第5章 第3話:再び床下へ
祓殿へ向かう朝の道は、昨日よりもはっきりと重かった。
雪は夜のうちに少し締まり、石畳の白さは硬く薄い膜みたいに光っている。踏むたび、きゅ、と乾いた音が足元で鳴る。
千歳は外套の前を押さえながら、前を歩く冬真の背中を見ていた。
今日は、また床下へ入る。
しかも今度は、ただ見るためじゃない。
流し路の奥へ進み、封じ損ねた核に近づき、切断のための準備を実際に始める。
それがどれだけ危ないことか、もう誰も知らないふりはできなかった。
「立ち止まるな」
綾人が言う。
「うん」
千歳は返したが、自分の声が少し硬いのがわかる。
怖い。
昨日までと同じように、いや、それ以上に。
でも、もうその怖さを理由に足を止めることもできない。
「冬真」
呼ぶ。
半歩だけ歩幅が緩む。
「何だ」
「今どこ」
冬真は少しだけ息を吐いた。
「祓殿に向かう途中」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまでは迷いなく返る。
千歳は小さく頷く。
「うん」
「何回目だ」
冬真が言う。
「必要だから」
「知ってる」
その返しがちゃんと返るだけで、胸の奥が少しだけ緩む。
けれど、その“少しだけ”に安心しきれないことも、もうわかっていた。
「……千歳」
冬真が不意に低く言う。
「何」
「切る準備って言っても」
一拍置いて、
「今日いきなり終わると思うなよ」
その言い方が、妙に現実的で嫌だった。
「思ってない」
千歳は答える。
「でも、今日何も進まないとも思ってない」
冬真は少しだけ目を細める。
「頑固」
「そっちがね」
「知ってる」
綾人が前を向いたまま、小さく息を吐いた。
「朝からよく喋るな」
「必要な雑音なんでしょ」
千歳が返すと、綾人は短く答えた。
「そうだ」
その一言で、やはり今日は本当に切断の段階に入るのだと改めて実感した。
◆
祓殿の戸を開いた瞬間、内側の冷気が三人を迎えた。
火の気のない冷たさ。
古い木の匂い。
床下から這い上がる湿った空気。
もう何度か入っているはずなのに、祓殿の中は毎回少し違う顔を見せる気がした。
今日は静かだ。
静かすぎる。
それがかえって不気味だった。
綾人は迷いなく左奥の床板へ向かい、仮封の札を確かめる。
「焼けは浅い」
低く言う。
「昨日の反応は、まだ探りの範囲だ」
「探りであれか」
冬真がぼそりと返す。
「そうだ」
綾人は答える。
「本気はこれからだ」
千歳の背中がひやりとする。
本気はこれから。
それはつまり、今までだって十分危なかったのに、まだ序の口だったということだ。
「開ける」
綾人が短く告げる。
床板が持ち上がる。
ぎし、と木が軋む音。
次いで、湿った冷気がゆっくりと立ちのぼる。
千歳はすぐには覗き込まず、まずその空気を吸わないように浅く息を整えた。
井戸とは違う。
でも、床下の冷たさは相変わらず人の体温を嫌うようだった。
「降りるぞ」
綾人が言う。
順番は昨日と同じだった。
綾人、冬真、千歳。
千歳は少しずれた位置を保ちながら床下へ身体を滑り込ませる。
土の匂いが濃い。
膝に湿りが触れる。
手燭の灯りが梁の影を揺らし、その先で流し路の溝が細く光を返していた。
昨日見た場所までは、もう見慣れ始めてしまっている。
それが嫌だった。
こんな場所に慣れたくはなかった。
「止まるな」
綾人が前から言う。
「核までの手前で固定する」
「うん」
千歳は返す。
今日は“見る”だけではない。
進みながら、戻しながら、核の手前まで行く。
それがどれだけ難しいか、まだ身体は知らない。
◆
流し路の途中で、空気が変わった。
昨日見つけた窪み。
受け皿の跡。
砕けた祭具の欠片。
そこを越えたあたりで、床下の冷えがさらに一段深くなる。
ただ冷たいだけではない。
