第1章 第2話:名前を呼ぶ声
昼を過ぎても、空は晴れきらなかった。
薄い雲が山の上に居座り、陽の光は雪に反射するだけで熱を持たない。村の道は白く明るいのに、どこか色を失ったように見えた。
冬真は家の裏手で薪を割りながら、何度目かもわからないため息を喉の奥に押し込めた。
斧を振り下ろす。
乾いた音とともに薪が二つに割れ、足元の雪に転がる。
今朝から、どうにも落ち着かない。
千歳の足元に浮かんだ黒い染み。
朝だというのに鳴った社の鈴。
綾人の「始まったな」という声。
何かが近づいている。
その予感だけが、じわじわと皮膚の内側を這い回っていた。
左腕の内側が熱い。
朝、引き受けた穢れはまだ消えていない。袖の下で痣は脈打ち、心臓の拍動と妙なところで重なっていた。
「冬真ー、ちょっとこれ運んでおくれ」
母の声が飛んできて、冬真は斧を止めた。
縁側に味噌樽が二つ並んでいる。片方には布が掛けられ、紐できつく結ばれていた。
「千歳ちゃんのところに届ける分。朝、向こうのお母さんに頼まれてたろ」
「……ああ」
思わず眉が寄る。
行かなくて済むなら、その方がいい。だが断る理由もなかった。
「重いから気をつけなよ」
「わかった」
片方の樽を持ち上げる。想像以上にずっしりしていて、底から冷たさが腕に伝わってきた。
千歳の家までならそう遠くはない。けれど今は、その短い道のりさえ気が重かった。
朝のやり取りが頭に残っている。
『昔の冬真は、怒ったあとちゃんと手、貸してくれたのに』
あの言葉が、何度も胸の奥で繰り返される。
昔みたいにできないのは、自分の都合だ。千歳は何も悪くない。それなのに、傷つくのはいつも彼女の方だった。
冬真は樽を抱え直し、坂道を下る。
雪を踏む音がやけに大きく聞こえた。
◆
千歳の家の戸は、少しだけ開いていた。
「こんにちは」
声をかけると、すぐ奥から足音がする。
現れたのは千歳ではなく、母親の志乃だった。柔らかな顔立ちの人だが、ここ最近はどこか疲れて見える。
「あら、冬真くん。ごめんなさいね、重いもの持たせて」
「頼まれてたやつ、持ってきました」
「助かるわ。上がって、そこに置いてくれる?」
土間に上がる。
家の中は外よりわずかにあたたかく、薪の匂いと味噌の匂いが混じっていた。だがその奥に、鼻の奥を刺すような薄い香がある。
香木だ。祓いに使うものに近い。
冬真は気づかれないように視線を巡らせた。
部屋の隅に積まれた反物。白い箱。神紋の入った紙札。どれも「支度」と呼ばれるものだ。村はもう、千歳の冬を特別なものとして扱い始めている。
「千歳は?」
できるだけ何気なく尋ねる。
「裏で洗い物してるわ。呼んでこようか?」
「いや、別に」
即座に返してしまってから、少し間を置く。
「……用があるわけじゃないし」
志乃は一瞬だけ、何かを言いたそうな顔をした。けれど結局は曖昧に笑って、「そう」とだけ答えた。
樽を置き、背を向けようとしたそのときだった。
からん。
また鈴の音がした。
家の中で鳴る距離ではない。
もっと遠い。なのに、耳元で鳴ったみたいに鮮明だった。
冬真の肩が強張る。
「冬真くん?」
「……何か、聞こえませんでしたか」
「え?」
志乃はきょとんと首を傾げた。
聞こえていない。
嫌な予感が、背筋を一気に駆け上がる。
裏手だ。
「悪い、ちょっと」
言い終わる前に、冬真は土間を蹴っていた。
志乃の驚いた声を背中に聞きながら、家の裏へ回り込む。
積もった雪の上に、細い足跡がある。
千歳のものだ。
