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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第1章 第4話:踏み込めない手、離せない背中


 翌朝、冬真はほとんど眠れないまま家を出た。


 空は薄く白み始めていたが、陽が昇るにはまだ早い。山の端は群青のまま沈み、村全体が夜と朝の境目で息を潜めている。

 肺に入る空気は鋭く、昨夜の冷気をそのまま閉じ込めていた。


 袖の下の包帯が擦れるたび、左腕の奥で鈍い痛みが脈打つ。

 綾人に巻かれた薬草の匂いが、まだ微かに残っていた。


 だが、身体の痛みより厄介なのは、千歳の言葉だった。


『冬真が嘘をつくときの顔、昔からわかるよ』


 あの一言だけが、夜明けを越えても胸の底に刺さったまま抜けない。


 冬真は足を止め、村の中央を見下ろした。

 屋根の上には薄く雪が積もり、煙突から細い煙が立ちのぼっている。その一角――千歳の家の方角だけが、妙に遠く見えた。


 昨夜のあと、あいつは眠れただろうか。

 また呼び声を聞かなかっただろうか。

 そう思うたびに、今すぐ確かめに行きたくなる。


 けれど近づきすぎれば、今度は自分の方が綻ぶ。


 冬真は息を吐き、踵を返した。

 先にやるべきことがある。


     ◆


 社へ続く山道は、人の気配がなかった。


 昨夜降った雪の上に、細い獣の足跡がいくつも刻まれている。だがその足跡は途中でふっと消え、代わりに枝の先から鈴が吊られていた。


 風もないのに、からん、と揺れる。


「……趣味が悪い」


 吐き捨てて、冬真は枝を払い落とした。

 鈴は雪の上に転がり、甲高い音をひとつ立てて止まる。赤い糸が巻きついていた。村で使う祈祷具とは違う。もっと古い。もっと、供物を縛るためのものに近い。


 しゃがみ込み、指先で触れる。

 冷たい金属の奥から、ぬめったような気配が滲んでいた。


 これが道の途中に現れる時点で、社の結界はもう相当薄い。

 綾人の言うとおり、待っているだけでは遅いのだろう。


 冬真は鈴を握り潰すように掌へ押し込み、懐から札を出した。

 血を一滴、紙へ落とす。札の文字が赤く灯り、そのまま鈴を包んで焼いた。


 じゅ、と嫌な音がする。

 鈴の表面に浮かんだ黒い染みが煙になって消えた。


「朝から働き者だな」


 背後から綾人の声がした。

 振り向かなくてもわかる。


「お前もな」

「私は見回りだ。君は独断だろう」


 雪を踏みながら、綾人が隣に並ぶ。相変わらず整った身なりで、こんな山道にいても少しも乱れない男だった。

 その視線が、冬真の左腕に落ちる。


「顔色が悪い」

「放っとけ」

「放っておいた結果が昨夜だ」


 返す言葉がなく、冬真は黙って立ち上がった。

 綾人は焼けた鈴の残骸を見下ろし、小さく眉を寄せる。


「下まで来ているな」

「見ればわかる」

「千歳だけでなく、村全体が境を踏み越え始めている」


 その言い方が妙に引っかかった。


「どういう意味だ」

「昨夜、他の家でも眠りの浅い者が何人かいた。夢の中で山へ向かおうとした子どももいる」

「……なに」


 千歳だけではない。


 その事実に、背中が冷たくなる。

 呼び声は供物だけを狙っているわけではないのか。それとも、供物へ届くために周囲から侵しているのか。


 綾人は杉の奥、社の方を見たまま言う。


「千歳を中心に波紋が広がっている。呼び声は彼女へ届くためなら、周囲の眠りも、意識も、道具も使う」

「なら、なおさら近づけさせない」

「君一人でか」

「一人で十分だ」


 即答すると、綾人はわずかに目を細めた。

「そうやって自分を削ることを、まだ“十分”と言うのか」


 冬真は答えない。

 答えたところで意味はない。


 腕の痛みは消えないし、昨夜のことを思い出せば胸の奥まで重くなる。けれど、それでも止まれないのは事実だった。


「今夜までに、社の下の石段に結界を張る」

 冬真は言った。

「家の周りだけ守っても足りない」

「許可は取ったのか」