耳の奥で、音にならない擦れが始まる。
何かがこちらを見ているのではなく、こちらが“見られる側の位置”へ入ったような感覚だった。
「来る」
冬真が低く言う。
綾人がすぐに札を手へ持ち替える。
「千歳」
「うん」
「ここからは、押し返すな」
「え」
「戻しながら進め」
短く、はっきりした声。
千歳は息を呑む。
わかっていたはずなのに、実際に言われると違う。
押し返して終わらせるのではなく、引きずられかけている冬真をこちらへ保ったまま、前へ進む。
矛盾しているみたいな行為だ。
でも、それをやるしかない。
「冬真」
千歳はすぐに声を出す。
「今どこ」
「……祓殿の床下」
返答はまだ来る。
「そう」
「昼」
「うん」
「お前」
一拍置いて、
「怖がってる」
その言い方に、胸が少しだけ詰まる。
まだこちらを見ている。
自分の顔が見えている。
「怖いよ」
千歳は正直に言う。
「でも止まらない」
冬真の目が少しだけ揺れる。
「知ってる」
返ってきた。
そこへ、綾人が前から低く言う。
「いい、そのまま」
三人はさらに進む。
溝は途中から少しだけ広がり、壁の土は何度も掘り返されたみたいにまだらだった。灯りの先、昨日見た白い核の手前には、崩れた封具の残骸が影のように横たわっている。
そのさらに少し奥。
白さが、まだ輪郭を曖昧にしたまま沈んでいた。
「ここで固定」
綾人が言う。
札が四方へ打たれる。
白い紙が淡く光り、土の壁と梁のあいだに細い線が走る。
その瞬間、床下の空気がざり、と鳴った。
「っ……」
冬真の呼吸が浅くなる。
視線が、白い核の奥へ引かれる。
「冬真」
千歳がすぐに呼ぶ。
「今どこ」
「……」
返事が遅い。
嫌な沈黙。
「冬真」
もう一度。
「……床下」
掠れた声。
「うん」
「白い」
「知ってる」
千歳は言う。
「でも今いるのは祓殿の床下」
「……」
「わたしは」
そこで冬真の唇が、ほんの少しだけ止まる。
「……千歳」
「フルネーム」
「秋月、千歳」
少し遅い。
でも、まだ繋がっている。
「そう」
「しつこい」
「知ってる」
返した瞬間、冬真の口元がかすかに動く。
このくらいのどうでもよさが、まだ届く。
◆
固定の札が落ち着いたところで、綾人がさらに前へ手燭を差し出した。
白い核は、昨日よりもはっきり輪郭を持って見えた。
煙に似ているのに、重い。
白い灰を水で練ったような粘りのある色。
その中心に砕けた祭具の欠片が埋まり、そのまわりに黒ずんだ札、縄、木片が複雑に絡みついている。
長く封じられず、流され、留められ、残されたものの塊。
見ているだけで、ここが正常な場所ではないことがわかる。
「固定はできる」
綾人が言う。
「だが、核そのものはまだ触るな」
「何で」
千歳が問う。
「今日は通り道の反応を見る」
綾人が答える。
「核を起こしすぎれば、向こうと直接噛み合う」
「……」
「先に冬真の中の道がどこまで反応するかを掴む」
それもまた、嫌になるほど正しい。
順番を間違えれば、見た瞬間に持っていかれるのだろう。
「冬真」
綾人が低く呼ぶ。
「どうだ」
冬真は核を見たまま答えた。
「……近い」
「何が」
「俺の中の」
一拍置いて、
「道の、終点みたいな感じがする」
千歳の胸が重く沈む。
終点。
つまりここが、ただの外側の口ではなく、冬真の中へできた道と噛み合う“結び目”に近いのだ。
「その先は」
綾人が問う。
冬真の呼吸がわずかに揺れる。
「……まだ、見えない」
「見るな」
綾人が即座に言う。
「今はそこまででいい」
だが、その“見えない”という返答のあと、冬真の焦点がふっとさらに遠くへ滑った。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「……」
返事がない。
まずい。
