第5章 第8話:名前の先にあるもの
夜の仮殿は、息を潜めたままじっとこちらを見ているみたいだった。
囲炉裏の火は落としていない。
札も新しく切り直してある。
それなのに、何も安全には見えない。むしろ、整えれば整えるほど、これから踏み込むものの危うさばかりが際立ってくる。
千歳は囲炉裏のそばに座ったまま、膝の上で指を組んでいた。
昼に見た記録の束が、まだ頭から離れない。
抜けていた夜。
混線していた朝。
数えきれなくなった喪失の積み重ね。
そして昨夜、向こうへ引かれたまま冬真が零した言葉。
忘れたくないのは、お前だけだ。
あれを、ただの事故みたいにはもう扱えない。
意識が削れた先で、それでも残ろうとしたもの。
名前の先にある感情の核。
そこまで来てしまえば、もう“幼馴染だから”だけでは説明しきれないことくらい、千歳にもわかっていた。
「……千歳」
低い声に顔を上げる。
冬真が壁際からこちらを見ていた。
顔色は今日も悪い。
けれど、その目はまだここを見ている。
「何」
「考えすぎ」
「そっちも」
返すと、冬真は少しだけ目を細めた。
「俺はいつもだ」
「よく言う」
「事実」
「便利だね」
「お前にだけは言われたくない」
そのやり取りが、いつもより少しだけぎこちない。
互いに、昨夜の言葉を忘れていないからだ。
千歳は少しだけ息を整えてから、静かに呼んだ。
「冬真」
「何だ」
「今どこ」
冬真はわずかに眉を寄せたが、答えた。
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は頷く。
「うん」
「最近それ、挨拶みたいになってるな」
「必要だから」
「知ってる」
その一言に、胸の奥が少しだけ痛む。
知ってる。
その返しの中に、どれだけのものが積もっているのかを、今はもう軽く聞けなかった。
◆
綾人は囲炉裏の向こうで、床へ灰の線を引いていた。
祓殿の床下。
流し路。
核。
冬真の中の道。
そして、千歳の線。
それらを結ぶように、短い線がいくつも重ねられていく。
「明日、もう一段深く切る」
綾人が低く言う。
「その前に、確認しておくことがある」
千歳は顔を向ける。
「何ですか」
「名前が残る理由だ」
その言葉に、仮殿の空気が静かに張る。
冬真の視線が、ほんの少しだけ動く。
千歳の胸も同時に強く鳴る。
そこだ。
たぶん今夜触れなければいけないのは、そこなのだ。
「今まで」
綾人は続ける。
「“千歳の名前が最後に残る”という現象として扱ってきた」
「……」
「だが、もう現象だけでは足りん」
「……」
「なぜ残るのか」
「……」
「それが、単なる執着なのか、それとも別の核なのか」
綾人はそこで言葉を止めた。
それ以上は、自分では踏み込まないという顔だった。
この問いに答えるべきなのは、たぶん冬真自身だからだ。
「……冬真」
千歳が静かに呼ぶ。
冬真はしばらく黙っていた。
囲炉裏の火が小さく鳴る。
その音だけが、今ここがまだ仮殿なのだと教えてくる。
「前にも」
やがて、低い声。
「言っただろ」
「何を」
「最初に引いた理由も」
一拍置く。
「やめなかった理由も」
「……」
「たぶん、お前だって」
千歳は息を呑む。
聞いた。
たしかに聞いた。
でも今夜の問いは、その先にある。
「うん」
千歳は頷く。
「でも、今聞きたいのはそこじゃない」
冬真の目が少しだけ細くなる。
「どう違う」
「名前だけ残るくらい、深いところで」
一拍置く。
「それが何なのか」
喉の奥が少し熱い。
「そこ、もう“幼馴染だから”じゃ足りないでしょ」
言ってしまってから、自分の心臓がひどく速く鳴っているのがわかった。
冬真は答えない。
でも、否定もしない。
その沈黙だけで十分だった。
◆
「……足りない、だろうな」
ひどく小さく、冬真が言った。
千歳はその言葉を聞いた瞬間、胸の奥がざわつくのを感じた。
認めた。
今の関係を“幼馴染”だけで片づけるには、もう無理があると。
