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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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序章 雪の夜、知られず君を守る

 雪の降る夜は、音が消える。


 村の端を流れる川のせせらぎも、山から吹き下ろす風の唸りも、積もっていく白に呑まれて、遠く、遠くへ沈んでいく。

 そうして静かになりすぎた夜ほど、この村では“人ではないもの”の気配がよく響いた。


 吐いた息が白くほどける。

 足元で雪がきし、と鳴るたびに、冬真は肩越しに暗い山の方を見やった。


 社は、あの先にある。


 杉林の奥、村の誰もが近づきたがらない石段の上。

 昼間でさえ薄暗い場所なのに、夜になれば、そこはまるで別の世界みたいに冷える。風の温度が違う。空気の重さが違う。雪の匂いに混じって、古い井戸の底みたいな湿った匂いがする。


 子どもの頃から、それが普通だった。


 この村では、誰も口にしないことがいちばん恐ろしい。

 見て見ぬふりをすることが、正しさとして通る。

 だから今年も、誰もはっきりとは言わない。


 ――十八の冬に、神へ返される娘がいる。


 言葉にしてしまえば本当になるから。

 口にすれば、自分の家まで祟られる気がするから。

 だから皆、知っていて知らないふりをする。


 今年、その名を持つのが誰かも。


 冬真は歩みを止めた。

 道の脇に立つ古びた石碑の表面に、薄く霜が張っている。その向こう、闇に沈んだ家々のひとつに、まだ灯りがともっていた。


 千歳の家だ。


 障子越しの、ぼんやりした橙色の光。

 それだけで胸の奥が妙にざわついて、冬真は無意識に視線を逸らした。


 あの明かりが消えるまで、あといくつ夜を越えればいいのか。

 そんなことを考える癖は、ずっと前から身についてしまっている。


 行こうとした、そのときだった。


 からん。


 どこかで鈴の音がした。


 冬真の足が止まる。

 村の夜に鳴るはずのない、乾いた、小さな音だった。


 目を細める。

 音は一度きりではなかった。風に紛れて、かすかに、確かに続いている。からん、からん、と誰かが細い指で揺らしているみたいに。


 社の方角だ。


「……またか」


 ひどく低い声が、自分の喉からこぼれた。


 今夜は雪が強い。こんな夜に出るなら、相当飢えている。

 冬真は灯りのともる家をもう一度だけ見たあと、踵を返した。雪を踏みしめる足取りが、さっきまでよりも速くなる。


 誰にも見つからないように。

 誰にも知られないように。

 いつものように、それを終わらせるために。


     ◆


 翌朝、村は昨夜の雪が嘘みたいに静かだった。


 軒先から垂れた氷柱が陽を受けて光っている。積もった雪はまだ踏み荒らされておらず、朝の冷気は頬を刺すほど鋭い。

 吐く息を白く曇らせながら、冬真は市場へ続く細い坂道を下っていた。


 正面から、見慣れた人影が歩いてくる。


 白い息の向こうに、千歳がいた。


 厚手の外套に身を包み、買い物籠を両手で抱えている。黒髪にはうっすら雪が残っていて、頬は寒さで少し赤い。昔から変わらない、やわらかい目元がこちらを見つけて、ほんの少しだけ明るくなった。


「冬真」


 その呼び方だけで、胸の奥に小さな棘が刺さる。

 足を止めたくなかった。けれど無視することもできず、冬真は短く息を吐いた。


「……おはよう」

「おはよう。珍しいね、こんな朝早く」

「用事」

「そっか」


 それだけのやり取り。

 けれど千歳はすぐには歩き去らなかった。籠を抱えたまま、何かを言うべきか迷っているように唇を引き結ぶ。


 昔なら、そんな沈黙はなかった。

 どちらからともなくくだらない話をしたし、同じ道を当たり前みたいに並んで歩いた。雪が降れば、千歳はよく転びそうになって、冬真が呆れながら腕を掴んだ。そういう距離が、息をするみたいに自然だった。