「取る必要があるのか」

「本来はある」


 綾人は淡々と答えたが、止めはしなかった。

 それが事実上の黙認だと、冬真にもわかる。


「ただし」

 綾人は続ける。

「結界を張れば、向こうも反応する。呼び声はさらに強くなるだろう」

「上等だ」

「千歳にも届く」

「……それでも、やるしかない」


 言い切ると、綾人はしばらく黙った。

 やがて小さく息を吐く。


「君は本当に、不器用だな」

「今さらだ」

「そこまで守りたいなら、少しは優しくしろ」

「できるならやってる」


 思ったより低い声が出た。

 その中に、自分でも隠しきれない苛立ちが混じっている。


 優しくしたいに決まっている。

 昔みたいに隣にいて、木桶を持ってやって、転びそうになれば笑って手を貸して、怖い夢を見たなら朝までついていてやりたい。

 そんなこと、できるならとっくにしている。


 できないから、こんな形になっているのだ。


 綾人はそれ以上何も言わなかった。


     ◆


 昼過ぎ、冬真は村へ戻った。


 山から下りるころには空が少し晴れ、雪に反射した光が目に痛い。だが村の空気は明るくなかった。

 井戸端でも市場でも、人々の声はいつもより低く、誰もがどこか落ち着かない顔をしている。


「昨夜、変な夢を見てねえ」

「うちの子も、寝言で山がどうとか……」

「やめておくれよ、縁起でもない」


 耳を塞ぎたくなるような会話が、あちこちから漏れてくる。


 冬真はその中を足早に抜けた。

 向かう先は決まっている。千歳の家だ。


 様子を見るだけ。

 話すつもりはない。

 そう自分に言い聞かせながら門先まで来たとき、不意に戸が開いた。


 千歳だった。


 雪色の羽織を肩に掛け、手には小さな竹籠を抱えている。戸口から出てきたところで冬真に気づき、目を見開いた。


「あ……」


 一瞬、二人とも言葉を失う。

 昨夜のことが間にあるせいで、ただ顔を合わせただけなのに妙な緊張が走った。


「……どこ行くんだ」

 先に声を出したのは冬真だった。


 千歳は少しだけ躊躇ってから、籠を持ち直す。

「お使い。おばあさんのところに薬草届けてくるの」

「一人で?」

「うん」


 よく見ると、目の下に薄い影がある。

 やはり眠れていないのだろう。


「誰かに頼め」

「そんな大した距離じゃないし」


 千歳の答えは穏やかだったが、どこか硬い。

 昨夜のあとだから無理もない。冬真の方がまともに向き合えていないのだから。


「……送る」

 口をついて出た言葉に、自分で一瞬遅れて驚く。


 千歳も同じだったらしい。

「え?」


「途中まで」

 慌てて言い足すと、彼女は困ったように瞬きをした。


「でも、冬真、忙しいんじゃ」

「そうでもない」

「……」


 千歳は少し黙った。

 断るでもなく、喜ぶでもなく、ただ探るようにこちらを見る。

 その目が痛い。自分が昨夜何を言い、何を隠したかを思えば当然だった。


「どうして」

 小さく、千歳が言う。

「昨日は、あんなだったのに」


 真っ直ぐな問いだった。

 冬真は視線を逸らしたくなる衝動を堪える。


「危ないからだ」

「何が?」

「……最近、村の空気がおかしい」

「それは、みんな言ってる」

「なら一人で歩くな」


 結局また、肝心なところを伏せた言い方になる。

 千歳はそれを飲み込みきれないまま、少しだけ眉を寄せた。


「それって、昨日のことと関係あるの?」

「ない」

「嘘」


 即答だった。


 冬真が顔を上げると、千歳は少しだけ唇を噛んでいた。

 泣いてはいない。怒ってもいない。けれど我慢しているのがわかる。


「……昨日、冬真、すごく苦しそうだった」

「気のせいだ」

「またそれ」


 言いながら、千歳は目を伏せた。

「わたし、そんなに何もわからない人じゃないよ」


 その一言に、胸の奥が強く締めつけられる。


 わかっている。

 千歳は鈍くない。むしろ昔から、人の感情に気づくのは自分よりずっと早かった。

 だからこそ隠すのが難しい。だからこそ、最後まで知られたくない。


 冬真は短く息を吐いた。


