
「結界を張れば、千歳への呼び声はどうなる」
「弱まるとは限らない」
「……」
「社から直接届かなくなる代わりに、近場のものが媒介になる」
冬真の眉が寄る。
「近場?」
「家、井戸、道具、鏡。人が普段使うものほど、境は曖昧になる」
思い出す。
井戸の底。
奥座敷。
昼間の雪道。
どれも、千歳の日常の中にあるものだった。
「今夜、彼女をひとりにするな」
綾人が低く言った。
「本当はそう言いたいところだが、君は近づけば近づくほど反動を受ける」
「知ってる」
「だから矛盾する。守るために離れなければならず、離れるほど守れない」
「……わざわざ言葉にしなくていい」
吐き捨てると、綾人は軽く肩を竦めた。
「自覚があるならまだいい」
石段の一段目に札を打ちつける。
釘を打ち込む音が、夜の山へ鈍く響いた。
からん。
どこかで鈴が鳴る。
冬真と綾人は同時に顔を上げた。
音は社の上からではない。もっと近い。石段の左右、見えない杉の枝のどこかから、わざと耳元で揺らされたみたいに響いてくる。
「……歓迎されてるな」
冬真が低く言う。
「試されている」
綾人は淡々と返した。
「どこまで本気で塞ぐつもりか、向こうも見ている」
なら見せてやるまでだ。
冬真は二枚目の札へ血を落とし、杉の根元へ打ち込んだ。札は赤く脈打ち、細い光の糸となって隣の木へ伸びる。
一本、二本、三本。
境が縫われていく。
だが張るたび、左腕の痣が熱を増した。
まるで社の奥にいるものが、こちらの行為を正確に感知しているみたいに。
「顔色が悪い」
綾人の声が飛んでくる。
「平気だ」
「その台詞は禁止にしたい」
「勝手にしろ」
最後の札を打ち終えたとき、冬真の呼吸は少し乱れていた。
だが石段の前には、確かに薄い膜のような結界が立ち上がっている。風もないのに、空気だけが微かに震え、境目がぼやけて見えた。
「一応は形になった」
綾人が言う。
「朝まで持てばいい方だ」
「持たせる」
「だからその自信は何なんだ」
返しかけたそのときだった。
冬真の懐で、何かが震えた。
反射的に手を入れる。
昼間、千歳の家から戻る途中で拾った古い守り紐だ。幼い頃、千歳が転んだときにちぎれて、なぜか冬真がそのまま持ち続けていたもの。
普段は何の力もないただの古い紐のはずなのに、今は熱を持っていた。
嫌な予感が、背筋を一気に駆け抜ける。
「綾人」
「わかっている」
綾人の顔つきも変わっていた。
社ではない。結界でもない。もっと下――村の方から、冷たい気配が逆流するように昇ってきている。
「千歳か」
「たぶん」
答えを聞く前に、冬真は駆け出していた。
◆
石段を飛ぶように下りる。
夜の山道は危険だ。普通なら足元を確かめる場所を、冬真はほとんど見ないまま駆けた。
杉の枝が肩を掠める。
息が白く千切れる。
左腕の痛みはもう、熱なのか冷えなのかも曖昧だった。
千歳の家に近づくにつれ、空気が濁る。
村の灯りはまだ消えていない。家々の中では人が起きている時間のはずだ。なのに、通りには誰もいない。犬の鳴き声も、戸の開く音もない。
まるでその一帯だけ、夜が一段深く沈んでいるみたいだった。
門の前に着いた瞬間、冬真は足を止める。
地面一面に、霜のような黒い模様が広がっていた。
千歳の家を中心に、放射状に伸びる細い筋。
井戸からか、奥座敷からか、それとももっと深いところから滲み出たものか。雪の白を侵食するように、黒が静かに脈打っている。
「遅い」
背後から綾人が追いつく。
「うるさい」
「言い返す余裕があるならまだ動けるな」
綾人は地面の模様を見下ろし、短く息を吐いた。
「家そのものを媒介にされた」
「中にいる」
「おそらく」
「なら入る」
門に手をかけた冬真の腕を、綾人が掴んだ。
「待て。真正面から踏み込めば、千歳ごと巻き込まれる」
「だから待てって言うのか」
「違う。順番を考えろ」
綾人は懐から細い銀針を三本取り出し、門柱と石畳の隙間へ素早く打ち込んだ。針は小さな音を立てて沈み、黒い模様の流れをわずかに逸らす。
「道を切る。君は入ったら彼女だけを見ろ。家の中の気配に引っ張られるな」
「命令するな」
「忠告だ。さっきの結界で君はすでに削れている」
「黙れ」
言いながらも、綾人のやり方が正しいことはわかっていた。
黒い筋は門から直接家へは続かなくなり、代わりに庭の端へ逃げるように流れる。ほんの僅かな隙だが、踏み込むなら今しかない。
冬真は頷きもせずに門を押し開けた。
◆
家の中は、静かすぎた。
