第1章 第1話:雪解けを待たない距離
朝の冷え込みは、夜の名残をそのまま抱えていた。
軒先に垂れた氷柱はまだ細く尖り、薄曇りの空から落ちる光を鈍く返している。村の坂道は夜のうちに踏み固められた雪で白く曇り、歩くたびに靴の裏でしゃり、と乾いた音が鳴った。
冬真は片手に薪の束を抱え、村外れの納屋から家へ戻る途中だった。
寒さには慣れている。雪の匂いにも、朝の肺を刺すような痛みにも、もうずっと昔から慣れていた。
慣れないものがあるとすれば、村人たちの視線くらいだ。
「今年は、とうとう、だものねえ」
「ええ……気の毒だけど、名誉なことでもあるから」
井戸端で話す女たちの声が、風に乗って届く。
わざと聞こえるようにしているわけではない。ただ、この村では皆がそうなのだ。口をつぐみながら、言葉の端だけを零す。誰かの運命を、天気の話みたいに交わす。
その視線の先にいる名前を、冬真は知っていた。
千歳。
胸の奥でその名を呼ぶだけで、何かが静かに軋む。
坂の下、千歳の家の門先には、見慣れない白木の箱が置かれていた。晴れ着か、儀式の道具か。表面には神紋が薄く刻まれている。
見た瞬間、喉の奥がひどく苦くなった。
やめろ、と言えたらどれほど楽だっただろう。
あれを全部蹴り飛ばして、そんなもの知るかと叫べたら。
けれど叫んだところで、この村は変わらない。
変わらないから、冬真は別のやり方を選んできた。
知られないまま、奪わせない。
そのために、今も生きている。
「冬真?」
不意に呼ばれて、思考が断ち切られた。
顔を上げると、門の内側に千歳が立っていた。灰青の羽織を肩に掛け、手には空の木桶を抱えている。頬は寒さで薄く赤く、それでも笑うと昔の面影がそのまま残る。
「おはよう」
何気ないその一言に、冬真は一拍遅れて息を吐いた。
「……おはよう」
それだけ返す。
本当は、それだけで済ませるつもりだった。
だが千歳はすぐに引かなかった。
「今、納屋の方から? 朝早いね」
「薪を取りに行ってた」
「そっか。今年、冷えるもんね」
会話は続いているのに、どこか噛み合わない。
千歳もそれを感じているのだろう。木桶を抱え直した指先が、ほんの少しだけ強張った。
「……最近、忙しい?」
探るような問いだった。
忙しいわけではない。ただ、夜を潰しているだけだ。眠れないのではなく、眠っていられないだけだ。
「まあ、それなりに」
「そっか」
そこで終わらせればよかったのに、千歳は視線を落としたまま、小さく続けた。
「昔はさ、用事がなくても話してくれたのにね」
積もった雪を踏む音が、遠くでひとつ響いた。
冬真は返す言葉を失う。
昔は昔だ。
そう言って切り捨てるのは簡単だ。実際、その一言で何度も終わらせてきた。けれど今日は、喉のところで言葉が止まった。
千歳の睫毛に、淡い光が引っかかる。
泣いているわけではない。ただ少し、傷ついている。それがわかってしまうのがいちばん苦しい。
「……悪い」
ようやく出たのは、それだけだった。
千歳は一瞬だけ目を丸くしたあと、困ったように笑った。
「謝ってほしいわけじゃないよ」
「……」
「ただ、避けられてるのかなって思っただけ」
避けている。
事実だった。
近づくたび、身の内の痣が熱を持つ。千歳に向かう穢れを引き受ける術は、距離が近いほど反動を強める。長くそばにいれば、それだけ気づかれる危険も増える。
だから離れるしかなかった。
嫌われても、誤解されても。
それでも、千歳の口から直接そう言われると、胸のどこかが鈍く裂ける。
「気のせいだ」
また同じ言葉を使ってしまった。
自分でも最低だと思う。