 今は違う。


 その違いをいちばんわかっているのは、たぶん目の前の千歳だ。


「最近」


 千歳が言った。

 声は静かで、けれど雪より冷たかった。


「最近、避けてる?」


 冬真の指先が、外套の内側でわずかに強張る。


「気のせいだ」

「……そうかな」

「そうだ」


 言い切ると、千歳は少しだけ目を伏せた。

 責めるでもなく、怒るでもなく、ただ困ったように笑う。その笑い方がいちばんきついと、冬真は知っている。


「なら、いいけど」


 よくないくせに。

 そう思うのに、喉は何も言わなかった。


 千歳はそこでようやく歩き出した。すれ違いざま、かすかに白椿みたいな匂いがした。冬の匂いに紛れて、ひどく懐かしい香りだった。


 呼び止めたい衝動が、一瞬だけ喉元までせり上がる。


 ――千歳。


 名前を呼んでしまえば、たぶん何かが壊れる。

 だから冬真は黙ったまま、彼女の後ろ姿を見送った。


 外套の裾が揺れるたび、積もった雪に足跡が残っていく。

 その跡を、誰かが辿るかもしれないと思った瞬間、冬真の背筋を冷たいものが走った。


 地面に落ちた影が、一瞬だけ歪んだ気がしたのだ。


 冬真は反射的に振り返る。

 誰もいない。朝の道には、薪を運ぶ老人と、犬を抱いた女がいるだけだ。どこにもおかしなものは見えない。


 だが、見えないからこそ厄介だった。


「……っ」


 左の手の甲に、焼けるような痛みが走る。

 袖口の下、肌に刻まれた痣が熱を持つ。昨夜受けた穢れがまだ消えていない証拠だった。


 千歳はもう坂を下りきって、小さくなっている。

 その背を目で追いながら、冬真は奥歯を噛んだ。


 今朝はまだ早い。

 出るには早すぎる。なのにもう寄ってきている。


 供物の冬が近づくほど、あれらは敏くなる。


     ◆


 夜になると、雪はまた降り始めた。


 家々の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。

 冬真は自室の障子を細く開けて、向かいの道を見た。千歳の家の窓に、まだ明かりがともっている。


 遅くまで起きているらしい。儀式の支度か、家の手伝いか。

 そう考えた瞬間、胸の内に黒いものが滲んだ。


 支度。


 村の連中は、そう呼ぶ。

 誰かひとりの人生が終わるかもしれないことを、季節の行事みたいに。


 爪が掌に食い込む。

 冬真は目を閉じ、呼吸をひとつ整えた。それから静かに立ち上がる。外套を羽織り、音を立てずに部屋を出る。


 家族はもう寝ていた。

 廊下は冷え切っていて、戸を開けると夜気が刃物みたいに頬を切った。


 雪の匂い。

 その奥に混じる、ぬめったような生臭さ。


 出ている。


 冬真は道を急いだ。

 千歳の家に近づくほど、空気が妙に重たくなる。雪が降っているはずなのに、その一角だけ音が吸われていた。


 塀の影に身を潜め、家の裏手を窺う。

 そこで見えたものに、冬真は眉をひそめた。


 窓の外に、影が立っている。


 人の形に似ているのに、輪郭が曖昧だ。首が長すぎる。腕が細く、指だけが異様に長い。濡れた紙を貼り合わせたみたいな黒が、雪明かりの中でぬらぬらと揺れている。


 それは障子の向こうを覗き込むようにして、微動だにしなかった。


 千歳は気づいていない。

 窓の内側を横切る影が見える。部屋の中で何か作業をしているのだろう。彼女があと数歩、そちらへ寄れば、あれはもっと近づく。


 冬真は息を殺し、札を一枚、袖から滑らせた。


 紙片に爪を立てる。

 血がにじんだ瞬間、札の文字が淡く赤く光る。


「――こっちだ」


 低く呟いて、札を路地の奥へ投げた。


 影がぴくりと震える。

 次の瞬間、ありえない角度で首が回り、真っ黒な顔らしきものが冬真を向いた。


 目はなかった。

 なのに、見られたとわかった。


 ぞっとするほど冷たい気配が膨れ上がる。

 影は窓から離れ、雪の上を滑るようにこちらへ寄ってきた。足はない。音もない。ただ濡れた布を引きずるような不快な気配だけが、夜に広がっていく。


 冬真は塀を蹴った。

 一気に路地へ飛び込み、影を千歳の家から引き離す。


 背後で、ばん、と結界札が弾ける音がした。家を守っていた札の一枚が焦げ落ちたのだろう。思ったより早い。まずい、と舌打ちする。


 影が腕を伸ばした。

 黒く細い指先が冬真の首筋を掠める。触れた箇所から熱とも冷たさともつかない痛みが走り、皮膚の奥へ何かが潜り込もうとする。


「っ、は……!」


 冬真は歯を食いしばり、札ではなく自分の左手でその腕を掴んだ。


 普通なら触れてはいけない。

 穢れは人の身に移る。だから祓うのが正しい。遠ざけるのが正しい。


 けれど冬真は、最初からそうしていない。


 黒いものが、掴んだ手から腕へと這い上がってくる。

 皮膚の下を虫の群れが走るみたいな感覚に、吐き気が込み上げた。袖の下、古い痣の上からさらに新しい黒が滲んでいく。


 喉の奥で呻きを噛み殺しながら、冬真はもう片方の手で印を切った。


「返せ」


 短い命令とともに、手の甲に刻まれた痣が赤く光る。

 影がひしゃげたような悲鳴を上げた。


 まるで、行き場を失った水が一気に吸い込まれていくみたいに、穢れが冬真の内側へ流れ込む。肺が焼ける。視界が白く弾ける。膝が折れそうになるのを、無理やり踏みとどまった。