「……送る。嫌なら断れ」


 半ば強引に言うと、千歳は一拍置いてから、小さく首を横に振った。


「嫌じゃない」

「なら行くぞ」

「……うん」


 それだけで、一緒に歩き出す。


 たったそれだけのことが、ひどく久しぶりだった。


     ◆


 村外れの細道は、人通りが少ない。


 雪を踏む音だけが二人分、一定の間隔で並んでいた。千歳は竹籠を抱えたまま、冬真の半歩後ろを歩いている。昔なら並んでいたはずの距離だ。

 それが今は、妙に遠い。


「薬草って、どこの家だ」

「川の向こうのおばあさんのところ。足が悪いから、母さんが届けてって」

「そうか」

「うん」


 会話が続かない。

 昔は沈黙が気まずいことなんてなかったのに、今は何を言っても失敗しそうで口が重い。


 千歳の方も同じなのだろう。

 雪道の先を見たまま、しばらく黙っていたが、やがて不意に口を開いた。


「昔、こういう道、よく一緒に歩いたよね」

「……ああ」

「冬真、いつも先に行っちゃうのに、危ないところだけちゃんと待っててくれた」


 思い出す。

 凍った橋板。ぬかるむ山道。雪の残る石段。

 千歳は昔から転びやすくて、そのたびに冬真が呆れながら手を貸した。


「今は、待ってくれないけど」

 ぽつりと落ちたその言葉に、足が止まりそうになる。


 責めているわけではない。

 だから余計につらい。


「……待ってる」

「え?」

「見えないとこで、だ」


 しまった、と思ったときには遅かった。

 千歳が目を見開く。


「それ、どういう意味?」

「いや」

「今の、聞き流せる言い方じゃないよ」


 冬真は黙った。

 言いすぎた。ほんの少しだけ本音に触れたせいで、すぐに綻びかける。


 千歳は立ち止まり、こちらを見上げる。


「冬真」

「歩け」

「ちゃんと話して」


 声は強くない。けれど退かない意思があった。

 昔はこういう強さを表に出すことは少なかった。優しいだけじゃない。芯のところはずっと頑固だ。


「昨日からずっと変だよ」

 千歳は続ける。

「村も、夜も、わたしも……たぶん、冬真も」

「……」

「何かあるなら、ひとりで決めないで」


 その言葉は、思っていた以上に深く刺さった。


 ひとりで決めないで。

 まさに、自分がずっとしてきたことだった。


 けれど、それができないから今こうなっている。

 千歳を巻き込まずに済ませるために、何度もそうしてきた。


「無理だ」

 喉の奥から絞り出すように言うと、千歳の顔が曇った。


「どうして」

「……お前には関係ない」

「そんな言い方、ひどい」


 はっとする。

 まただ。守るために突き放したつもりが、ただ傷つけている。


 冬真が言い直そうとした、その瞬間だった。


 風もないのに、道脇の木立がざわりと揺れた。


 冬真の全身が強張る。

 遅い。


「千歳、下がれ」

「え?」


 答える間もなかった。

 雪の下から、黒い手が突き出した。


 一本ではない。何本も。

 細く長い指が地面を破って現れ、千歳の足首へ向かって一斉に伸びる。


 冬真は反射で彼女の腕を掴み、抱き寄せるように引いた。

 同時に空いた右手で札を切る。だが昼間の道だ。人目があるかもしれない。派手に光らせるわけにはいかない。


 なら、また引き受けるしかない。


「っ……!」


 黒い指先の一本が、冬真の足首に絡みついた。

 氷水より冷たい感触が一気に膝まで駆け上がる。


 千歳が息を呑むのがわかった。


「冬真!」

「目、逸らすな!」


 咄嗟にそう言って、冬真は逆に踏み込む。

 足元の黒へ掌を押しつけ、低く命じた。


「返せ」


 痣が熱を持つ。

 包帯の下で、昨夜の痛みが一気に焼けた。


 黒い手がびくりと跳ね、雪の上でのたうつ。だが完全には消えない。昼間のせいか、形を保つ力が強い。


 舌打ちし、冬真は懐の札に指をかけた。

 そのとき、隣で千歳が震える声を上げる。


「やめて!」


 冬真が目を向ける。

 千歳は青ざめた顔で、冬真の腕を掴んでいた。


「また、無理してる」

