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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第1章 第3話:眠りのまま呼ばれる夜


 戸を開けた瞬間、冷えた空気と一緒に、甘い香の匂いが流れ出してきた。


 香木だ。

 昼に家の中で感じたものより、ずっと濃い。祓いのために焚いているはずなのに、その奥に別の匂いが混じっている。古い井戸水と湿った土、それから、血が乾く直前みたいな鉄の匂い。


 冬真は戸口に立ったまま、息を殺した。


 家の中は暗い。

 居間の方はもう明かりが落ちていて、廊下の奥からだけ、行灯の弱い灯が滲んでいる。その仄かな光の中を、千歳が裸足で歩いていた。


 白い寝間着の裾が床を擦る。

 黒髪が背中に落ち、足取りはふらつきもなく、まるで起きているみたいに滑らかだった。


 けれどおかしい。


 呼びかけにも振り向かない。

 足音もほとんど立たない。

 何より、その目が開いているのに、何も映していなかった。


「千歳」


 小さく呼ぶ。

 反応はない。


 代わりに、廊下の奥――座敷へ続く角の向こうから、湿った声がまた響いた。


「おいで」

「……千歳」

「こちらへ」


 あの声は、人を誘うときだけやけに優しい。


 冬真は奥歯を噛んだ。

 家の人間は眠っているのか、それとも眠らされているのか。少なくとも今この場で騒げば、千歳ごと巻き込まれる。なら、動くしかない。


 戸を静かに閉める。

 音を立てず土間を上がり、一歩ずつ距離を詰める。


 千歳はそのあいだも止まらない。

 廊下の突き当たり、普段は閉ざされているはずの奥座敷の襖が、細く開いていた。その隙間から、妙に青白い光が漏れている。


 家の中にあるはずのない色だ。


 嫌な汗が背中を伝う。

 あそこへ入らせてはいけない。


 冬真は歩幅を広げた。

 千歳が敷居をまたぐ寸前、背中越しにその腕を掴む。


「行くな」


 びく、と彼女の肩が揺れた。

 だがそれだけだった。振り向かない。細い腕は驚くほど冷え切っていて、まるで雪の中に置かれた陶器に触れたみたいだった。


「千歳、起きろ」


 耳元で強く言う。

 返事はない。


 代わりに襖の隙間から、するり、と黒いものが這い出してきた。


 長い髪にも、濡れた蔓にも見えるそれが、床板を舐めるように伸びる。行灯の明かりを吸い込んで、影だけが濃くなっていく。

 その先端が、千歳の裸足へ触れかけた。


 冬真は舌打ちし、彼女を強く引いた。

 同時に懐から札を二枚抜き、片方を床へ、もう片方を襖へ投げつける。


「閉じろ」


 低く命じると、札の文字が赤く走った。

 床に打たれた一枚は細い結界となって黒をせき止め、襖に貼りついた一枚は隙間を縫うように光を広げる。


 ばち、と火花のような音がした。


 襖の向こうで何かが笑った。


「邪魔をするの」

「……出てくるな」


 声の主は見えない。

 だが気配だけは濃い。襖一枚隔てた向こうで、何か巨大なものが身じろぎしている。社の奥にいる“本体”ほどではないにせよ、その欠片にしては近すぎた。


 札が焦げる匂いがする。

 長くは持たない。


 千歳の肩を抱き寄せたまま、冬真は廊下を後退した。

「千歳、聞こえるか。目を覚ませ」


 彼女の唇が微かに動く。

 けれど零れた声は、冬真に向けたものではなかった。


「……呼んでる」

「誰が」

「やさしい声で……ずっと」


 胸の内側が冷える。


 やさしい、だと。

 あれが。


「行かなきゃ」

「行かなくていい」

「でも、わたしが行けば、みんな……」


 そこまで聞いて、冬真は目を見開いた。


 ――やはりそうだ。


 あれは千歳の優しさをなぞって呼ぶ。

 “お前が行けば誰も傷つかない”と囁く。

 彼女が自分を後回しにする性質を、最初から知っているみたいに。


 だから知られたくなかった。

 今まで守ってきたことが露見すれば、きっと千歳は同じ理屈で笑って頷くから。


