第5章 第9話:切るか、残すか
祓殿へ向かう朝は、これまでで一番静かだった。
雪は降っていない。
風もない。
それなのに、空気は張りつめている。何かが始まる前の静けさではなく、もう後戻りできないところまで来た静けさだった。
千歳は石畳を踏みながら、前を歩く冬真の背中を見ていた。
昨日の夜、はっきりしたことがある。
名前の先にあるもの。
自分たちのあいだに積み重なってきた意味そのものが、冬真を戻す線になっていること。
それはもう、幼馴染という言葉だけでは包みきれないところまで来ていた。
だからこそ、今日が怖い。
戻すために必要なものが、そのまま失いたくないものでもあるからだ。
「冬真」
呼ぶ。
半歩だけ、前を行く足が緩む。
「何だ」
「今どこ」
少しの間。
それから、掠れた声。
「祓殿に向かう途中」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐いた。
「うん」
「毎回やるのか」
「毎回やる」
「面倒」
「知ってる」
そのやり取りが、今はもう確認であり、同時に祈りみたいなものでもあった。
綾人が前を見たまま低く言う。
「今日は、選ばされる」
千歳の胸が強く鳴る。
「何を」
「切る場所だ」
短い返答。
でも、その意味は重かった。
「流し路の口と核を切るだけでは足りん」
綾人は続ける。
「冬真の中にできた道も、どこかで弱める必要がある」
「……」
「問題は、その道のどこが一番強く結ばれているかだ」
千歳は唇を噛む。
もうわかっている。
たぶん綾人も、冬真も、千歳も、同じことを考えている。
「千歳への線」
冬真が低く言った。
その声は、ひどく嫌そうだった。
「そこが一番強い」
綾人は否定しない。
「そうだ」
千歳の足が、ほんの一瞬だけ止まりかける。
でも止まれなかった。
◆
祓殿の中は、外よりもずっと冷たかった。
床板を外す。
床下から湿った冷気が立ちのぼる。
もう見慣れたはずの暗がりが、今日は別の意味で口を開けているように見えた。
ここへ何度も入ってきた。
構造も見た。
核も見た。
器の形も見た。
でも、今日は違う。
今日は本当に切るかどうか、その線を決める日だ。
三人は、これまでと同じ順で床下へ降りる。
綾人、冬真、千歳。
手燭の灯りが揺れ、梁の影が土壁に長く伸びる。
流し路の溝は、相変わらず横へ続いていた。
砕けた祭具の欠片。
湿った札。
受け皿の窪み。
何度も流し、留め、替えを得るまで保ってきた痕跡。
その全部が、今日だけはさらに生々しく見えた。
「昨日の固定まで」
綾人が言う。
「そこから、核の手前を開く」
千歳は小さく頷く。
声を出すと、自分の喉の震えがわかってしまいそうだった。
白い核の前に来ると、空気が一段冷える。
それだけで、冬真の肩が少しだけ強張るのが見えた。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
「……祓殿の床下」
「うん」
「昼」
「うん」
「お前」
一拍置いて、
「怖がってる」
「うん」
千歳は正直に返す。
「すごく怖い」
冬真の目が少しだけ揺れる。
でも、その返しが返ってくるうちは、まだこちら側にいる。
綾人が低く告げる。
「今から核を半分だけ起こす」
「半分」
千歳が繰り返す。
「全部は起こさん」
綾人は答える。
「今必要なのは、冬真の道と何が噛み合っているかを見ることだ」
「……」
「そのうえで、どこを切れば最も弱められるかを決める」
冬真が低く言う。
「嫌な言い方だな」
「本音だ」
綾人は淡々と返した。
札が切られる。
白い線が核の周囲を走る。
次の瞬間、白い塊が、ゆっくりと脈打つみたいに揺れた。
「っ……」
冬真の呼吸が浅くなる。
視線が、核の向こうへ滑る。
千歳はすぐに声を出す。
「冬真」
「……」
「今どこ」
「……床下」
返事はある。
でも、薄い。
「何見てる」
綾人が問う。
冬真の喉が動く。
「……白い」
「うん」
「その中」
「何が」
「……細い線」
千歳の胸が冷える。
細い線。
それはたぶん、流し路そのものではない。
もっと人間の側に近いものだ。
「どこへ繋がってる」
綾人が問う。
冬真は答えるまでに長い時間を要した。
その数秒が、ひどく嫌だった。
「……こっち」
掠れた声。
「どこ」
「俺」
一拍置いて、
「の、中」
そこまではもうわかっている。
問題はその先だ。
「さらに」
綾人が促す。
冬真の眉が寄る。
苦しそうだ。
でも、今は見なければならない。
「……そこから」
冬真は言う。
「お前」
千歳の心臓が大きく跳ねる。
「千歳へ」
綾人が確認する。
冬真は小さく頷いた。
やはりそうだ。