「千歳!」
呼んでも返事はない。
居間には灯りが残っているが、人の気配は薄い。志乃も、家族も眠っているのか、それとも何かに意識を沈められているのか。
畳の上に転がった急須から、冷えた茶が少し零れていた。ついさっきまで誰かが起きていた痕跡なのに、今はひどく遠い。
廊下の先。
またあの奥座敷だ。
冬真は土足のまま上がり、一直線に進む。
途中、障子の桟に細い札が何枚も貼られているのが見えた。新しいものだ。綾人か、社の誰かが昼のうちに増やしたのだろう。
だが全部、端が黒く焦げていた。
襖の前に立つ。
隙間の向こうから、青白い光が漏れている。
「千歳」
今度は、返事があった。
「……冬真?」
掠れた、小さな声。
生きている。その事実だけで、胸の奥に一瞬だけ息が通う。
「そこ動くな」
「わたし、」
続く言葉は、途中で途切れた。
襖の向こうで何かが擦れる音がする。
冬真は札を抜いた。
だが開けた瞬間に飛び込めば、また同じだ。中のものごと引き受けるしかなくなる。昨夜より深いものが出てきたら、今度は耐えきれない可能性が高い。
そう考えた瞬間、左腕が鈍く疼いた。
耐えきれなくても、関係ない。
千歳を置く理由にはならない。
冬真は襖へ手をかけた。
「開けるぞ」
「だめ」
意外なほど強い声だった。
冬真の動きが止まる。
「千歳?」
「来ちゃ、だめ」
その声は震えている。泣きそうで、でも必死に堪えている響きだった。
「どうして」
「わたし、変なの。頭が……ちゃんと考えられなくて」
「いいから開ける」
「だめ!」
襖一枚隔てた向こうで、千歳が息を乱すのがわかる。
「来たら、冬真がまた……」
言葉が途切れる。
その続きは聞こえなかったが、十分だった。
また。
傷つく。
そう言いかけたのだろう。
胸の奥で何かがきしむ。
「お前は」
喉の奥から声を押し出す。
「今、そんなこと気にしてる場合か」
「だって」
千歳の声が、ひどく近くなった気がした。
「昨日も今日も、わたしのせいで苦しそうだった」
違う。
お前のせいじゃない。
そう言いたいのに、そこから先を説明できない。
「開ける」
短く言い切り、冬真は襖を引いた。
冷たい風が、部屋の中から吹きつける。
奥座敷の中央に、千歳が座り込んでいた。
白い寝間着の上に外套を引っ掛けただけの格好で、両手は胸元で強く握られている。顔色は悪く、唇も少し紫がかっていた。
その周囲を、黒い糸のようなものが幾重にも取り巻いている。
糸は畳の目から、壁の隙間から、天井の暗がりから伸びていた。まるで部屋そのものが千歳を囲い込んでいるみたいに、細い黒が彼女の足元へ集まっている。
そしてその背後、床の間の掛け軸があるはずの場所には、青白い“穴”が開いていた。
闇ではない。
夜より淡く、雪より冷たい色をした空洞。
その向こうで、誰かが息をしている。
「千歳」
冬真が一歩踏み込むと、黒い糸がざわりと逆立った。
綾人が背後から低く声を飛ばす。
「境を越えるな!」
「うるさい」
千歳だけを見ろ。
さっきの言葉を思い出す。
冬真は視線を床の間から剥がし、千歳へ手を伸ばした。
「こっち来い」
「足、動かない……」
「なら引っ張る」
「だめ」
またその言葉だ。
千歳は今にも泣きそうな顔で首を振った。
「冬真が触ったら、また、痛そうになる」
「関係ない」
「関係あるよ!」
その叫びに、冬真は目を見開く。
千歳の頬を、一筋だけ涙が伝った。
「わたし、昨日は怖かった。でもそれより、冬真が苦しそうなの見てる方が、もっと怖かった」
胸の奥に、ずしりと重いものが落ちる。
守るために黙ってきたはずなのに、その沈黙のせいで別の苦しみを背負わせている。
「だから来ないで」
千歳は震える声で続ける。
「今のわたし、たぶん変だから……きっと、よくないのに引っ張っちゃう」
なんてことを言うのだろう。
自分が危ない状況なのに、まだこっちの心配をしている。
やはり知られてはいけない。
こんな場面でさえ、千歳は自分より他人を先にする。
「知るか」
気づけば、声が荒くなっていた。
「そんなの、お前が決めるな」
千歳が息を呑む。
「俺が行くって言ってるんだ」
「でも」
「でもじゃない」
一歩、さらに踏み出す。
黒い糸が足首へ絡む。冷たさが這い上がる。痛みはある。だが無視できる範囲だ。
冬真は手を伸ばしたまま、千歳を見据えた。
「お前が勝手に諦めるな」
その一言に、千歳の瞳が揺れた。
次の瞬間、床の間の“穴”の奥から、低い笑い声が漏れる。