「何で」
千歳は問いを重ねる。
「名前だけ残るの」
「……」
「何で、そこまでなの」
冬真は少しだけ目を伏せる。
言いたくないのだとわかる。
でも、もう逃がしたくなかった。
「冬真」
「……うるさい」
低く返る。
「うるさくなるよ」
千歳は言う。
「ここまで来て、また半分だけとか無理」
冬真は小さく息を吐いた。
「面倒」
「知ってる」
「ほんと、それ便利だな」
「そっちも」
その短いやり取りのあと、また沈黙が落ちる。
やがて、冬真は囲炉裏の火を見たまま低く言った。
「残したいからだろ」
千歳は目を瞬く。
「何を」
「お前を」
一拍置いて、
「俺の中に、じゃなくて」
「……」
「俺が俺である方に」
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
けれど、ゆっくりと胸の奥へ落ちてくる。
自分の中に残したいのではなく。
自分が自分であるために、千歳が必要だと。
「……何それ」
やっと出た声は、掠れていた。
「お前の名前だけ覚えていたい、とか」
冬真は低く続ける。
「そういう話じゃない」
「……」
「お前をどう思ってるか」
「……」
「お前とどういう距離でいたか」
「……」
「そういうのごと残らないと」
一拍置いて、
「俺の方が、俺でなくなる」
囲炉裏の火が、ぱち、と鳴る。
その音がやけに大きく聞こえた。
千歳は何も言えなかった。
それは、ほとんど告白より深い言葉だった。
好きだとか嫌いだとか、そういう整理された形ではない。
もっとずっと根に近い。
この人の自己そのものへ、自分が結びついているという話だった。
「……重い」
気づけばそう言っていた。
冬真が少しだけ目を細める。
「知ってる」
「知ってるで済ませるな」
「今さらだろ」
「今さらでも」
千歳は言う。
「それ、ちゃんと聞くのきつい」
冬真は何も言わなかった。
でも、その沈黙は逃げではなかった。
言ってしまった以上、もう戻せないことをわかっている沈黙だった。
◆
綾人が低く口を開いた。
「つまり」
二人がそちらを見る。
「名前が残る理由は、言葉そのものではない」
「……」
「冬真の自己認識の核に、千歳との関係が食い込んでいるからだ」
その整理は冷静だった。
でも冷静だからこそ、残酷でもあった。
曖昧にぼかさず、今起きていることの正体をそのまま言語化してしまうからだ。
「それって」
千歳が問う。
「もう、幼馴染どうこうの話じゃないですよね」
綾人は少しだけ目を細めた。
「私はそう思う」
断定ではない。
でも、十分だった。
冬真はこめかみへ手をやり、低く息を吐く。
「……綾人」
「何だ」
「そこで口挟むな」
「必要だから言っている」
「余計だ」
「今さらだ」
そのやり取りが、少しだけいつもに近い。
けれど、その下に流れているものはもう前と同じではない。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「何」
「今ので」
一拍置く。
「お前がどう受け取るかまでは、知らない」
その言い方に、千歳の胸が痛くなる。
不器用だ。
でも、逃げでもある。
自分の言葉が相手にどう届くか、その責任まで持つのが怖いのだろう。
「知らないじゃなくて」
千歳は静かに言う。
「そこ、向き合って」
冬真の目が少しだけ止まる。
「……」
「名前の先にあるもの」
一拍置いて、
「わたし、もう気づいてる」
冬真は何も言わなかった。
でも、その顔には否定がなかった。
◆
そのとき、不意に仮殿の空気が揺れた。
からん。
鈴の音。
今夜はまだ来ないと思っていたわけではない。
でも、この瞬間に来るのはひどく悪質だと思った。
感情の芯へ触れた直後を狙っているみたいで、嫌だった。
「来た」
綾人が低く言う。
三人の空気が一瞬で変わる。
冬真の肩がわずかに強張る。
喉元の黒ずみが、火の明かりの中で少しだけ濃く見えた。
「位置」
綾人の声。
