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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第5章 第5話:呼んでも届かない一瞬


 祓殿の前に立った瞬間から、千歳の呼吸は浅かった。


 雪はまだ残っている。

 空は白く、音が吸われるみたいに静かだった。なのに静けさの奥で、何かが待っている感じだけがはっきりしている。

 今日はまた床下へ入る。

 しかも昨日より危ない。

 もう三人とも、それを口にしなくてもわかっていた。


「行くぞ」

 綾人が低く言う。


 千歳は頷く。

 冬真も何も言わない。

 言わないまま、祓殿の中へ入っていく。その背中を見ながら、千歳は胸の奥で何度も同じことを繰り返した。

 戻す。

 切らない。

 でも、落とさない。

 全部、矛盾みたいなことばかりだ。


「冬真」

 床板の前で、千歳が呼ぶ。


 冬真が少しだけ振り返る。

「何だ」

「今どこ」

 わずかに眉を寄せながらも答える。

「祓殿」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまでは、まだいい。

 千歳は小さく息を吐く。

 まだ届く。

 まだ大丈夫。

 そう思うしかなかった。


     ◆


 床下へ降りると、冷気は昨日より重かった。


 土の匂い。

 湿った木の匂い。

 古い灰の匂い。

 その全部の下に、白い核の気配が沈んでいる。

 手燭の火が揺れ、流し路の溝を浅く照らす。砕けた祭具の欠片が、ところどころで鈍く光った。


 昨日置いた固定の札はまだ生きていた。

 その白さだけが、かろうじて人間の側のものに見える。


「昨日の位置まで」

 綾人が言う。

「そこから一段、深く入る」

 千歳は頷く。

 冬真は何も言わない。

 でも、その肩が昨日より少しだけ固い。


 固定の手前で、綾人が止まる。

「ここから先は、冬真の反応を優先する」

「……」

「千歳、呼び戻しを切らすな」

「うん」

「押し返すな」

「うん」

「保持しろ」

「うん」

 返事はできる。

 でも、胸の奥ではずっと嫌な予感が膨らんでいた。


「冬真」

 綾人が低く呼ぶ。

「何だ」

「前へ」

 冬真が、昨日より半歩だけ深く、核の前へ出る。


 その瞬間。


 ざり、と床下の奥で土が擦れた。


 白い核の輪郭が、ふっと脈を打つみたいに揺れる。

 次いで、冬真の呼吸が止まりかけたのが、千歳にはわかった。


「冬真」

 すぐに呼ぶ。

「今どこ」

 返事が少し遅れる。


「……床下」

 掠れた声。

「うん」

「祓殿」

「うん」

 そこまでは返る。

 でも、その目はすでに白い核の向こうを見ていた。


「どう見える」

 綾人が問う。


 冬真の唇が、少しずつ動く。

「……白い」

「うん」

「その、向こう」

「何が」

 冬真の目が細くなる。

「……形」

 千歳の背筋が冷たくなる。

 まただ。

 向こうが見せてくる。


「見るな」

 綾人が低く言う。

「切れ」

「……無理」

 冬真の声が掠れる。

「近い」

「だから切れ」

「……近すぎる」


 そのやり取りの次の瞬間、冬真の視線がさらに遠くへ滑った。

 千歳はそれで、はっきりわかった。

 今までの“遅れ”とは違う。

 引かれている。

 しかも、名前が届けば戻る、といういつもの段階よりもう一段深いところへ。


「冬真!」

 千歳が強く呼ぶ。

「今どこ」

 返事はない。


 ない。


 その一瞬で、千歳の胸の奥が真っ白になる。

 呼べば返るはずだった。

 遅れても返るはずだった。

 それがない。


「冬真!」

 もう一度。

「聞いて」

 一歩踏み出しかけて、綾人の言葉を思い出して止める。

 近づきすぎるな。

 自分まで噛み合うな。


「何見てる!」

 千歳の声がわずかに上ずる。

 数秒の沈黙。

 そのあと、ようやく掠れた声。


「……白い、道」

 返った。

 でも浅くない。

 声が、こっちを向いていない。


「違う」

 千歳は息を整える。

「今いるのは祓殿の床下」

「……」

「昼」

「……」

「わたしは秋月千歳」

「……」

「綾人さんもいる」

 冬真の指先が、わずかに震えた。

 でも視線はまだ遠い。


「千歳」

 綾人が低く言う。

「名前だけでは足りん」

「わかってる」

 千歳は返す。

 わかっている。

 でも、怖い。

 今までなら名前で動いたものが、今は明らかに薄い。


     ◆


「冬真」

 千歳はもう一度呼ぶ。

「今日、ここに来る前に何言った」

 返事はない。

「善処って言った」

 自分で続ける。

「わたし、だめって言った」

「……」

「厳しいって言った」

「……」

「知ってるって返した」

 冬真の眉が、ほんの少しだけ動く。


「しつこい?」

 千歳は続ける。

「……」

「面倒?」

「……」

「知ってる?」

 それでも、返事がない。

 千歳の喉が熱くなる。

 ここまで反応が鈍るのは初めてだった。


「千歳、落ち着け」

 綾人が言う。

「雑音を積め」

「積んでる」