冬真の中の道の一番深いところは、千歳への線と噛み合っている。
◆
床下の空気が、さらに冷える。
白い核の中に見える線は、冬真にしかはっきりとは見えていないのだろう。
けれど千歳にもわかった。
今、向こうはその線をこちらへ突きつけてきている。
「問題は」
綾人が低く言う。
「その線をどこまで弱めるかだ」
千歳が顔を向ける。
「……弱める」
「完全に残したままでは、切断の後にまた噛み合う可能性が高い」
「……」
「だが、削りすぎれば」
そこで綾人は言葉を切った。
続きは、言わなくてもわかる。
冬真が低く言った。
「戻る線まで死ぬ」
千歳の胸が、ぎゅっと強く締まる。
そうだ。
それが今日の選択なのだ。
「どこまでなら残せる」
綾人が問う。
冬真は核を見たまま、ひどく低い声で言う。
「わからない」
「感覚でいい」
「……」
「今のままでは、太すぎる」
「……」
「じゃあ」
綾人は静かに続ける。
「切るならそこだ」
「だめ」
千歳は即座に言っていた。
二人がこちらを見る。
自分でも驚くほど早い声だった。
「何が」
綾人が問う。
「そこ」
千歳は言う。
「その線を切るの」
「切る、ではない」
綾人が返す。
「弱める」
「でも」
「このままなら再結合する」
「わかってる」
千歳は息を整える。
「でも、そこまで触ったら」
一拍置いて、
「冬真が戻れなくなるかもしれない」
綾人は否定しなかった。
「可能性はある」
その率直さが、今は痛い。
「だから」
綾人は続ける。
「選ぶんだ」
「……」
「流し路を弱めきれず、再び噛み合う危険を残すか」
「……」
「戻る線そのものへ手を入れて、一時的にでも切断を成立させるか」
冬真が低く言う。
「俺を切ればいい」
千歳は即座にそちらを見る。
「何それ」
「そのままだ」
冬真は言った。
「千歳への線を残して、俺の方を落とす」
「だめ」
また、反射で出る。
「何で」
「何でも」
千歳は言う。
「それ、結局あんたが一人で切られる方選んでるだけじゃん」
「それが一番ましなら」
「ましじゃない」
千歳の声が少し強くなる。
「いつもそうやって、自分だけ削る方を選ぶ」
「……」
「もうそれなしって言った」
冬真の目が少しだけ細くなる。
「綺麗ごとだな」
「知ってる」
千歳は返す。
「でも、それでもだめ」
綺麗ごとかもしれない。
でも、今ここで“はいそうですか”と飲み込めるわけがなかった。
◆
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「何」
「感情だけで拒むな」
「……」
「拒むなら、代わりを出せ」
千歳は言葉を失う。
代わり。
そうだ。
ただ嫌だと言うだけでは、現実は動かない。
「冬真」
千歳は息を整えて問う。
「その線、全部が同じ強さなの」
冬真は少しだけ眉を寄せた。
「何」
「千歳への線って言っても」
一拍置いて、
「全部まるごと一本じゃないでしょ」
綾人の目が少しだけ細くなる。
続きを促している。
「名前」
千歳は言う。
「声」
「……」
「記憶」
「……」
「感情」
「……」
「それ、全部一緒に噛み合ってるわけじゃないんじゃない?」
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、核を見たまま低く言う。
「……違う」
千歳の胸が少しだけ鳴る。
「どう違う」
「名前と声は表」
「……」
「もっと奥に」
一拍置いて、
「意味がある」
その言葉が、昨夜の話と繋がる。
名前そのものではなく、関係の意味づけ。
自分が自分であるための核に結びついている部分。
「じゃあ」
千歳は続ける。
「表だけ弱めることは?」
綾人が即座に口を開く。
「不可能ではない」
「……」
「ただし、戻しの即効性は落ちる」
千歳はすぐに言う。
「それでいい」
「よくない」
今度は冬真が返した。
低く、はっきりした声。
「何で」
「戻しが遅れたら」
一拍置いて、
「昼みたいになる」
呼んでも届かない一瞬。
名前が届いても、それを自分のものとして掴むまで遅れるあの感覚。
あれがさらに深くなる可能性がある。
その現実が、千歳の胸へ重く落ちる。
「でも」
千歳は言う。
「全部触るよりはまし」
「千歳」
「何」
「お前」
冬真は少しだけ目を細めた。
「戻る方より、残す方を優先してる」
その言葉に、千歳は息を止める。
たしかにそうだ。
自分は今、戻しの速度よりも、“二人の線の意味”を守る方へ傾きかけている。
「……だって」
やっと声を出す。
「そこ切ったら」
一拍置いて、
「たぶん、もう違う」
「……」
「同じ戻り方じゃなくなる」