 影の輪郭が崩れた。

 首がちぎれたように揺れ、腕が千切れ、最後には黒い霧となって雪の上へ散る。


 だが消えたわけではない。

 ただ、冬真の中へ移っただけだ。


「……っ、ぁ……」


 呼吸が乱れる。

 膝をつき、雪に手をつくと、白い面にぽたりと赤が落ちた。鼻の奥が熱く、遅れて血の匂いがした。


 また一つ。

 また、自分の方へ寄せた。


 千歳の家の方を見る。

 障子の灯りは変わらず穏やかで、物音ひとつしない。気づいていないのだろう。それでよかった。


 それだけを確認して、冬真はようやく肩の力を抜いた。


「まだ……足りない」


 吐き出した声は、雪に吸われて消えた。


 こんなものでは止まらない。

 社の奥にいるものは、もっと深く、もっと長く、千歳へ手を伸ばしている。夜ごと押し返したところで、冬が終わるわけじゃない。


 わかっている。

 今のは、先延ばしにしただけだ。


「無茶をするな」


 不意に、背後から声がした。


 冬真は肩越しに振り返る。

 路地の入口に、長身の男が立っていた。白い狩衣の上に濃紺の外套を羽織り、雪の中でも不思議なくらい姿勢が崩れない。綾人だった。


 村の社に仕える神職の青年。

 年は冬真より少し上だが、その目には妙な老成がある。感情の起伏を滅多に見せないくせに、人を見透かすときだけ鋭い。


「……見張ってたのか」

「見張らずに済むならそうしたい。だが君は、放っておくと本当に死にかねない」


 綾人は雪を踏み分けて近づき、冬真の手元を見下ろした。

 黒く浮いた痣と、血の混じった雪。表情は変わらない。だがわずかに眉が寄る。


「また引き受けたな」

「祓うより早かった」

「言い訳にはならない」


 冬真は立ち上がろうとして、軽くよろめいた。

 綾人は手を貸さない。ただそのかわり、千歳の家の方へ一瞥を投げる。


「彼女は気づいていないのか」

「気づかせるつもりはない」

「どこまで隠し通す気だ」


 問いは静かだった。

 責める響きはない。ただ事実を問うだけの、冷たい声だ。


 冬真は答えなかった。

 答えるまでもないと思っていた。


 綾人が小さく息を吐く。


「その傷が、あとどれだけ保つと思っている」

「保たせる」

「君一人の意思でどうにかなる段階は、もう過ぎている」

「それでもだ」


 即答だった。

 自分でも驚くほど迷いがなかった。


 綾人はしばらく黙っていた。雪が二人の肩に降り積もる。やがて彼は、ひどくわずかに目を細めた。


「……そこまでして守りたいのなら、なぜ言わない」

「言えば、あいつは受け入れる」


 自分の声が、思った以上に固かった。


「千歳はそういうやつだ。自分が消えることで村が保つなら、たぶん笑って頷く。誰かが傷つくくらいなら、自分を差し出す方を選ぶ」

「だから黙っているのか」

「知られたら終わる」


 それだけは、絶対だった。


 千歳は優しい。

 優しすぎる。

 だからこそ知られてはいけない。


 自分が何をしているのか。

 どれだけ引き受けているのか。

 それを知った瞬間、彼女はきっと自分のために諦める。生きることを、躊躇なく捨てる。


 そんな守られ方をさせるために、ここまで来たわけじゃない。