「違う」


 思わず、声が強くなる。


「お前が行っていい理由なんか、一つもない」


 千歳の睫毛が微かに揺れた。

 ほんの少しだけ、意識がこちらへ戻る気配がある。


 その瞬間だった。


 びし、と鋭い音が響く。

 襖に貼った札が真ん中から裂けた。


 青白い光が一気に広がる。

 廊下の板の隙間からまで黒い染みが滲み、絡まり合って腕の形を作った。指が長い。関節の向きが人と違う。何本もの手が床を掻いて、こちらへ這ってくる。


 冬真は千歳を背に庇い、残りの札を抜いた。

 だが数が足りない。家の中で使うには火も音も抑えねばならず、派手な術は撃てない。下手をすれば家屋ごと呑まれる。


 なら、引き受けるしかない。


 冬真は左腕を前へ出した。

 痣が熱を帯びる。今朝と昼の穢れがまだ残っている。重ねれば危険だ。わかっている。だが他に手はない。


「冬真……?」


 千歳が掠れた声で名前を呼ぶ。

 その響きだけで、胸のどこかがぐらつく。


 振り返らず、冬真は短く言った。


「目、閉じてろ」


 黒い手が一斉に伸びる。

 冬真はそれを避けず、逆に踏み込んだ。


 指先が腕に絡みついた瞬間、全身に悪寒が走る。氷水ではない。泥と血を混ぜたものを血管に流し込まれるような、粘ついた冷たさだ。

 喉の奥から呻きが込み上げるのを、歯を食いしばって堪える。


「返せ」


 声と同時に、痣が赤黒く光った。


 黒い手がぶるりと震える。

 次の瞬間、穢れは冬真の腕から肩、背中へと一気に駆け上がってきた。視界の端が歪む。膝が抜けそうになる。


 けれど、そのぶん影の輪郭は崩れた。

 床を這う無数の指が、砂になってほどけるみたいに溶けていく。


「いや」


 襖の向こうで、女とも子どもともつかない声がした。

「返して」

「黙れ」


 冬真は最後の札を裂き、裂け目に血を押しつけて投げる。

 赤い光が弧を描き、襖を真正面から縫い留めた。


 どん、と内側から何かがぶつかる。

 家が揺れ、行灯の火が激しく震えた。

 それでも札は持ちこたえ、青白い光は少しずつ薄れていく。


 静寂が戻るまで、数秒とかからなかった。

 なのに、その数秒で息をするのも苦しくなるほど消耗していた。


 冬真は壁に手をつき、どうにか立ったまま呼吸を整える。

 左腕から先の感覚が鈍い。肩口まで冷えが食い込んで、骨の髄が軋んでいるみたいだった。


「……冬真」


 今度の呼びかけは、はっきりと千歳の声だった。


 振り向く。

 千歳は廊下に座り込んでいた。長い髪が肩からこぼれ、眠気の残る目でこちらを見上げている。さっきまでの虚ろさは薄れていたが、その代わり強い不安が浮かんでいた。


「今の……何、だったの」

「何でもない」

「何でもなくないよ」


 震えているのに、千歳は目を逸らさない。

 その強さが苦しい。


「わたし、声を聞いた」

「気のせいだ」

「またそれ?」


 千歳の声が少しだけ尖った。

 珍しいことだった。彼女は滅多に感情をぶつけない。だからこそ、その小さな棘が冬真の胸に深く刺さる。


「今朝も、昼も、今も……冬真、ずっと何か隠してる」

「……」

「わたしに言えないこと?」


 言えない。

 言えば、この先を変えてしまう。


 冬真は答えず、視線を逸らした。

 それを肯定と取ったのか、千歳の表情がさらに曇る。


「わたし、そんなに頼りない?」

「違う」

「じゃあどうして」


 どうして。

 その問いに対する本当の答えを、喉のところで何度も呑み込んできた。


 ――お前が優しいからだ。

 ――知れば、自分を差し出すからだ。

 ――だから守っていることすら知られたくないんだ。


 けれど、どれも言えない。

 今ここで零せば、その先はもう誤魔化せない。


「夜更けに出歩くな」


 結局、出たのはそんな言葉だった。

 自分でもひどいと思う。問いへの答えにすらなっていない。


 案の定、千歳は傷ついたように目を伏せた。


「……それだけ?」

「今日はもう寝ろ」

「冬真は、また何も言ってくれないんだね」


