第5章 第4話:器の形
祓殿へ向かう道は、朝なのに夕方みたいな色をしていた。
雪はまだ残っている。
陽は出ているのに、冬の光は薄く、白いだけであたたかくない。石畳の上を歩くたび、靴の底から硬い感触が返ってくる。
千歳は外套の襟を押さえながら、前を歩く冬真の背中を見ていた。
昨日、核の手前まで進んだ。
固定の位置も取った。
千歳の声もまだ届いた。
それでも、今朝の胸の重さは軽くならない。
むしろ昨日より重い。
今日、もっと深く入るからだ。
「冬真」
呼ぶ。
半歩だけ、前の背中が緩む。
「何だ」
「今どこ」
少しだけ間があってから、
「祓殿に向かう途中」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐く。
「うん」
「朝からそればっかだな」
冬真が言う。
「必要だから」
「知ってる」
その返しはいつも通りだった。
でも、その“いつも通り”に、千歳はもう前みたいには安堵しきれない。
いつまで届くのか、どこまで届くのか、もう簡単には信じられない段階へ来ているからだ。
綾人は前を見たまま低く言う。
「今日は、昨日よりさらに奥を見る」
「……」
「固定の札は置いた」
「うん」
「だから次は、核の前で冬真がどう見られているかを確かめる」
千歳はその言葉に眉を寄せる。
「見られているか」
「そうだ」
綾人は答える。
「こちらが見るだけでは、もう足りない」
「……」
「向こうが冬真をどう認識しているか」
「……」
「それがわからなければ、切断の線を決められん」
冷たい言い方だった。
でも、たぶん正しい。
冬真がどこまで器に近づいているのか、それを見なければ、どこから切ればいいのかわからない。
「最悪」
冬真がぼそりと言う。
「感想が一貫してる」
千歳が返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。
「そっちは前向きすぎる」
「前向きじゃない」
「じゃあ何だ」
「逃げられないだけ」
そう言うと、冬真は一瞬だけ黙った。
その沈黙が、同じことを思っている顔だった。
◆
祓殿の中は、今日も冷たかった。
床板を外し、床下へ降りる。
もうその動作自体には慣れ始めているのに、慣れれば慣れるほど嫌だった。
こんな場所へ身体が順応していくこと自体が、どこか間違っている気がするからだ。
手燭の火が揺れる。
土の匂い。
古い灰の匂い。
湿った木の匂い。
狭い梁の下を、三人は昨日置いた札の位置まで進む。
「ここから」
綾人が低く言う。
「昨日より深く行く」
「うん」
千歳は答える。
声が少し硬い。
でも、足は止めない。
流し路の溝は、昨日よりもはっきり目についた。
灯りに照らされるたび、ただの排水ではないことがよくわかる。受け皿のような窪み、何かを置いた跡、砕けた祭具の欠片、湿った札の破れ端。
全部が、“一度では終わらなかったもの”の痕だった。
そしてその先。
白い核の輪郭が、今日は昨日より少しだけ濃く見える。
「固定は生きてる」
綾人が言う。
昨日置いた札が、淡い白さを保っていた。
「ここで止める」
「……」
「冬真」
綾人が呼ぶ。
「何だ」
「今から、核の前へ半歩出る」
千歳の胸が強く鳴る。
「危なくない?」
思わず口にすると、綾人は短く言った。
「危ない」
「即答」
「事実だ」
そして冬真へ視線を向ける。
「だが、それを見なければ進めない」
冬真は少しだけ目を細めた。
「最悪」
「知っている」
綾人は答える。
「だからお前は、その感想でいい」
千歳は冬真を見る。
止めたい。
でも止められない。
それが今の自分の立ち位置だと、もうわかってしまっている。
「冬真」
小さく呼ぶ。
「何だ」
「今どこ」
「祓殿の床下」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまでは、まだ早い。
「戻って」
千歳は静かに言う。
「まだ行ってない」
「知ってる」
一拍置く。
「でも、先に言っとく」
冬真は少しだけ目を細める。
「面倒だな」
「知ってる」
その返しが返るうちは、まだ大丈夫。
そう言い聞かせるみたいに、千歳は息を整えた。
◆
冬真が、固定の札の内側へ半歩入る。
その瞬間だった。
床下の空気が、はっきりと変わる。
ざり、と土の奥で擦れる音。
白い核の輪郭が、わずかに揺れる。
次の瞬間、冬真の肩が小さく強張った。
「冬真?」
千歳が呼ぶ。
返事はない。
「どう見える」
綾人が低く問う。
冬真の喉が上下する。
「……近い」
掠れた声。
「何が」
「向こうの形」
一拍置いて、
「俺に、合わせてる」
千歳の背筋に冷たいものが走る。
合わせてる。
それはつまり、単に引こうとしているだけじゃない。
向こうが、冬真を“器の形”として認識し、その形へ寄せてきているということだ。
「具体的に言え」
綾人が促す。
冬真は白い核の方を見たまま、ひどく低く言う。
「……穴じゃない」
「……」
「通り道じゃなくて」
「……」
「容れ物みたいに見える」
その一言で、千歳の胸がぎゅっと締まる。
容れ物。
器。
とうとう、その段階まで来てしまったのだと、言葉の形で突きつけられる。
「違う」
千歳は思わず言った。
「今見てるのは床下」
「……」
「祓殿の床下」
「……」
「あなたは器じゃない」