「離せ」

「やだ」

「千歳!」


 強く名を呼ぶと、彼女はびくっと肩を震わせた。

 だが手は離れない。


 その一瞬の躊躇が、命取りになるところだった。


 残っていた黒い手が、今度は真っ直ぐ千歳へ伸びる。

 冬真は彼女を突き飛ばすように後ろへ庇い、腕で受けた。


 ぞろり、と何かが袖の中へ潜り込む。


「――っ!」


 視界が白く弾ける。

 あまりの痛みに膝が折れかけた。


 その隙に、札を叩きつける。

 赤い光が一閃し、黒い手の群れを雪ごと裂いた。濁った悲鳴のような音を立てて、影はようやく消える。


 静寂。


 残ったのは荒い呼吸と、雪に残る深い靴跡だけだった。


 冬真は一歩よろめき、どうにか踏みとどまる。

 まずい。昼間からここまで食い込まれるのは想定外だ。


「冬真……」


 千歳の声が、今度は明らかに怯えていた。

 それだけでなく、何かを悟り始めたような震えが混じっている。


 冬真は袖口を押さえた。

 血が滲んでいる。包帯の下で痣が熱を持ちすぎて、皮膚が裂けたのだろう。


「今の、何」

 千歳が問う。


 答えられない。

 答えたくない。


「……見間違いだ」

「そんなわけない!」


 初めて、千歳がはっきり声を荒げた。


 冬真は思わず顔を上げる。

 彼女の瞳には涙が滲んでいた。恐怖だけではない。怒りとも違う、どうしようもない不安が溢れている。


「昨日も今日も、わたしの前で傷ついてるのに」

「平気だ」

「平気じゃないよ!」


 その言葉が、静かな雪道に鋭く響いた。


「どうしてそんな顔で、平気って言えるの」

「……」

「どうして、わたしに何も言ってくれないの」


 胸の奥が大きく軋む。

 答えはある。だが言えない。

 言えばきっと、ここまで積み重ねた“隠すこと”が崩れる。


 冬真は目を逸らした。

 それが答えになってしまうと知りながら。


 千歳は唇を噛み、手にしていた竹籠を強く抱きしめた。

「わたし、そんなに信用ない?」

「違う」

「じゃあどうして」


 同じ問いを、彼女は何度目だろう。

 そのたびに何も返せない自分が、ひどく情けない。


 風が吹いた。

 木々の間を抜けていく冷たい気配に、冬真は反射的に周囲を探る。

 まだ完全には去っていない。ここで立ち止まっている時間は危険だ。


「戻るぞ」

 短く言って、千歳の手首を取る。


 彼女は抵抗しなかった。

 けれど歩き出す前に、ぽつりと落とす。


「……昔の冬真なら、ちゃんと理由を言ってくれた」


 その一言に、足が止まりかける。


 違う。

 昔だってうまく言葉にできたわけじゃない。

 ただ、今よりはずっと単純だっただけだ。守りたいものも、方法も、代償も。


「昔とは違う」

 また同じ言葉を使ってしまう。


 千歳はもう何も返さなかった。


     ◆


 薬草を届ける予定は結局取りやめになった。


 村へ戻るあいだ、二人ともほとんど口をきかなかった。

 並んで歩いているのに、距離は朝より遠い。冬真がそれを作っているとわかっていても、どうしようもない。


 千歳の家の前に着く。

 門の手前で、千歳が足を止めた。


「ここでいい」

「中まで送る」

「大丈夫」


 その“大丈夫”が、自分の口癖を真似たみたいで、冬真は言葉に詰まる。


 千歳は視線を合わせないまま続けた。

「ありがとう。送ってくれて」

「……」

「でも、もう、優しいふりしなくていいよ」


 冬真の呼吸が止まる。


 優しいふり。


 そんなつもりじゃない。

 むしろ逆だ。優しくしたいのにできないから、こんな歪なことになっているのに。


 だが、千歳から見ればそう映っても仕方がない。

 突き放して、隠して、危ないときだけ手を伸ばして、また何も言わないのだから。


「千歳」

 名を呼ぶ。

 それ以上の言葉が続かない。


 千歳はようやくこちらを見た。

 泣いてはいない。けれど泣くより苦しそうな顔をしていた。


「わたし、昔みたいに戻りたいって思ってた」

 静かな声だった。

「でも冬真は、そうじゃないんだね」


「違う」