その先――井戸の脇、凍りついた石畳のあたりに、彼女は立っていた。
「千歳!」
呼ぶと、千歳がゆっくり振り向く。
だがその目は、冬真を見ていなかった。もっと遠く、彼の後ろにある何かを見つめている。
「……聞こえる」
千歳が呟く。
「ずっと、呼んでる」
ぞっとした。
彼女の足元、白い雪の縁がじわじわと黒ずんでいる。
まるで井戸水に墨を垂らしたみたいに、薄い闇が周囲へ広がっていた。
冬真は駆け寄り、千歳の手首を掴む。
冷たい。氷に触れたみたいに、指先の熱が奪われる。
「行くな」
「え……?」
そこでようやく、千歳の瞳に焦点が戻った。
「冬真?」
「こっち見ろ」
強い口調になった。
千歳が瞬きをする。その隙に、冬真は彼女を自分の方へ引き寄せ、石畳から遠ざける。
足元で、黒ずんだ雪が波打つ。
遅い。
次の瞬間、井戸の底から風が吹き上がった。
冷たい、のではない。
生ぬるい。腐った水と古い土の匂いを混ぜたような風だ。
千歳が息を呑む。
彼女にも見えたのだろう。井戸の縁に、細長い影が這い上がってくるのが。
人の形をしていない。
濡れた髪の束みたいな黒が絡み合い、四つ足の獣のように石を這う。その中心にある“顔”だけが、妙に人間に近かった。
「千歳」
それは確かに、彼女の名前を呼んだ。
千歳の体が震える。
冬真は咄嗟に彼女を背に庇った。
「家に戻れ」
「でも」
「いいから!」
怒鳴るつもりはなかった。
だが一瞬でもためらわせれば、終わる。
千歳は怯えたように肩を竦めた。
その表情に胸が痛んだが、今は振り返っている余裕がない。
影が跳ねる。
井戸の縁から雪面へ、音もなく飛び出してきた。
冬真は右手を差し出し、袖の中の札を引き裂く。血を使う暇はない。歯で指先を噛み、滲んだ赤を紙に擦りつける。
「縛れ」
赤い文字が淡く燃えた。
札は一瞬だけ光の糸となり、飛びかかった影の胴を絡め取る。
黒いものが甲高く軋んだ。
だが止まりきらない。札ごと引き裂き、なおもこちらへ伸びてくる。
まずい。
弱い札では足りない。
冬真は舌打ちし、左腕を押さえた。
熱を持つ痣に意識を向ける。今朝引き受けた穢れを、そのまま使うしかない。
「冬真!」
背後で千歳が呼ぶ。
近い。
戻っていない。
振り返る余裕もなく、冬真は半身で彼女を庇いながら、左腕を前へ突き出した。
影がその腕に食いつく。
「っ……!」
焼ける。
皮膚の上ではない。骨の内側から灼かれているみたいな痛みだった。呼吸が止まる。視界の端が白く飛ぶ。
けれど、それでいい。
黒いものが冬真の腕を這い上がり、袖の下へ潜り込んでいく。代わりに影の輪郭が薄れる。指先から崩れ、煙のように千切れていく。
「返せ」
低く命じると、痣が赤黒く脈打った。
影が最後に一度だけ千歳の名を呼び、そのまま雪に溶けるように消えた。
残ったのは沈黙と、荒い呼吸だけだった。
冬真は膝をつきそうになるのを堪え、井戸の縁に手をついた。
まずい。思った以上に深く入った。喉の奥に鉄の味が広がる。
「冬真、大丈夫……?」
後ろから覗き込む千歳の声が、震えていた。
怖いのだろう。当然だ。見えたはずのないものを見てしまったのだから。
冬真は息を整え、できるだけ平然とした声を作る。
「転ぶなって言っただろ」
「今の、何……?」
「見間違いだ」
「見間違いであんな――」
言いかけて、千歳は唇を噛んだ。
震える指先が、冬真の袖に触れかけて止まる。
「血、出てる」
視線を落とすと、袖口から赤が滲んでいた。
いつの間にか腕を爪で裂かれていたらしい。雪の白さの上で、妙に鮮やかに見える。