 静かな声だった。

 責めているわけではない。ただ、諦めが混じっていた。


 その響きに胸が締めつけられる。

 だが冬真は何も返せず、代わりに千歳の肩へ羽織を掛けた。廊下は冷えている。裸足のまま座らせておくわけにはいかない。


 触れた指先に、千歳がわずかに震える。


「部屋まで送る」

「……自分のこと、ちゃんとしてからにして」


 小さな反発だった。

 だが視線は冬真の袖口へ向いている。血は止まりきっていないらしい。布の端に暗い色が滲んでいた。


「平気だ」

「平気そうに見えない」


 そう言われて、冬真はほんの一瞬だけ笑いそうになった。

 ひどい顔をしている自覚はある。たぶん青ざめているし、呼吸もまだ浅い。それでも平気だと言い張るしかない。


「見たくないなら見なくていい」

 反射的に、そんな言い方になってしまった。


 千歳が息を呑む。

 すぐに後悔したが、もう遅い。


「……見たくないなんて、言ってない」


 俯いたままの声が、少し掠れていた。

「わたしはただ、冬真が痛そうなのが嫌なだけ」


 その一言が、真っ直ぐ胸に落ちる。


 冬真は目を閉じた。

 こういうところだ。こういう優しさを知っているから、なおさら何も言えなくなる。


「悪い」


 また謝ってしまう。

 千歳はもうそれに返事をしなかった。


     ◆


 結局、千歳を部屋まで送ったのは冬真だった。


 部屋の前で立ち止まり、戸を開ける。

 中は静かで、行灯の灯が小さく揺れている。布団は半ばはだけ、窓の桟には薄い霜が降りていた。ついさっきまでここで眠っていたのだろう。


「入らないの?」

 千歳が振り返る。


「いや」

「そう」


 またその顔だ、と冬真は思う。

 期待していなかったふりをして、少しだけ傷つく顔。


「千歳」

 呼び止めると、彼女は戸口で立ち止まった。


「今夜のことは、忘れろ」

「忘れられるわけないでしょ」


 即答だった。

 その強さに、冬真は少し驚く。


 千歳は部屋の明かりを背にして立っているせいで、表情の半分が影になっていた。

 けれど声は思ったよりまっすぐだ。


「わたし、何かに呼ばれてた」

「……」

「夢だったのかもしれない。でも、冬真が来たとき、すごく怖かったのに……少し安心した」


 胸がどくりと鳴る。


「だから余計に、わからない」

 千歳は続ける。

「どうしてそんなに苦しそうなのに、何も言ってくれないの」


 答えられない。

 だが、黙っていることももう残酷だとわかる。


 それでも冬真は、今夜も沈黙を選ぶしかなかった。


「……寝ろ」

「またそれ」


 今度の千歳は、かすかに笑った。

 泣きそうな笑い方だった。


「昔の冬真は、もっと下手でも、ちゃんと気持ちを言ってくれたのに」

「昔と今は違う」

「何が違うの」

「全部だ」


 言い切った瞬間、自分の声の冷たさにぞっとした。

 千歳の目が見開かれる。


 違う。

 そういう意味じゃない。


 だが訂正するより先に、千歳は小さく頷いた。


「……そっか」


 それだけ言って、部屋の中へ入る。

 閉まりかけた戸の向こうで、彼女が最後にひとことだけ落とした。


「でもわたし、冬真が嘘をつくときの顔、昔からわかるよ」


 戸が閉まる。


 冬真はしばらく、その前に立ち尽くしていた。

 返す言葉は何一つ出てこなかった。


     ◆


 家を出ると、夜気が肺を刺した。


 千歳の家の庭先には、もう妙な気配は残っていない。奥座敷の方も静まり返っている。だが、これで終わりではないことだけははっきりしていた。


 鈴が鳴る。

 今度は遠く、山の方から。


 からん、からん、と一定の間隔で。


「……見張っていたのか」

 冬真が低く言うと、塀の影から綾人が姿を現した。


「違う。追ってきただけだ」

「同じだろ」

「君が倒れる前に回収しようと思った」


 冗談とも本気ともつかない口調で言い、綾人は冬真の袖口を見る。

 血の滲みも、震える指先も、隠しきれてはいない。


「随分と深く入ったな」

「大したことない」