今までより一段深い。
「冬真!」
少し強く呼ぶ。
冬真の喉が小さく動く。
「何見てる」
千歳が問うと、冬真は掠れた声で答えた。
「……白い、先」
また向こうだ。
核の先。
見せられている。
「違う」
千歳は即座に言う。
「今見てるのは床下」
「……」
「祓殿の床下」
「……」
「囲炉裏はない」
「……」
「昼」
「……」
「わたしは秋月千歳」
そこへ、冬真の眉が少しだけ動く。
「怒ってる」
冬真がひどく小さく言う。
「うん」
千歳は答える。
「すごく怒ってる」
「……」
「でも、今は怒るより戻す方が先」
その一言に、冬真の視線がほんの少しだけ揺れた。
「知ってる?」
千歳はさらに言う。
「面倒?」
「……」
「しつこい?」
冬真の口元がごくわずかに動く。
「……しつこい」
返ってきた。
千歳は息を吐く間もなく続ける。
「そう」
「……」
「だから戻って」
「……」
「あとでいくらでも怒る」
その言葉の直後、冬真の視線がようやく少しだけこちらへ戻る。
「今だ」
綾人が札を切る。
白い光が、冬真の左右と核の手前の固定線を一瞬強く走る。
ざり、と床下の奥で何かが引く音がした。
「押し返すな、保持しろ」
綾人の声。
千歳は深呼吸した。
ここで終わらせたい。
でも終わらせない。
今はまだ進まなければならない。
「冬真」
もう一度、低く呼ぶ。
「今どこ」
「……祓殿の床下」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「うん」
「面倒」
「知ってる」
そこまで来て、ようやく冬真の目が少しだけ戻る。
完全ではない。
でも落ちてはいない。
◆
その状態のまま、綾人は核の手前に新しい札を差し入れた。
「固定の位置はここだ」
低い声。
「次に入る時、この札を基点に核を抑える」
千歳は核の前に打たれた白い紙を見る。
土と湿気と白い塊のあいだで、それだけがひどく人間の手のものに見えた。
「戻る」
綾人が言う。
「今日はここまでだ」
今度は千歳も反論しなかった。
反論する余裕がないほど、今の時間だけで神経が削れている。
じりじりと後退する。
冬真の視線がまた遠くへ行かないよう、千歳はずっと言葉を切らさなかった。
「今どこ」
「……床下」
「昼」
「……昼」
「わたしは」
「秋月千歳」
「しつこい?」
「……しつこい」
「面倒?」
「面倒」
「知ってる?」
「知ってる」
自分でも、何を言っているのかと思う。
でも、それが必要だった。
必要だと、もう身体でわかっている。
床下から這い出した瞬間、外の空気が肺へ刺さった。
冷たい。
けれど生きた冷たさだ。
土と核の湿った重さとは違う、人の側の冬の冷たさ。
冬真は祓殿の戸口へ手をつき、しばらく俯いていた。
千歳はすぐには触れず、ただ少しずれた位置に立つ。
「冬真」
低く呼ぶ。
「……何だ」
返ってきた。
掠れてはいるが、返った。
「今どこ」
「祓殿の前」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで戻って、千歳はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「どうだった」
綾人が問う。
冬真は呼吸を整えながら言う。
「……核の手前で、引かれる」
「うん」
「でも」
一拍置いて、
「千歳の声は届く」
その一言に、千歳の胸が少しだけ熱くなる。
嬉しいだけではない。
怖いままだ。
でも、まだ届く。
それは今の自分たちにとって、何より大きい。
「固定位置は取れた」
綾人が祓殿を振り返りながら言う。
「次で、もう少し深く入る」
その言葉に、千歳は小さく息を吸う。
もう少し深く。
つまり今日は、まだ入口に過ぎない。
切断は、まだ始まったばかりだ。