「大したことない」
「大したことあるよ!」
珍しく強い声だった。
千歳が一歩近づく。
「見せて」
「いい」
「よくない」
そう言って伸ばされた手を、冬真は反射的に避けた。
それは本能に近かった。
触れられたくない。腕の内側まで見られたくない。痣を知られたら終わる。
けれど避けられた千歳の方は、違う意味に受け取ったらしい。
傷ついたように目を伏せる。
「……あ、ごめん。勝手に」
「そうじゃない」
すぐに否定したのに、言葉が続かない。
違う。
拒絶したいわけじゃない。
お前にだけは触れられたくない場所があるだけで――そんな説明ができるはずもない。
「千歳!」
家の中から志乃の声が飛んできた。
続いて戸が開く音。こちらへ駆けてくる足音。
冬真は咄嗟に袖を引き下ろした。
痣は隠れる。血も、まだ布に滲む程度で済んでいる。
「何かあったの?」
息を切らして現れた志乃が、二人を見比べた。
「……井戸の縁で滑りかけた」
冬真は先に言った。
「千歳が」
「え?」
千歳が目を見開く。
冬真はそれを見ないまま続けた。
「引っ張ったときに、ちょっと擦っただけです」
「まあ……! 大丈夫なの?」
「平気です」
志乃は青ざめた顔で千歳の肩を抱いた。
「だから雪の日は一人で外に出ないでって言ったのに」
千歳はなおも何か言いたげだったが、結局は口を閉ざした。
自分でも、何を見たのかうまく説明できないのだろう。
「冬真くん、本当にごめんなさいね」
「気にしないでください」
その場にこれ以上いるのは危険だった。
穢れが深く入りすぎている。早く処置しなければ、今夜まで持たないかもしれない。
冬真は一歩下がる。
「もう戻ります」
「待って」
千歳が呼び止めた。
振り向く。
彼女は志乃の腕に半ば庇われるようにしながら、それでもこちらを真っ直ぐ見ていた。
「……本当に、見間違いだったの?」
問いは、雪より静かだった。
疑っているというより、確かめたかったのだろう。自分が聞いた声も、見たものも、全部ただの錯覚だったと言ってほしいのだ。
冬真は数秒だけ黙った。
そして、いつもの答えを選ぶ。
「そうだ」
千歳の表情が、少しだけ曇る。
信じていないのではない。
たぶん、信じたいのに信じきれないのだ。
「……そっか」
その返事を最後に、冬真は背を向けた。
◆
家に戻る途中、何度も足元が揺らいだ。
痛みが遅れて本格的に回ってきている。
左腕は重く、熱く、衣服の下で別の生き物みたいに脈打っていた。視界も少し霞む。
村外れの林まで来たところで、冬真はたまらず立ち止まった。
木の幹に手をつき、荒い息を吐く。
「無茶が過ぎる」
予想どおり、綾人の声がした。
枝の影から現れた男は、冬真の顔色を見るなり眉を寄せた。
「朝の忠告を忘れたか」
「忘れてない」
「では、なぜこうなる」
冬真は答えず、木にもたれたまま目を閉じる。
返す言葉はあった。けれど全部、意味がない。
綾人はため息をつき、懐から小さな包みを取り出した。
薬草を練ったものらしい。鼻を刺す苦い匂いがする。
「袖を」
「いらない」
「死にたいのか」
「死なない」
即答すると、綾人は半ば呆れたように目を細めた。
「その根拠のない自信だけは大したものだ」
「根拠ならある。まだ、あいつを置いて死ねない」
口にしてから、自分でも驚くほど率直な言葉だった。
綾人は少し黙り、それから低く問う。
「そこまでして、なぜなお隠す」
「……知れば、千歳は止める」
冬真は薄く目を開けた。
林の向こうには、千歳の家の屋根が少しだけ見える。