冬真の目が少しだけ揺れる。
けれど、まだ焦点は向こうへ半分持っていかれたままだった。
「冬真」
千歳はさらに声を重ねる。
「今どこ」
「……」
「何見てる」
数秒の沈黙。
そのあと、掠れた声。
「白い」
「知ってる」
千歳は即座に返す。
「でも、そこじゃない」
「……」
「こっち見て」
冬真の喉が動く。
少しだけ。
ほんの少しだけ、視線がこちらへ寄る。
でも完全には戻らない。
「まだだ」
綾人が低く言う。
「千歳、続けろ」
千歳は息を整える。
ここで焦ればだめだ。
でも遅すぎてもだめだ。
「冬真」
はっきり呼ぶ。
「今、昼」
「……」
「床下」
「……」
「わたし、ここにいる」
「……」
「秋月千歳」
そこで、冬真の眉がほんの少しだけ動く。
「……千歳」
返ってきた。
千歳はすぐに畳みかける。
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「面倒」
「知ってる」
「……」
「今、怒るより戻す方が先」
一拍置く。
「だから戻って」
その言葉のあと、冬真の目がようやく少しだけこちらへ合った。
「今だ」
綾人が札を切る。
白い線が核の手前に走り、床下の空気が一瞬だけ揺らぐ。
だが次の瞬間、冬真の顔色が変わった。
「っ……」
息を呑む音。
視線がまた、今度は核のさらに向こうへ滑る。
「冬真!」
千歳が強く呼ぶ。
「何見てる」
返事はすぐにはない。
その沈黙が、これまでより一段深くて、千歳の心臓が強く鳴る。
「……お前」
やっと出た声は、掠れていた。
「何」
「誰だ」
その一言で、千歳の背中が凍る。
◆
空気が、止まった気がした。
今まで一瞬の抜けはあった。
返事が遅れることもあった。
でも、“誰だ”は違う。
それは確認ではなく、輪郭のほころびそのものだった。
「冬真」
千歳は喉の奥が熱くなるのを感じながら、でも声だけは落とさなかった。
「わたしは秋月千歳」
「……」
「あなたの幼馴染」
「……」
「しつこくて」
「……」
「面倒で」
「……」
「今、あなたに怒ってるやつ」
冬真の眉が、ほんの少しだけ寄る。
そこだ。
千歳は息を止めるみたいに次の言葉を乗せる。
「今どこ」
「……」
「祓殿の床下」
「……」
「昼」
「……」
「綾人さんもいる」
「……」
「戻って」
冬真の喉が動く。
だが、返事はまだない。
「名前だけじゃ足りん」
綾人が低く言う。
「雑音を積め」
千歳は頷く。
怖い。
でも止まれない。
「冬真」
「……」
「昨日、善処って言った」
その瞬間、冬真の目がほんの少しだけ揺れた。
「だめって言った」
千歳は続ける。
「即答した」
「……」
「厳しいって言った」
「……」
「知ってるって返した」
その一連のやり取りは、たぶん他人が聞けば意味もない。
でも、二人のあいだには積もっている。
同じ温度で、同じ間で、何度も。
「……面倒」
ひどく小さく、冬真が言った。
千歳の胸が強く鳴る。
「うん」
「知ってる」
「うん」
「……千歳」
今度は、はっきり名前が出た。
千歳は思わず息を詰める。
戻ってきた。
まだ全部じゃない。
でも、戻った。
「今どこ」
もう一度、重ねる。
「祓殿の床下」
「わたしは」
「秋月千歳」
「そう」
「……」
「あなたは」
冬真の唇が動く。
「白瀬冬真」
そこまで返ってきて、千歳はようやくほんの少しだけ肩の力を抜いた。
だが綾人は低く言った。
「今のでわかったな」
二人がそちらを見る。
「何が」
千歳が問う。
「器の形は、もう向こうに見えている」
綾人の声は冷静だった。
「しかも、冬真の自己認識へ直接触れ始めている」
その言葉の重さに、千歳は息を呑む。
“誰だ”は偶然ではなかった。
向こうが冬真の輪郭そのものへ手をかけ始めている証拠だったのだ。
「戻る」
綾人が断じる。
「これ以上は深い」
今度は誰も反論しなかった。
できなかった。
◆
床下から這い出したあと、外の空気は痛いほど冷たかった。
冬真は祓殿の戸口へ手をつき、しばらく俯いている。
千歳はすぐそばへ寄りすぎない位置に立った。
今は触れるより、声の方が先だと、もう身体が覚え始めている。
「冬真」
呼ぶ。
少し遅れて返事。
「……何だ」
「今どこ」
「祓殿の前」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「しつこい」
その一言に、千歳は喉の奥が熱くなる。
さっきの“誰だ”がまだ耳の奥に残っていたからだ。
「……やだな」
小さく漏れる。
冬真が少しだけ顔を上げる。
「何が」
「今の」
一拍置く。
「本当に嫌」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙は、たぶん同じ気持ちだった。
綾人は祓殿を振り返ったまま、低く言う。
「核の前で、冬真は“器”として認識され始めている」
「……」
「今の反応は、その証拠だ」
「……」
「次はもっと深く来る」
千歳は唇を噛む。
やっぱりそうだ。
ここで終わるわけがない。
むしろ今のは、次の危機の輪郭を見せられたに過ぎない。
「……でも」
千歳は小さく言う。
「戻った」
綾人が顔を向ける。
「そうだ」
「“誰だ”のあとでも」
「戻った」
綾人は頷く。
「だからまだ、切れてはいない」
その一言だけが、今はかろうじて救いだった。




