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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第5章 第7話:失っていた回数


 翌朝の仮殿は、やけに静かだった。


 囲炉裏の火は落ちきらずに細く残っている。灰の下で赤く息をして、時々小さな音を立てる。その音が妙に遠く聞こえるのは、千歳の方がまだ昨夜から戻りきっていないからだろう。

 忘れたくないのは、お前だけだ。

 あの言葉が、胸の奥にずっと残っている。


 零れた本音。

 向こうへ引かれたまま、意識の薄い場所から出てきた言葉。

 綺麗に受け止めていいものじゃない。

 でも、聞かなかったことにもできない。


 千歳は囲炉裏の向こうを見た。

 冬真は壁際に背を預けたまま目を閉じている。眠っているようにも見えるが、呼吸は浅い。昨夜より顔色が少し悪い。

 そのこと自体に、また胸がざわつく。


「……冬真」


 呼ぶと、少し間を置いて目が開く。

「何だ」

 掠れた声。

 返ってきた。

 千歳は小さく息を吐く。


「今どこ」

 冬真がわずかに眉を寄せる。

「またか」

「また」

「……仮殿」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は頷く。

「うん」

「朝から面倒だな」

「知ってる」

「便利に使うな」

「そっちも」

 そこまで言ったところで、戸口が開いた。

 綾人が戻ってくる。


 朝の冷気と一緒に入ってきた綾人は、千歳と冬真の顔を一度見て、すぐに囲炉裏の向こうへ座った。

「生きてるな」

「挨拶が雑」

 千歳が言うと、綾人は肩を竦める。

「事実確認だ」

 それから、少しだけ声を落とした。

「冬真」

「何だ」

「昨夜のあと、抜けは」

 冬真はしばらく黙っていた。

 その沈黙がすでに嫌な予感だった。


「……少し」

 やがて、低い声。

 千歳の胸が冷える。

「どこ」

 思わず問う。


 冬真はこめかみを押さえた。

「零したあとの順番」

「……」

「何をどこまで言ったか、少し曖昧」

 千歳は唇を噛む。

 やっぱりだ。

 戻せても、擦れた痕は残る。

 それが今のこの人の現実なのだ。


「でも」

 冬真は続ける。

「お前の顔がひどかったのは覚えてる」

 千歳は一瞬だけ言葉を失う。

「何それ」

「泣きそうだった」

「泣いてない」

「知ってる」

 その返しに、ほんの少しだけ息を吐ける。

 まだ届いている。

 完全には崩れていない。


     ◆


 朝の空気が少し落ち着いたところで、綾人が低く言った。

「今日、床下へは入らん」

 千歳が顔を上げる。

「え」

「連続で深く潜れば、冬真の中の道が先に崩れる」

「……」

「今日は整理だ」

 その一言に、千歳の胸の奥で別の緊張が立ち上がる。

 整理。

 それはつまり、昨夜零れたものや、今までの喪失を言葉にする日になるということだ。


「冬真」

 綾人が静かに呼ぶ。

「何だ」

「ここまで来たら、もう量を伏せるな」

 仮殿の空気が静まる。


 量。

 千歳はその言葉に息を止める。

 断片ではなく、総量。

 どれだけ失ってきたのか。

 どれだけ肩代わりしてきたのか。

 そこを、とうとう数として、長さとして見る段階へ来たのだ。


「……綾人」

 冬真の声は低い。

 止めたいのがわかる。

「今さらそこを残す方が危ない」

 綾人ははっきり言った。

「お前がどれだけ削れてきたのか」

「……」

「千歳が知らないまま切断へ入るのは、無謀を通り越す」

 冬真は答えなかった。

 でも、否定もしなかった。


「わたしも聞く」

 千歳は静かに言う。

「今度は、途中で止めない」

 冬真が目を向ける。

 疲れていて、嫌そうで、それでももう完全には逃げられない顔だった。


「……知ってる」

 掠れた声。

「じゃあ」

 千歳は続ける。

「どれくらい」

「……」

「どれくらい失ってきたの」

 囲炉裏の火が小さく鳴る。

 沈黙が落ちる。

 長い。

 でも、その沈黙の形が少し違うのが千歳にもわかった。

 もう完全に閉ざすための沈黙ではない。

 どこから言えば一番壊れないかを探している沈黙だった。


「最初は」

 やがて、冬真が低く言う。

「本当に少しだった」

 千歳は黙って聞く。

「熱とか」

「うん」

「だるさとか」

「……」

「寝不足みたいなもんで済んでた」

 そこはもう、前にも聞いた。

 でも今はその続きが必要だった。


「そのあと」