「やさしいねえ」
湿った女の声だった。
「どちらも、自分より相手が大事」
青白い穴の縁から、白い指が覗く。
細く長く、骨ばっていて、人のものより節が多い。その指先が空中をなぞるたび、千歳を縛る黒い糸がきしりと締まった。
千歳が苦しそうに息を吸う。
「やめろ」
冬真が低く言う。
「なら、置いていけばいい」
声が笑う。
「この子はそれを望める。自分が行けば、誰も傷つかないと思っている」
千歳の顔が強張る。
図星を突かれたのだろう。
冬真の中で、何かが切れた。
「黙れ」
懐から札を五枚、一気に抜く。
本来なら温存すべき数だ。けれど、もう躊躇っている余裕はなかった。
「冬真!」
綾人の制止が飛ぶ。
無視した。
札へ血を走らせ、冬真は床へ叩きつける。
「断て!」
赤い光が扇状に走る。
畳に這う黒い糸が一斉に跳ね、いくつかはその場で弾けた。だが同時に、反動が冬真の腕へ返ってくる。
包帯の下の痣が灼け、裂けるような痛みが走った。
膝が折れそうになる。
それでも前へ出る。
千歳まで、あと二歩。
そのとき、千歳が顔を上げた。
涙で濡れた目が、まっすぐ冬真を見る。
「どうして」
震える声だった。
「どうして、そこまでするの」
言えない。
ここで言ってはいけない。
けれど沈黙したその一瞬が、千歳には答えより残酷だったのかもしれない。
彼女は唇を噛み、泣きそうに笑う。
「やっぱり、何も言ってくれないんだね」
その言葉に心臓を掴まれたみたいになりながら、冬真は最後の二歩を踏み込んだ。
黒い糸が一斉に腕へ、足へ、肩へ絡みつく。
冷たい。重い。だが振りほどく。
千歳の手首を掴む。
触れた瞬間、彼女の体が小さく震えた。
熱はないのに、ひどく冷えている。
「立て」
「……むり」
「できる」
ほとんど言い聞かせるみたいに言って、冬真は彼女を引き寄せた。
その背後で、床の間の“穴”が大きく脈打つ。
女の声が、今度ははっきり笑った。
「なら連れていけばいい。お前ごと」
次の瞬間、穴の奥から黒い腕が突き出した。
太い。
これまでの影とは比べものにならない。人の腕の形をしているのに、表面は濡れた紙みたいにざらつき、肘から先が異様に長い。
その腕が、冬真と千歳をまとめて掴みにくる。
避けきれない。
冬真は反射で千歳を抱き込み、背中を向けた。
腕に、背に、黒が食い込む。
「――っ、ぁ!」
声にならない痛みが、脊髄を焼いた。
だが次の瞬間、横から鋭い光が走る。
「退け!」
綾人の声。
白い札が刃のように飛び、黒い腕の手首を断ち切った。
濁った悲鳴が部屋を揺らす。
腕は床へ落ちる前に煙になり、青白い穴も大きく揺らいだ。
「今だ、出ろ!」
綾人が怒鳴る。
冬真は千歳を抱えたまま踵を返した。
黒い糸がまだ足に絡む。けれどさっきの一撃で緩んでいる。
襖を越え、廊下へ飛び出す。
直後、奥座敷の中で何かが崩れるような音がした。札が連鎖して燃える匂い。綾人が何枚も重ねて封じたのだろう。
千歳の体重が腕にかかる。
軽い。軽すぎて、余計に怖い。
「千歳」
呼ぶと、彼女は胸元で小さく息をした。
「……冬真」
「喋るな」
「でも」
「喋るなって言ってる」
抱えたまま庭へ出る。
冷たい夜気が顔を打った瞬間、千歳の意識が少しだけはっきりしたのか、彼女は弱々しく冬真の服を掴んだ。
「また……痛そう」
「平気だ」
「うそ」
小さな声だったのに、その一言だけで足が鈍る。
嘘。
そうだ。今夜もまた嘘しか返せない。
門を抜けたところで、綾人が追いついた。
襖を封じたらしい札の焦げ跡が袖に残っている。
「家の中は一時的に閉じた。だが長くは持たない」
「わかってる」
「彼女を一度、境の外へ」
言いかけた綾人が、そこで口を閉じた。
冬真の肩口から伝う赤を見たのだろう。
「……おい」
「平気だ」
「もう聞き飽きたと言っている」
冬真は答えず、千歳を抱えたまま家の塀にもたれた。
立っていられる。まだ、と思った瞬間、視界が大きく揺れる。
まずい。
千歳が腕の中で身じろぎした。
「下ろして」
「無理だ」
「冬真」
その呼び方が、昔みたいに近くて苦しい。
「お願いだから、自分のこともちゃんとして」
言葉が出ない。
胸の奥に沈むのは痛みか、別の何かか、自分でももう判別がつかなかった。
結局、冬真は何も返せないまま、夜の冷たさの中で荒い息を繰り返した。
守れた。
今はまだ。
けれど同時に、千歳の中にまた一つ、消せない疑問と傷を増やしたのだと、痛いほどわかっていた。