 綾人は何も言わなかった。

 ただ、雪の向こうに沈む家々を見つめている。村を守るために供物を捧げることを是とする男が、今だけは何を考えているのか読めなかった。


「……冬真」


 ふいに、綾人が名を呼ぶ。

 その声音は、いつもより少しだけ低かった。


「間に合わないかもしれないぞ」

「間に合わせる」

「君が壊れてもか」

「かまわない」


 言い切ったあと、胸の奥に妙な静けさが広がった。

 ずっと前から、答えは決まっている。


 嫌われてもいい。

 誤解されたままでもいい。

 この先、千歳の記憶に自分がろくな形で残らなくてもいい。


 それでも。


 冬真は再び、彼女の家の明かりを見た。

 障子越しの灯りはあたたかく、穏やかで、何も知らないまま夜を過ごしている。


 あの光が明日も灯るなら。

 あいつが明日も息をして、いつもみたいに困った顔で笑うなら。


 それでいい。


「知られなくていい」


 零れた言葉は、ほとんど祈りだった。


 綾人はそれ以上何も言わなかった。

 ただ、冬真の横を通りすぎると、焦げ落ちた結界札を拾い上げる。白い紙の端は黒く縮れ、文字は半分以上読めなくなっていた。


「次はもっと大きいのが来る」

「わかってる」

「社も、もう黙ってはいない」


 その一言に、冬真の背筋が強張る。


 社の奥。

 あの石段の上。

 雪より冷たい気配を湛えた場所で、何かがこちらを見ている。幼い頃から感じてきた、底なしの視線。


 今年はいよいよ、近い。


 冬真は袖の内で、痛む手を握りしめた。

 熱を持つ痣は、脈打つように疼いている。


 まだ終わっていない。

 むしろ、ここから始まる。


 綾人が去ったあともしばらく、冬真はその場に立ち尽くしていた。雪は絶え間なく降り、足元の血を少しずつ覆い隠していく。

 痕跡は消える。何もなかったみたいに、朝になれば白く均される。


 その方が都合がいい。


 誰にも見つからなくていい。

 誰にも褒められなくていい。

 ただひとりにだけ、届かなくていい。


 それが自分の役目だと、いつからか思っていた。


 ふと、記憶の底で幼い声がした。


『冬真、また見つけた』

『何をだよ』

『わたしが泣きそうなの』


 幼い日の千歳は、よく泣くくせに、泣く前だけは必死で隠した。

 縁側の隅、神社の裏、雪の積もった帰り道。俯いた横顔を見つけるたび、冬真は先に気づいてやりたかった。


 泣く前に。壊れる前に。

 誰にも見せない顔を、自分だけが知っていたかった。


 その頃と何も変わっていない。

 ただ、守る相手と守るものが大きくなりすぎただけだ。


 冬真は目を閉じ、冷えた空気を肺いっぱいに吸い込んだ。

 雪の匂いの奥に、微かに、鉄と土と古い水の匂いが混じる。


 社が呼んでいる。


 山の奥、見えない闇のさらに向こうで、ひどくゆっくりと何かが目を開く気配がした。


 村はまだ眠っている。

 千歳もまだ知らない。


 知らないまま、明日を迎えればいい。


 そう願った、その夜。


 冬真はまだ、自分がどこまで失うことになるのかを知らなかった。

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