 冬真は目を伏せる。

「夜が抜けるようになった」

「……」

「次に、細かい話が残らなくなった」

「……」

「授業のこととか」

 一拍置いて、

「その日の会話とか」

 千歳は膝の上で手を握る。

 それも知っている。

 でも、まだそこじゃない。

 総量は、その先だ。


「回数」

 千歳は静かに言う。

「何回くらい」

 冬真の表情が少しだけ止まる。

 そこがやはり、一番言いたくないところなのだろう。


「わからない」

 最初の返答。

「それじゃだめ」

 千歳が即座に返す。

「だいたいでいい」

「……」

「何年もって聞いてる」

 冬真は小さく息を吐いた。

「中学の頃から、変だとは思ってた」

「うん」

「高校入ってからは、もう自覚してた」

「……」

「で、社に残るようになってからは」

 そこで言葉が少し詰まる。

「もう数えてない」

 千歳の胸が重く沈む。


「数えてないって」

 掠れた声になる。

「何で」

「数えると」

 冬真は低く言う。

「たぶん、そこで嫌になる」

 千歳は一瞬だけ息を失う。

 あまりにも正直で、あまりにも痛い理由だった。


「……嫌にはならなかったの」

 問うと、冬真は少しだけ目を伏せた。

「なってた」

「……」

「でも、やめる方がもっと嫌だった」

 またそこへ戻る。

 千歳が無事である方を取る。

 この人はずっと、その一点で動いてきた。


     ◆


「大まかには拾える」

 綾人が低く言う。

 二人がそちらを見る。


「何を」

 千歳が問う。


「抜けていた夜の回数」

 綾人は続ける。

「社の記録と、先代の残した控えで」

「……」

「完全ではないが、目安にはなる」

 冬真が眉を寄せた。

「やめろ」

「やめん」

 綾人は切って捨てるように返した。

「ここで総量を見なければ、お前の危険域が測れない」


 綾人は懐から小さく畳んだ紙を取り出した。

 古い帳面から抜いたような控えだ。

 墨の色が違う行が混じっている。先代と綾人、両方の筆跡なのだろう。


「何それ」

 千歳が低く言う。


「夜間の異常記録」

 綾人が答えた。

「冬真が朝に抜けていた日」

「……」

「あるいは社から離れた痕跡があった日」

「……」

「記憶の混線が強かった日」

 千歳の喉がきゅっと締まる。

 そんなものが、残っていた。

 自分の知らないところで。

 この人の削れた夜が、淡々と記録として残されていた。


「全部じゃない」

 綾人は続ける。

「だが、高校以降だけでも相当ある」

 千歳は紙を受け取る。

 指先が冷たい。

 めくる。

 日付。

 短い注記。

 夜間離脱の疑い。

 記憶混線。

 起床時混濁。

 札消失。

 移動痕。

 たったそれだけの文字列なのに、ひとつひとつが重い。


「……何これ」

 声が掠れる。

 ページをめくるたび、同じような記録が続く。

 一度や二度ではない。

 何十回、どころではない。

 季節をまたいで、年をまたいで、ずっと続いている。


「うそ」

 小さく零れる。

「……」

「こんなに」

 目が熱くなる。

「こんなにあったの」

 冬真は何も言わない。

 言えないのだろう。


「私も全部は掴んでいなかった」

 綾人が静かに言う。

「先代の控えを繋いで、ようやく見えた」

 千歳は紙から目を離せない。

 春。

 夏。

 秋。

 冬。

 それが何年も繰り返されている。

 自分が隣にいたはずの日々の裏で、こんなふうに削れていたなんて。


「……っ」

 喉の奥が痛い。

「何で」

 もう何度目かわからない問いが出る。

「何で、言わなかったの」

「言ったら」

 冬真が低く返す。

「お前が変わる」

「もう変わってる」

 千歳はすぐに言う。

「今さらそれ遅い」

「知ってる」

「じゃあ」

「でも」

 冬真は言葉を継いだ。

「ここまで多いって知ったら」

 一拍置いて、

「今度はお前が、自分を差し出す方で止めようとする」

 その確信の強さが、逆に苦しい。

 この人はずっと、自分のことをそういうふうに見てきたのだ。

 知れば止まらない。

 だから隠すしかなかったと。


     ◆


 千歳は記録の紙を膝の上に置いたまま、しばらく何も言えなかった。


 総量。

 それは本当に、量として人を打つのだと初めてわかった。

 ひとつひとつの痛みは想像できても、それが何十、何百と積み重なると、もう別の重さになる。


「……綾人さん」

 やっと声を出す。

「これ」

 一拍置いて、

「全部、高校以降だけですか」

「そうだ」

「……」

