第5章 第6話:零れた本音
その夜、仮殿の囲炉裏の火はいつもより低かった。
薪は足してある。
札も打ち直してある。
なのに、火の赤だけがやけに遠く見える。光が弱いわけではない。ただ、千歳の方がそれだけ神経を削っているのだと、自分でもわかった。
昼の床下で起きたことが、まだ体の奥へ残っている。
名前は届く。
でも、それを自分のものとして掴むまでに遅れが出る。
呼んでも、返事が間に合わない一瞬がある。
その一瞬の長さが、今までのどの危機より怖かった。
冬真は壁際に座ったまま、目を閉じていた。
眠っているわけではない。
呼吸は浅く、時々ほんのわずかに喉元が強張る。今日の床下で、あの白い核の前へ近づいた分だけ、向こうとの噛み合いがまた深くなったのだろう。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
少し遅れて目が開く。
「何だ」
声は掠れている。
けれど返ってきた。
千歳はそれだけで少しだけ息を吐く。
「今どこ」
冬真はほんの少しだけ眉を寄せた。
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は頷く。
「うん」
「満足か」
「全然」
「だろうな」
その返しに、ほんの少しだけいつもの温度が混ざる。
でも、それは安心というより、まだ崩れきっていない証拠に近かった。
綾人は戸口近くで札の端を見ながら言う。
「今夜、もし来たら」
千歳が顔を向ける。
「名前の確認だけでは足りない」
「……」
「昼の遅れを踏まえろ」
「うん」
「向こうが自我の結び目へ触れてくるなら」
一拍置いて、
「人間の側の意味を先に積め」
千歳は小さく頷いた。
意味。
名前だけではなく、どういう相手か。
どういう関係か。
どんな温度で呼ばれてきたか。
そういうものの総量が必要になる。
「難しいな」
冬真が低く言う。
「知ってる」
千歳が返すと、冬真は少しだけ目を細めた。
「お前、最近それしか言わないな」
「便利だから」
「最悪」
「そっちも」
そこまで言ったところで、外の空気がふっと変わった。
囲炉裏の火が細くなる。
からん。
鈴が、一度だけ鳴る。
三人の空気が一瞬で張りつめた。
◆
「位置」
綾人の声。
千歳はすぐにいつもの位置へ立つ。
冬真の真正面ではなく、少しずらした場所。囲炉裏の熱が背中へかすかに残る位置だ。
冬真は壁から背を離したが、立ち上がらなかった。
そのまま座った姿勢で、目だけが少し遠くを見る。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
「……仮殿」
「そう」
「夜」
「うん」
「囲炉裏」
「うん」
そこまではまだいい。
だが、そのあと冬真の視線が戸口ではなく、もっと別の方向へ滑った。
「何が見える」
綾人が低く問う。
「……白い」
掠れた声。
「核?」
千歳が問うと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「違う」
「何」
「もっと」
一拍置いて、
「近い」
その言葉の意味を考えるより先に、鈴がまた鳴る。
からん。
今度は少し長く響いた。
仮殿の外ではない。
内側へ、音だけが滲んでくるような鳴り方。
「冬真」
千歳は声を強める。
「こっち見て」
冬真の目がわずかに動く。
だが、焦点は合わない。
「何見てる」
返事はすぐに来なかった。
数秒の沈黙のあと、低く掠れた声。
「……お前」
千歳の胸が強く鳴る。
「何」
「向こうに、いる」
背筋が冷たくなる。
「違う」
千歳は即座に言う。
「わたしはここ」
「……」
「仮殿」
「……」
「向こうじゃない」
冬真の呼吸が少しだけ乱れる。
向こうに、千歳がいるように見せられている。
それは最悪だった。
戻す線そのものを、引き込む像として使われ始めているのだ。
「綾人さん」
千歳が低く呼ぶ。
「わかってる」
綾人はすでに札を二枚指に挟んでいた。
「だが今は切るな」
「……」
「千歳、現実を重ねろ」
千歳は息を整える。
怖い。
でも、ここで負けたら本当に持っていかれる。
「冬真」
はっきり呼ぶ。
「わたしはここ」
「……」
「仮殿」
「……」
「囲炉裏」
「……」
「今日、床下に入った」
「……」
「嫌なもの見た」
「……」
「わたし、すごく怒ってる」
冬真の眉が、ほんの少しだけ寄る。
そこだ。
千歳は続ける。
「あなたが勝手に自分切ろうとするのも嫌」
「……」
「善処って言ったのも嫌」
「……」
「だめって言った」
「……」
「厳しいって言った」
そのとき、冬真の口元がかすかに動いた。
「……知ってる」
小さな声。
届いた。
でも、まだ薄い。
「そう」
千歳はすぐに返す。