千歳は少し黙ってから、白い息と一緒に「そっか」とだけ返した。
その言い方は、信じたのではなく、これ以上聞かないと決めた響きだった。
木桶を抱えたまま、彼女が門を出る。
「井戸まで行ってくるね。おばさんに、あとでお味噌届けるって伝えておいて」
「……ああ」
すれ違う瞬間、ひやりとした甘い匂いがした。
白椿に似た、冬の匂い。
昔から千歳のそばにある匂いだった。
呼び止めたい。
せめて木桶くらい持つと言えたらよかった。
だが指先は動かなかった。
千歳が坂を下りていく。
その背中を見送っていた冬真の視界の端で、不意に雪面が微かに揺らいだ。
風ではない。
反射的に視線を落とす。
千歳の足跡のすぐ脇、誰のものでもない黒い染みが、雪の下から滲むみたいに浮かび上がっていた。
「……っ」
手の甲の痣が灼ける。
今朝は早い。昨夜の残滓が、もう追いついてきている。
千歳は気づかないまま歩いていく。次の一歩で、その染みを踏む。
踏めば終わるわけではない。けれど触れれば、呼ばれる。社の方へ、もっと深いところへ。
冬真は薪を放り出した。
「千歳!」
思わず呼んだ声に、彼女が振り向く。
その一瞬の隙に、冬真は雪を蹴って駆けた。
「え?」
驚く千歳の前に滑り込み、彼女の肩を掴んで半歩引かせる。
同時に、爪先で黒い染みを踏み潰すように雪を払った。
ざり、と重たい感触が靴裏に伝わる。
冷たさではない。ぬるい泥に触れたような不快な感覚が、足から脛へ這い上がろうとした。
冬真は息を殺して踏み込みを強める。
袖の内で、指先だけで印を結ぶ。声に出さず、内側へ押し戻す。
熱が走った。
左腕の内側に、針で焼き付けられるみたいな痛みが刻まれる。
「冬真?」
千歳の声が近い。
近すぎる。
顔を上げると、彼女は目を見開いていた。急に肩を引かれたのだから当然だ。黒い瞳に映る自分の顔は、たぶん思ったより険しい。
「どうしたの?」
言えない。
お前の足元に、見えない手が伸びていた、なんて。
冬真はゆっくり手を離した。
「凍ってた」
「え?」
「足、滑るぞ」
咄嗟に出たのは、ひどく雑な嘘だった。
視線を落とした千歳は、何もない雪面を見て少し首を傾げる。
「でも、今……」
「お前、昔からこういうとこ鈍いだろ」
つい語気が強くなる。
本当は責めたいわけじゃない。ただ、心臓がまだ嫌な速さで鳴っていた。
千歳の表情が、わずかに曇る。
「……ごめん」
違う。
謝らせたいわけじゃなかった。
だが訂正する前に、彼女は小さく笑って木桶を抱え直した。
「気をつける。ありがとう」
ありがとう。
その言葉に胸が詰まる。
何に対する礼なのか、彼女自身は知らない。
千歳はそのまま井戸の方へ歩いていった。今度こそ、何も起きない。雪の下に潜んでいた黒は、冬真の足元から消えている。
代わりに、袖の内側で新しい痣が脈を打っていた。
「無様だな」
低い声が、背後から落ちた。
振り向くまでもない。綾人だった。
いつの間に来ていたのか、道の脇の杉の影に寄りかかるように立っている。白い狩衣の襟元だけが雪の景色に浮いて見えた。
「朝から出るとは思わなかった」
冬真は吐き捨てるように言う。
「私もだ。だが、呼び声が強くなっている」
綾人の視線は千歳の背中に向いていた。
冬真はそれを遮るように一歩ずれる。
「見るな」
「今さらだな」
「……用件は」
綾人は肩を竦めた。
「忠告だ。彼女の近くにいる時間が長いほど、反動は強くなる」
「知ってる」
「知っていて、なぜ触れた」
冬真は答えず、黙って左腕を押さえた。外からは見えないが、皮膚の下に黒い熱が広がっているのがわかる。
「離れていれば、それで済むものもある」
「離れて見えなくなる方が困る」