「幼い頃の分は、記録になっていないものが多い」

 千歳は紙を握る手に力が入る。

 つまり、本当の総量はもっと多い。

 ここに見えているのは、数えられた一部にすぎない。


「冬真」

 千歳は低く呼ぶ。


 冬真が目を向ける。

「何だ」

「これ」

 紙を少し持ち上げる。

「見て、何とも思わないの」

 冬真はその紙を見た。

 長くは見ない。

 ほんの一瞬だけで、また目を逸らす。


「……思う」

 掠れた声。

「何を」

「多いなって」

 その返答に、千歳はほとんど息を呑む。

 多いな。

 その軽さに怒りそうになる。

 でも、たぶん軽く言わないと、この人自身が耐えられないのだともわかる。


「多いで済ませないで」

 低く言う。

「これ、普通じゃない」

「知ってる」

「じゃあ」

「でも、今さらだろ」

 その言葉に、千歳の胸が強く痛む。

 今さら。

 そうかもしれない。

 でも、今さらだからこそ余計に苦しい。


「……今さらでも」

 千歳は絞り出す。

「知った方が痛い」

「……」

「知らないままの方が、もっと嫌」

 冬真は何も言わなかった。

 でも、その目の奥にほんの少しだけ何かが揺れた。

 たぶんそれは、安堵に近いものだった。

 ここまで出してしまった以上、もう一人で持たなくていい部分が少しだけ生まれるからだ。


     ◆


 囲炉裏の火が小さく鳴る。


「まだある」

 不意に、綾人が言った。

 千歳が顔を上げる。


「何」

「抜けていた夜の回数だけじゃない」

「……」

「戻ってきた朝の違和感」

「……」

「人の名が遅れた回数」

「……」

「社内での短い離脱」

 一つずつ、静かに置かれる。

 どれも記録になっていたのだろう。

 どれも千歳の知らないところで積み重なっていたのだろう。


「やめろ」

 冬真が低く言う。

 初めて、少しだけ本気で止めようとする声だった。


「やめん」

 綾人は即答した。

「もうここまで来ている」

「……」

「総量を見せなければ、切断時に何を優先すべきか決まらん」

 冬真は口を閉じる。

 反論できない。

 それがたぶん一番つらい。


「優先って」

 千歳が問う。


 綾人は千歳を見た。

「どこを守るかだ」

「……」

「記憶か」

「……」

「自己認識か」

「……」

「お前への線か」

 その最後の一つで、仮殿の空気がぴんと張る。

 千歳は息を止める。

 そうだ。

 総量を知るということは、何がすでに危ういのかを知ることでもある。

 そして、それは次に何を優先して残すかの話に直結する。


「……やだ」

 小さく零れる。

「そんなの、選びたくない」

「知っている」

 綾人が言う。

「だが、選ばされる可能性は高い」

 その現実が、容赦なく目の前に置かれた。


 冬真は壁際に背を預けたまま、低く言った。

「だから言いたくなかった」

 千歳はそちらを見る。

「うん」

「お前、そこ知ると」

 一拍置いて、

「余計に全部残そうとするだろ」

 図星だった。

 否定できない。

 千歳は唇を噛む。


「でも」

 やっとのことで声を出す。

「知った上で、選びたくないって言うのと」

 一拍置いて、

「知らないまま、選ばされるのは違う」

 冬真は何も言わなかった。

 その沈黙は、否定ではなかった。


     ◆


 午後の光が少しだけ傾くころ、千歳はまだ記録の紙を膝の上に置いたままだった。


 そこに書かれた日付のひとつひとつが、今まで知らなかった夜として胸へ沈んでくる。

 あの頃、自分は何をしていたのだろう。

 普通に学校へ行って、普通に帰って、普通に喧嘩して、普通に笑っていたのだろうか。

 その裏で、この人は夜を抜かれ、記憶を削られ、それでも次の日には普通の顔をしていたのだろうか。


「……最低」

 小さく言う。


 誰に向けた言葉なのか、自分でももうわからない。

 村にも。

 構造にも。

 そして、そんなふうに続けてしまった冬真にも。


「知ってる」

 不意に、冬真が低く返した。

 千歳は顔を上げる。


「何が」

「最低ってとこ」

 掠れた声。

 その返答に、千歳は少しだけ目を細める。

「そこ、自覚あるんだ」

「今さらだろ」

「今さらでも言う」

「だろうな」

 短いやり取り。

 でも、そのやり取りの裏にある重さは消えない。


 千歳は紙をそっと畳む。

 知った。

 ここまで多かった。

 ここまで長かった。

 もう二度と、軽くは扱えない。


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