「止めるだけじゃない。あいつはたぶん、自分が行くって言う」
「そうかもしれない」
「“かもしれない”じゃ困る」
声が強くなる。
「俺は、あいつに選ばせたくない」
それは独善だとわかっていた。
千歳の意思を無視しているのも、子どもみたいな思い上がりだというのも、全部わかっている。
それでも。
千歳が笑って自分を差し出す未来だけは、どうしても受け入れられなかった。
綾人はしばらく冬真を見つめていたが、やがて諦めたように包みを差し出した。
「せめて塗れ。腕が壊死してからでは遅い」
「……わかった」
受け取ると、綾人はもう一つだけ言葉を落とす。
「彼女は気づき始めている」
「まだだ」
「まだ、だ。だが永遠ではない」
それだけ残して、綾人は杉林の奥へ消えた。
冬真はその場でしばらく動けなかった。
痛みのせいだけではない。綾人の言葉が、妙に耳に残っている。
気づき始めている。
千歳の問いを思い出す。
『本当に、見間違いだったの?』
信じたいのに信じきれない声。
自分の知らないところで何かが起きているのだと、きっと彼女はもう感じている。
その気配を振り払うように、冬真は包みを握りしめた。
まだだ。
まだ隠せる。
隠さなければならない。
◆
夜は、思ったより早く落ちてきた。
雪は止んでいたが、空気は冷えきっている。月は薄い雲の向こうで滲み、村全体が青白く沈んで見えた。
冬真は自室の障子を細く開け、向かいの家を見ていた。
千歳の部屋には、まだ灯りがついている。
昼のことを思い返しているのかもしれない。
あるいは家の手伝いに追われているだけか。
どちらにせよ、あの家の周囲からは、朝より濃い気配が漂っていた。
呼び声が、強くなっている。
障子を閉め、冬真は立ち上がる。
夜はこれからだ。
袖の下の痣は、薬を塗ってもなお熱を持っている。だが動けないほどではない。
外套を羽織り、札を数枚懐へ滑り込ませる。
戸に手をかけた、そのとき。
からん。
また、鈴が鳴った。
今度は遠くではない。
すぐ外だ。
冬真は息を殺し、ゆっくり戸を開ける。
誰もいない庭先に、細い足跡だけが点々と続いていた。新しい雪は積もっていないのに、白い地面にくっきりと残る足跡。
裸足の跡だった。
小さい。
女の足だ。
足跡は家の前を横切り、まっすぐ坂の下――千歳の家の方へ伸びている。
冬真の背筋に、冷たいものが走る。
次はもっと露骨に来る。
綾人の言葉が蘇る。
冬真は迷わず雪を蹴った。
足跡を追う。
夜の村は静まり返っていた。家々の灯りは少なく、音もない。なのに足跡だけが、誰かが今さっき通ったみたいに鮮明だった。
坂を下りきる。
千歳の家の前まで来たところで、冬真は足を止めた。
足跡が、そこで消えていた。
代わりに、閉ざされた戸の向こうから、かすかに誰かの声がする。
千歳の声だった。
何かを言っている。
聞き取れない。けれど穏やかな調子ではない。夢の中で話しているような、曖昧で不安定な響きだった。
冬真は戸に手をかけた。
その瞬間、家の奥から、はっきりと別の声が重なる。
「千歳」
低く、湿った声だった。
昼に井戸の底から聞こえたものと同じ。
冬真の指先に力が入る。
今、この戸を開ければ。
もうただの“偶然”では済まなくなる。
けれど躊躇している時間はない。
冬真は息を呑み、戸を引いた。
冷えた夜気が、暗い屋内から流れ出してくる。
そしてその向こうで、千歳がまるで何かに導かれるように、奥の廊下を裸足で歩いていた。
社のある山の方角へ向かって。