冬真は何も言わなかった。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
◆
白い核の前で、三人とも少しのあいだ黙った。
選択肢はひどかった。
全部ひどい。
だからこそ、どれが一番ひどくないかを選ぶしかない。
「表層だけ弱める」
やがて綾人が低く言う。
「名前、声、表に出やすい反応」
「……」
「意味の核そのものには、今は触れない」
千歳は顔を上げる。
「できるの」
「完全には無理だ」
綾人は答える。
「だが、表を薄くすることで、向こうが掴む入口を狭めることはできる」
「……」
「ただし」
一拍置いて、
「千歳、お前の戻しは難しくなる」
その言葉に、千歳は頷いた。
わかる。
簡単ではない。
でも、それでもこの方がいいと思った。
「冬真」
綾人が問う。
「それで持つか」
冬真は白い核を見たまま、しばらく黙っていた。
やがて、低く言う。
「……やるしかないなら」
「持つかと聞いている」
「たぶん」
「曖昧だな」
「今さらだろ」
その返しが、少しだけいつもに近い。
けれど、その下には深い疲労がある。
「千歳」
綾人が今度はこちらを見る。
「この選び方は、お前に楽ではない」
「うん」
「呼び戻しの速度が落ちる」
「うん」
「それでも行くか」
千歳は息を吸った。
怖い。
でも、ここで首を振ったら、自分は一生後悔する気がした。
「行く」
はっきり答える。
「全部守れるなんて思ってない」
「……」
「でも、そこを最初から切るのは嫌」
「……」
「だから、今はこれ」
綾人は数秒見て、それから小さく頷いた。
「いい」
その一言で、選択は決まった。
◆
綾人が札を切る。
今までと少し違う配置だった。
核の前、冬真の左右、そして千歳の立つ位置の少し手前。
白い線が細く走り、冬の床下の空気が一瞬だけ張りつめる。
「今から表を薄くする」
綾人が低く言う。
「名前を呼んでも、反応が一歩遅れる可能性がある」
「……」
「千歳」
「うん」
「それでも焦るな」
「……うん」
「意味を切るな」
千歳は強く頷いた。
「冬真」
綾人が続ける。
「お前は、落ちる方を選ぶな」
「……」
「自分を切るな」
「……」
「少しでも戻る方へ寄れ」
冬真は小さく息を吐いた。
「難しいこと言うな」
「今さらだ」
綾人が返す。
白い光が、一瞬だけ強く核の前を走る。
ざり、と土の奥で何かが擦れる音。
冬真の肩がびくりと揺れた。
「冬真!」
千歳がすぐに呼ぶ。
「今どこ」
返事が少し遅い。
「……床下」
薄い。
でも返る。
「うん」
「祓殿」
「うん」
「わたしは」
今度は、はっきり止まる。
千歳の胸がきつく締まる。
やっぱり遅い。
でも、それでいいと選んだのは自分だ。
「秋月千歳」
自分で言う。
「しつこい」
「……」
「面倒」
「……」
「知ってる」
そこで、冬真の眉が少しだけ寄る。
「……知ってる」
返ってきた。
遅い。
でも、意味の方はまだ届いている。
千歳はそれを感じて、ぎりぎりのところで呼吸を保つ。
「今どこ」
「……床下」
「うん」
「戻って」
冬真の視線が少しだけこちらへ寄る。
その動きは鈍い。
でも、完全には切れていない。
綾人が低く言う。
「十分だ。戻る」
「え」
千歳が顔を向ける。
「表は薄くなった」
「……」
「これ以上やれば、今度は意味の核まで触れる」
それは今、最も避けるべきことだ。
千歳は反論しなかった。
三人はじりじりと後退する。
千歳は言葉を切らさない。
今どこ。
床下。
祓殿。
昼。
秋月千歳。
しつこい。
面倒。
知ってる。
呼びかけと雑音と意味を混ぜながら、冬真を人間の側へ繋ぎ続ける。
床下から出たとき、冬の空気が頬を打った。
冷たい。
でも、生きている冷たさだった。
冬真は祓殿の戸口へ手をついたまま、少しだけ俯いている。
千歳はすぐには触れず、いつものように少しずれた位置で呼ぶ。
「冬真」
少し遅れて顔が上がる。
「……何だ」
「今どこ」
「祓殿の前」
「わたしは」
今度も少し遅れる。
千歳の胸がきゅっと鳴る。
「秋月千歳」
それでも返ってきた。
「……遅いね」
思わず言うと、冬真は小さく息を吐いた。
「そうだな」
「でも」
千歳は続ける。
「わかる?」
冬真が目を細める。
「何が」
「わたしのこと」
自分でも、ひどく怖い問いだと思った。
でも聞かずにはいられなかった。
冬真はしばらく黙っていた。
やがて、低く答える。
「わかる」
一拍置いて、
「前より、名前は遠い」
「……」
「でも、お前だってことはわかる」
その言葉に、千歳は胸の奥が痛くなる。
選んだ結果だ。
名前は少し遠くなった。
でも、意味はまだ残っている。
そのことが救いであり、同時にたまらなく苦しかった。