「もっと生活へ寄せろ」

 千歳は息を吸う。

 怖い。

 でも止まれない。


「冬真」

 今度は、もっと低く、もっと近い温度で言う。

「仮殿で、お湯飲んだ」

「……」

「朝、あんたがわたしの顔見て、考えすぎって言った」

「……」

「わたし、便利だねって返した」

「……」

「祓殿来る前、頑固って言った」

 そのとき、冬真の唇がほんのわずかに動く。


「……そっち、が」

 かすれた声。


 千歳の心臓が跳ねる。

「そう」

 すぐに返す。

「そっちがね、って言った」

「……」

「知ってる、って返した」

 冬真の眉が少し寄る。

 でも、まだ目は戻らない。


「今どこ」

 重ねる。

「……」

「冬真」

「……」

「今どこ」

 数秒。

 長すぎる数秒。

 それから、ようやく。


「……床下」

 掠れた声。

 千歳は息を吐く間もなく続ける。


「そう」

「祓殿」

「……」

「昼」

「……昼」

「わたしは」

 だが、そこでまた止まる。

 また、止まる。


「っ……」

 千歳の胸がきつく締まる。

 やっぱり足りない。

 名前は届く。けれど、“それを自分のものとして掴むところ”が遅い。

 第5章でずっと恐れていたことが、今、目の前で起きていた。


「秋月千歳」

 自分で言う。

「しつこくて、面倒で」

 一拍置いて、

「今、あんたが戻らないと本気で怒るやつ」

 その言葉の直後、冬真の肩がぴくりと揺れた。


「……怒る」

 ひどく小さな声。


「うん」

 千歳は答える。

「めちゃくちゃ怒る」

「……」

「だから戻って」

 冬真の呼吸が少しだけ乱れる。

 視線がようやく、ほんの少しだけこちらへ寄る。

 でも、まだ足りない。


「綾人さん!」

 千歳が呼ぶ。


「今だ」

 綾人が札を切る。

 白い光が冬真の左右へ走り、核の前の固定線が一瞬強く光る。

 ざり、と奥で土が鳴る。

 白い核の輪郭がわずかに崩れる。


「冬真!」

 千歳がさらに呼ぶ。

「わたし誰!」

 今度は数秒、沈黙。

 長い。

 長すぎる。

 千歳は本当に、ここで初めて喉の奥が冷たくなるのを感じた。


 届かないかもしれない。

 名前が届いても、その意味が掴めないまま落ちるかもしれない。

 その恐怖が、今までで一番はっきりした。


「……」

 冬真の唇が動く。

 でも声にならない。


「秋月千歳」

 千歳は自分で言う。

「幼馴染」

「……」

「しつこい」

「……」

「面倒」

「……」

「知ってる」

 そこで、冬真の眉がはっきり寄った。


「……知ってる」

 ようやく返る。


 千歳の視界が少し揺れる。

 よかった、と思う余裕もない。

 まだ途中だ。


「じゃあ、わたし誰」

 もう一度。

 今度は、冬真の目がかすかに合う。


「……千歳」

「フルネーム」

「秋月、千歳」

「うん」

「……しつこい」

 そこまで返ってきて、千歳はようやく息を吸った。

 戻った。

 まだ完全じゃない。

 でも、戻った。


     ◆


「下がれ」

 綾人が低く言う。

「今日はここまでだ」

 今度は千歳も反論できなかった。

 膝の力が少し抜けていた。

 自分が思っていた以上に、さっきの一瞬は深かった。


 じりじりと後退する。

 千歳は言葉を切らさない。

 今どこ。

 祓殿の床下。

 昼。

 秋月千歳。

 しつこい。

 面倒。

 知ってる。

 そのどうでもいい応酬を、祈るみたいに何度も重ねる。


 床下から這い出した瞬間、外の空気が頬を打った。

 冷たい。

 でも、ちゃんと痛い冷たさだった。

 人間の側の冬の冷たさだ。


 冬真は祓殿の戸口へ手をついたまま、しばらく動かなかった。

 千歳はすぐそばへ寄りたいのをこらえ、少しずれた位置で呼ぶ。


「冬真」

 少し遅れて返事。

「……何だ」

「今どこ」

「祓殿の前」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「しつこい」

「知ってる」

 そこまで言われて、千歳はようやく少しだけ呼吸を整えられた。


 でも胸の奥の震えは、消えなかった。


「今の」

 掠れた声で言う。

「本当に、嫌」

 冬真が少しだけ顔を上げる。

「何が」

「呼んでも、届かない一瞬」

 一拍置いて、

「名前が届いてるのに、掴めないみたいだった」

 冬真はしばらく黙っていた。

 やがて低く言う。

「……俺も、嫌だ」

 その返答があまりにも正直で、千歳は余計に苦しくなる。

 嫌なのは、こっちだけじゃない。

 でも、だからといって軽くはならない。


 綾人が祓殿を振り返ったまま言う。

「今のでわかった」

「何が」

 千歳が問う。


「名前は届く」

 一拍置いて、

「だが、“自分のものとして受け取る部分”が遅れる」

 千歳は唇を噛む。

 まさにその通りだった。


「つまり」

 綾人は続ける。

「次は、その遅れを前提に切らなければならない」

 その言葉の重さに、千歳は目を閉じたくなる。

 でも閉じなかった。

 もう、閉じて済む段階じゃない。


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