 反射で否定する。


「何が?」

 すぐに返された問いに、喉が詰まる。


 違う。

 戻りたくないわけじゃない。

 戻れるなら、何だってする。


 けれど戻るためには、まず守らなければならない。

 そして守るためには、今は戻れない。


 その矛盾を、どうして言葉にできる。


 冬真が黙っているあいだに、千歳は小さく笑った。

 諦めたような、傷ついたような笑い方だった。


「……やっぱり、そういうとこだよ」


 門を開け、彼女は中へ入っていく。

 最後まで振り返らなかった。


 戸が閉まる音が、やけに大きく響いた。


     ◆


「最悪だな」


 背後から聞こえた綾人の声に、冬真は振り向かなかった。


 いつからいたのか、坂の下の杉の影に寄りかかるように立っている。見ていたのだろう。見られたくない場面ほど、こいつはよく現れる。


「うるさい」

「事実だ」

「わかってる」


 吐き捨てるように返し、冬真は門から目を離せないまま立ち尽くした。

 胸のあたりが重い。怪異を引き受けたときの痛みとは別の、鈍くて深い痛みだった。


「優しいふり、か」

 綾人が淡々と繰り返す。

「よくもそこまで誤解されたものだ」

「……誤解させてるのは俺だ」


 自分で言って、ひどく惨めな気分になる。

 守るためだと言い聞かせても、実際に千歳を傷つけている事実は変わらない。


 綾人は少し黙り、それから珍しく遠回しではない言い方をした。


「そのままでは、いずれ守る前に壊れるぞ。君も、彼女も」

「まだだ」

「まだ、で何度凌ぐつもりだ」

「最後まで」


 冬真はようやく振り向いた。

 綾人の視線を真っ直ぐ受け止める。


「最後の最後まで、知られるわけにはいかない」

「彼女が知れば、自分から差し出すからか」

「そうだ」


 迷いはなかった。

 千歳のあの優しさを、誰より知っているから。


「今みたいに傷つけても?」

「……それでもだ」


 言いながら、胸の奥が軋む。

 本当はそんな未来、選びたくない。

 できるなら傷ひとつ負わせたくないし、不安にもさせたくないし、泣かせたくなんかない。


 それでも二つを両立できないなら、選ぶしかない。

 嫌われても、生きていてくれる方を。


 綾人はしばらく冬真を見ていたが、やがて諦めたように息を吐いた。

「ならせめて、今夜の結界は失敗するな」

「失敗しない」

「君が倒れれば意味がない」

「倒れない」


 綾人は軽く肩を竦める。

「その根拠のない断言だけは、少し羨ましいな」


 冗談めいた口調だったが、冬真は笑えなかった。


 山の方から、微かに鈴の音がする。

 昼間より近い。夕方が近づくほど、呼び声は強くなるのだろう。


 冬真は左腕を押さえた。

 包帯の下で、新しい熱がじわじわと広がっている。


 今夜、石段に結界を張る。

 それで少しでも呼び声を遅らせる。

 そうしなければ、次は千歳の部屋まで踏み込まれる。


 もう時間がない。


「行く」

 冬真が短く言うと、綾人は頷いた。


「私は社で準備をしておく。日が落ちる前に来い」

「わかった」


 そう答えながらも、冬真の視線は一度だけ千歳の家の窓へ向かった。

 障子の向こうに、人影は見えない。


 さっきの顔が脳裏に焼きついて離れない。

 泣かずに、でも確かに傷ついた目。

 優しいふりしなくていい、と言った声。

 そして、それでもなおどこかでこちらを信じようとしていた気配。


 守ることはできても、寄り添えない。

 知られないまま守ると決めた時点で、こうなることはわかっていたはずなのに。


 冬真は目を伏せ、雪の上に深く息を落とした。


 今さら戻れない。

 戻るには、もう踏み込みすぎた。


 それでも。


「……待ってろ」


 誰にも届かない声で、そう呟く。


 千歳に向けたのか。

 自分自身に向けたのか。

 そのどちらかも、もう曖昧だった。


 ただ確かなのは、今夜を越えなければ次はないということだけだった。


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