「知ってる」
「……」
「しつこい?」
「……」
「面倒?」
数秒。
それから、ほんの少しだけ。
「……面倒」
返ってきた。
千歳は胸の奥で強く息を吐く。
まだ戻れる。
まだ切れていない。
だが、その瞬間。
冬真の視線がまた遠くへ滑った。
「っ……」
喉元へ手が行く。
今度はこれまでよりはっきりと苦しそうだった。
「深い」
綾人が低く言う。
「千歳、続けろ」
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
返事がない。
「冬真!」
強く呼ぶ。
「わたし誰!」
そこで、冬真の唇がわずかに動いた。
だが出てきたのは、予想していたものではなかった。
「……忘れたく、ない」
ひどく掠れた声。
千歳は一瞬、言葉を失う。
綾人も動かなかった。
仮殿の空気がその一言で止まった気がした。
「え」
千歳の喉から、掠れた声が零れる。
冬真の目は半分以上、まだ向こうを見ている。
なのに言葉だけが、どこか深いところから零れてくる。
「……忘れたくないの」
一拍置いて、
「お前、だけだ」
その言葉は、告白みたいに綺麗ではなかった。
もっと削れていて、もっとぎりぎりで、意識の薄い場所から零れた本音だった。
千歳の胸が、強く、痛いほど鳴る。
今それを聞くなんて思っていなかった。
ここで。
こんな状態で。
でも、だからこそ嘘じゃないともわかってしまう。
「冬真」
千歳がやっと声を出す。
「今どこ」
返事はない。
だめだ。
言葉に呑まれるな。
受け止めるのはあとだ。
今は戻す方が先だ。
頭ではわかるのに、喉の奥が熱くてうまく息ができない。
「千歳」
綾人の声が低く飛ぶ。
「今は受けるな。戻せ」
はっとして、千歳は呼吸を整える。
そうだ。
ここで止まったら駄目だ。
「冬真」
もう一度、はっきり呼ぶ。
「わたしは秋月千歳」
「……」
「仮殿にいる」
「……」
「囲炉裏の前」
「……」
「今、あんたが戻らないと」
一拍置く。
「その話、ちゃんと怒れない」
冬真の眉が、かすかに寄る。
「……怒る」
小さな声。
「うん」
千歳は答える。
「すごく怒る」
「……」
「だから戻って」
「……」
「今どこ」
数秒の沈黙。
長い。
でも、さっきの完全な空白よりは違う沈黙だった。
引き戻される途中の、苦しい沈黙。
「……仮殿」
返ってきた。
千歳は息を吐く間もなく続ける。
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「しつこい?」
「……しつこい」
「面倒?」
「面倒」
「知ってる?」
「……知ってる」
そこまで来た瞬間、綾人が札を切る。
白い線が冬真の左右を走り、戸口の札が一度だけ強く光った。
鈴の音が高く一度鳴り、次の瞬間には遠のく。
静寂。
◆
冬真の肩から、はっきり力が抜けた。
「っ、ぁ……」
小さく息が漏れる。
千歳は一歩だけ前へ出る。
綾人は止めなかった。
流れが切れたのだろう。
「冬真」
低く呼ぶ。
少し遅れて、冬真が顔を上げる。
「何だ」
掠れた声。
でも、今度はちゃんとこっちを見ていた。
「今どこ」
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
そこまで聞いて、千歳はようやく強く詰めていた息を吐く。
でも、胸の奥はまったく落ち着かなかった。
さっきの言葉が、そのまま残っているからだ。
忘れたくないのは、お前だけだ。
その重さが、今さらみたいに遅れて体の中へ沈んでくる。
嬉しいとか、そういうきれいな言葉だけでは到底足りない。
苦しい。
怖い。
そして、逃げたくない。
「……大丈夫か」
綾人が低く問う。
冬真は少しだけ目を伏せた。
「大丈夫ではない」
「いつものだな」
綾人が言うと、冬真は小さく息を吐く。
「事実だからな」
千歳はそれを聞きながら、声を出せなかった。
いつもなら何か返せたかもしれない。
でも今は無理だった。
自分の中で処理しきれないものが多すぎる。
「千歳」
綾人が呼ぶ。
「何」
「今のは、向こうへ引かれたまま零れた言葉だ」
「……」
「だからこそ重い」
その言い方は冷静だった。
でも残酷でもあった。
軽く受け止めるなと言われているのと同じだからだ。
「わかってる」
掠れた声で答える。
冬真が少しだけ顔を上げる。
「……何」
「何、じゃない」
千歳はようやくそちらを見る。
「今の」
「……」
「あとで、ちゃんと聞く」
一拍置いて、
「逃げないで」
冬真は数秒黙ってから、小さく息を吐いた。
「……善処」
「だめ」
即答だった。
冬真の口元が、ほんのわずかに動く。
「厳しいな」
「当然」
そこまで言って、千歳はやっと少しだけ、自分の呼吸が戻ってくるのを感じた。