「その台詞にも飽きた」


 綾人は近づき、半ば強引に冬真の左腕を取った。

 振り払う前に袖をまくられ、露わになった皮膚に千鳥状の痣が浮かび上がる。赤黒い筋が肘から肩へ這い、今夜引き受けた分だけ色が濃い。


「……これは」

 綾人が眉をひそめた。

「思った以上だ。今夜だけで三度目だろう」

「数えてる余裕があるなら手伝え」

「手伝えば、君はもっと無茶をする」


 苦い顔で包帯と薬を取り出しながら、綾人は続ける。


「彼女は何を覚えていた」

「声と、少しの気配」

「それだけか」

「それで十分すぎる」


 千歳の最後の言葉が頭から離れない。


『冬真が嘘をつくときの顔、昔からわかるよ』


 あれは厄介だった。

 怪異に気づくより、ずっと早く本質に近づいている。


「隠し通せると思うか」

 綾人の問いは、夜より冷たい。


 冬真は答えなかった。

 答えたくなかった、が正しい。


 隠し通せるかではない。

 隠し通すしかないのだ。

 少なくとも、最後の瞬間までは。


「……まだだ」

 ようやく絞り出した声は低かった。

「まだ、知られるわけにはいかない」


 綾人はそれ以上言い返さず、腕に薬を塗り込んだ。

 ひどく沁みる。だが痛みがある方が、かえって意識ははっきりした。


 山の上で、また鈴が鳴る。


 呼び声は強くなっている。

 今夜のように家の中へまで入り込むなら、もう村そのものが安全圏ではない。


「次は社に近い場所から来る」

 綾人が言う。

「彼女を直接呼べる距離に入れば、眠っていても歩く」

「わかってる」

「なら、先に道を塞げ」

「やる」


 短く答えながら、冬真は千歳の部屋の窓を見上げた。

 薄い灯がまだ残っている。おそらく彼女は、まだ眠れていない。


 当然だ。

 あれだけのことがあって、平気でいられるはずがない。


 それでも何も話さない。

 今夜もまた、千歳を不安にさせることしかできなかった。


 守っているはずなのに。

 傷つけているのも自分だ。


 その事実が、怪異の爪痕より深く胸に残る。


「冬真」


 綾人が包帯を結び終え、静かに名を呼ぶ。


「守ることと、遠ざけることは同じではない」

「知ってる」

「本当に?」

「……知ってる」


 知っていて、それでもやめられない。

 やめた先にある未来を、どうしても選べないからだ。


 夜風が吹き、屋根の雪がさらさらと崩れ落ちた。

 その音に混じって、どこか遠くで犬が吠える。村は眠っているようで、何もかもが不穏に耳を澄ませていた。


 冬真は包帯の上から腕を握りしめる。

 痛みは消えない。消えなくていい。


 千歳が無事なら、それでいい。

 そう思い込まなければ、この先に進めない。


 けれど、閉ざされた戸の向こうで向けられたあの眼差しだけは、どうしても振り払えなかった。


 疑いではなく、心配だった。

 怒りではなく、傷つきだった。

 そして何より、まだこちらへ手を伸ばそうとしてくれていた。


 その優しさを知っていて、なお突き放す。


 自分がしていることの残酷さを、冬真は誰よりよく知っている。


「……次は、近づけさせない」


 半ば自分に言い聞かせるように呟く。

 綾人はそれに何も返さなかった。


 ただ山の方を見上げる。

 社のある杉林の先、夜の闇がひどく深く沈んでいる。


 あそこから、また呼ばれる。


 千歳の名を。

 優しい声で。

 逃げ道なんて最初からないみたいに。


 冬真は目を細めた。

 次は待たない。呼ばれる前に断ち切る。家の中にまで踏み込ませる前に、先に潰す。


 そう決めたのに。


 胸の奥では別の痛みが、じわじわと広がっていた。


 ――冬真が嘘をつくときの顔、昔からわかるよ。


 昔の千歳なら、そこで泣いていたかもしれない。

 今の千歳は泣かずに笑う。

 それが、余計に苦しかった。


 夜はまだ長い。

 だが、その長さすら、もう味方ではない気がした。


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