即答すると、綾人は目を細めた。
「君は守っているつもりでも、その守り方はいずれ彼女を傷つける」
「……今は黙ってる方がましだ」
そう言った瞬間、胸のどこかが痛んだ。
正しいと思っている。思わなければやっていられない。
けれど、その“まし”の積み重ねで、千歳の表情が少しずつ曇っていくことも知っていた。
綾人は何も返さず、ただ静かに問う。
「彼女が知ったらどうなる?」
答えは決まっている。
「知れば、あいつは自分から差し出す」
声が低く落ちる。
「村のためだとか、家のためだとか言って、笑うだろうよ。だから知られちゃいけない」
千歳はそういう人間だ。
自分の痛みより、誰かが安心する方を選ぶ。
昔から変わらない。
井戸端で、千歳が誰かに笑いかけているのが見える。年寄りの手から重そうな桶を受け取り、代わりに運んでやっていた。
ああいう顔をするから厄介なのだ。自分を犠牲にすることを、優しさだと本気で思っている。
「なら、なおさら時間はない」
綾人が言った。
「社は、もう彼女を名指しで呼び始めている」
冬真の背中に冷たいものが走る。
「昨夜だけじゃないのか」
「今朝のこれは、その余波だ。次はもっと露骨に来る」
千歳の足元に浮かんだ黒い染みを思い出し、奥歯が軋む。
次は、あれでは済まないかもしれない。
冬真は薪の束を拾い上げた。ひとつひとつについた雪を払いながら、低く言う。
「だったら、俺が先に潰す」
綾人が短く息を吐く。
「その“先に”が、いつまで間に合うかと言っている」
「間に合わせる」
「君が壊れても?」
冬真は答えなかった。
答える必要もない。
壊れることを惜しんでいられる段階は、もうとっくに過ぎている。
千歳が井戸から戻ってくる気配がして、綾人は一歩、杉の影へ下がった。人前に立つことを避けたのではなく、ただ今は出る場面ではないと判断しただけだろう。
すれ違う前に、千歳が足を止めた。
「冬真」
呼ばれて振り向く。
木桶の中で水面が小さく揺れていた。
「さっき、本当にありがとう。……でも、昔みたいに怒るのは反則」
少しだけ唇を尖らせ、千歳は困ったように笑う。
「昔の冬真は、怒ったあとちゃんと手、貸してくれたのに」
その言葉に、冬真の指先が止まった。
幼い記憶が、不意に胸の底を掠める。
雪道で尻もちをついた千歳に、呆れながら手を差し伸べたこと。転ぶたび泣きそうな顔をするくせに、泣く前だけは頑張って笑っていたこと。
今も、同じ顔だ。
「……悪い」
またそれしか言えない。
千歳は首を横に振った。
「だから、謝ってほしいんじゃないってば」
そう言って、今度こそ歩いていく。
冬真はその背中を見送った。握った薪の角が、掌に食い込んで痛い。
昔みたいに手を貸せない。
貸した瞬間に、失うものが増える気がして。
けれど離れるたび、別のものを削っている。
千歳の姿が曲がり角の向こうへ消える。
その直後、山の上――社のある方角から、からん、と鈴の音が鳴った。
朝だというのに。
風もないのに。
冬真と綾人が同時に空を見上げる。
杉林の向こう、見えない石段の先から、冷えきった気配がじわじわと流れ下りてきていた。
「始まったな」
綾人が呟く。
冬真は何も言わず、千歳が消えた道の先を見つめた。
彼女はまだ何も知らない。
知らないまま、今日も笑うのだろう。
その明日を奪わせないためなら、どれだけ傷が増えてもかまわなかった。
袖の下で、新しい痣が脈を打つ。
まるで、残り時間を刻む時計みたいに。
冬真は薪を抱え直し、低く息を吐いた。
「……まだ間に合う」
誰に言うでもなく零したその声は、白い朝の空気に溶けて消えた。