千歳はすぐに立つ。
いつもの位置。
真正面ではなく、少しずれた場所。
囲炉裏の熱が背中にある位置。
「冬真」
呼ぶ。
「今どこ」
「……仮殿」
返事は来る。
でも、少し遅い。
「うん」
「夜」
「うん」
「囲炉裏」
「うん」
そこまではいい。
だが次の瞬間、冬真の視線がまた遠くへ滑る。
「何見てる」
千歳が問う。
冬真の喉が動く。
「……白い」
やっぱり来た。
核の先。
向こう側。
「違う」
千歳は即座に言う。
「今、ここ」
「……」
「仮殿」
「……」
「わたしは秋月千歳」
冬真の目が少しだけ揺れる。
でも、今夜はそれだけでは足りないと千歳はもう知っていた。
「名前の先」
千歳ははっきり言う。
「さっきの続き」
綾人が横で低く息を呑む気配がした。
でも止めない。
止めるより、今ここで使うべきだと判断したのだろう。
「冬真」
千歳は続ける。
「わたしを残したいんじゃなくて」
「……」
「わたしとの関係ごと、自分でいたいんでしょ」
冬真の眉が、はっきりと寄る。
「……」
「今、そこ捨てないで」
「……」
「戻って」
「……」
「あとで、ちゃんと聞くから」
その言葉の直後、冬真の視線が少しだけこちらへ寄る。
「さらに積め」
綾人が低く言う。
「冬真」
千歳は息を整える。
「お前、って呼ぶ」
「……」
「面倒って言う」
「……」
「知ってるって返す」
「……」
「そういうの全部」
一拍置いて、
「わたしたちのだよ」
冬真の口元が、かすかに動く。
「……面倒」
小さな声。
「うん」
千歳は返す。
「知ってる」
「……」
「戻って」
冬真の喉が上下する。
視線が今度ははっきりとこちらへ合う。
「今どこ」
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「……面倒」
「知ってる」
そこへ綾人が札を切る。
白い線が戸口へ走り、鈴が一度高く鳴って遠のく。
静けさが戻る。
でも、さっきまでと同じ静けさではなかった。
今のやり取りが、そのまま仮殿の中に残っている気がした。
◆
冬真の肩から力が抜ける。
千歳は一歩だけ近づき、でも触れすぎない位置で止まる。
「今どこ」
もう一度問う。
「仮殿」
返答は少し掠れていたが、今度は迷いがなかった。
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「……面倒」
「知ってる」
そこまで返ってきて、千歳はようやく強く詰めていた息を吐いた。
「……危なかった」
小さく零す。
冬真は少しだけ目を細める。
「だろうな」
「軽く言わないで」
「軽く言ってない」
その返しが、少しだけ疲れている。
でも、ここにいる。
綾人が低く言う。
「今ので、さらにわかったな」
「何が」
千歳が問う。
「名前そのものより」
一拍置いて、
「関係の意味づけの方が強い」
千歳はゆっくり息を吸う。
たしかにそうだった。
今夜戻したのは、名前だけじゃない。
“わたしたちのやり取り”だ。
面倒、知ってる、そういう積み重ねの先にある意味が、冬真を人間の側へ引き戻した。
「でも」
千歳は小さく言う。
「それ、もう戻す線っていうより」
一拍置いて、
「感情そのものじゃないですか」
綾人は否定しなかった。
冬真は目を伏せたまま、低く言う。
「だから嫌なんだよ」
「何が」
千歳が問うと、冬真は少しだけ顔を上げる。
「そこまで使わないと戻れないの」
その本音に、千歳は一瞬だけ言葉を失う。
戻るために、感情の核まで使わなければいけない。
それがこの人には、たぶんひどく嫌なのだ。
「でも」
千歳は静かに言う。
「使わないと戻れないなら、使う」
冬真が目を細める。
「言い切るな」
「言い切る」
「……」
「だって、戻ってほしいから」
それはもう、幼馴染としての情だけで言っている言葉ではなかった。
言ってしまってから、千歳自身もそれに気づく。
でも、引っ込めたくはなかった。




