第5章 第10話:切断の代償
夜の祓殿は、もう建物というより傷口に近かった。
雪は止んでいる。
空気は痛いほど冷たいのに、祓殿のまわりだけ温度の輪郭が曖昧だった。外に立っているはずなのに、足元からじわじわと床下の湿った冷えが這い上がってくる。
千歳は外套の前を押さえ、戸口を見た。
今日で終わる、とは思っていない。
でも、今日やらなければ次はもっと悪い。
そこだけは、三人とも同じ認識だった。
「入るぞ」
綾人が低く言う。
冬真は返事をしなかった。
ただ、わずかに顎を引く。
顔色は悪い。
それでも、目だけはまだこちら側にある。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
少し遅れて視線が向く。
「何だ」
「今どこ」
冬真は小さく息を吐いた。
「祓殿の前」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は頷く。
「うん」
「それ、ほんとに毎回やるんだな」
「毎回やる」
「面倒」
「知ってる」
その返しが返るたび、胸の奥で細い糸が張り直される。
もう、それがただの確認ではないことを、千歳も冬真も知っていた。
◆
床板を外し、祓殿の床下へ降りる。
手燭の火が揺れる。
土の匂い。
古い灰の匂い。
湿った木の匂い。
何度も通ったはずの流し路が、今夜はひどく狭く感じた。
進むたび、梁が頭上へ近づいてくる気がする。
白い核のある奥へ行くほど、空気そのものが人を通したがっていないようだった。
昨日までに置いた札は、細く白さを保っている。
それが今日、どこまで保つのかはわからない。
「位置」
綾人が低く言う。
「昨日と同じだ」
冬真が核の手前へ。
千歳は少しずれた位置。
綾人は固定の札に手をかける。
白い核は、もう隠れようともしていなかった。
灰を水で練ったような重い白さ。
砕けた祭具、札の焦げ、縄の切れ端、流しきれなかったものの残骸が、中心でゆっくり脈打つみたいに揺れている。
「今から切る」
綾人が言う。
「流し路の口を封じ、核の固定を崩し、冬真の中の道との噛み合いを外す」
「……」
「千歳」
「うん」
「表は薄いままだ」
名前や声の反応を少し遠ざけたまま、意味の核で戻す構え。
昨日の選択だ。
「焦るな」
「わかってる」
「冬真」
「何だ」
「自分を切る方へ寄るな」
冬真は少しだけ目を細めた。
「何回言う」
「必要なだけ」
綾人は容赦なく返した。
次の瞬間、札が切られる。
白い線が、流し路の溝に沿って一気に走った。
同時に、核の前の空気が歪む。
ざり、ざり、と土の奥で何かが擦れる音。
白い核がふっと膨らみ、冬真の肩が大きく揺れた。
「っ……」
喉元へ手が行く。
千歳はすぐに声を出す。
「冬真」
「……」
「今どこ」
「……床下」
返答はある。
だが薄い。
「祓殿」
「……」
「昼じゃない、夜」
「……」
「わたしは」
そこで止まる。
やはり名前は遠い。
でも、ここで焦ればだめだ。
「秋月千歳」
千歳は自分で言う。
「しつこい」
「……」
「面倒」
「……」
「知ってる」
冬真の眉が、ほんの少しだけ寄る。
届いてはいる。
だが、そのとき。
白い核の奥で、線がはっきり見えた気がした。
一本ではない。
何本もある。
冬真の中へ入り、その奥で細く束になり、そこから千歳の方へ滲むみたいに伸びている。
名前。
声。
記憶。
そして、そのさらに奥にある意味。
「見えるか」
綾人が低く問う。
冬真の唇が動く。
「……来てる」
「何が」
「線が」
一拍置いて、
「向こうじゃなくて、こっちへ」
その言い方で千歳は理解する。
怪異が冬真を引くだけではない。
冬真の中の“千歳へ向かうもの”そのものを掴みに来ている。
「今だ」
綾人が核の前の札を叩きつける。
白い光が、流し路の溝を逆走するように走った。
空気が悲鳴みたいに軋む。
「冬真!」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
返事がない。
視線が核の奥へ落ちる。
「冬真!」
もう一度。
「見て、こっち!」
数秒の沈黙。
そのあと、ひどく掠れた声。
「……お前」
「うん」
「切れ」
千歳は一瞬、言葉を失う。
「何」
「線」
冬真の声は薄い。
「切れ」
「だめ」
反射で返していた。
「切れば」
冬真は続ける。
「お前は、向こうに触られない」
綾人が低く舌打ちする。
「やはりそっちを選ぶか」
「当然だろ」
冬真の声は掠れているのに、そこだけ妙に強かった。
「ここで残したら」
「……」
「次はお前まで持っていかれる」
千歳の胸が強く締まる。
やっぱりだ。
この人は最後の最後で、自分の方を落とす選択を取る。
「だめ」
千歳はもう一度言う。
「何で」
冬真が問う。
「それが一番ましだ」
「ましじゃない」
千歳の声が震える。
「何で」
「そうやって決めるの」
「千歳」
「また一人で決めるの」
一歩、核に近づきかけて、ぎりぎりで止まる。
近づきすぎるな。
でも言葉だけは止めない。
「自分を切ればいいって」
「……」
「そういうの、もうやめてって言った」
冬真の目が少しだけ揺れる。
「でも」
「でもじゃない」
千歳は言い切った。
「それで戻ってきた先が、もう今までのあんたじゃないなら」
一拍置いて、
「それは戻ったって言わない」
床下の空気が張る。
綾人も、今は口を挟まない。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「何」
「お前」
一拍置いて、
「そこまで残したいのか」
その問いが、刃みたいに胸へ入る。
千歳は息を吸う。
怖い。
でも、ここで曖昧にしたくなかった。
「残したい」
はっきり言う。
「名前も」
「……」
「声も」
「……」
「意味も」
「……」
「全部」
冬真の目が大きく揺れる。
たぶん、それを正面から言われると思っていなかったのだろう。
「だから」
千歳は続ける。
「自分の方切るの、だめ」
「……」
「わたしが嫌」
その言葉は、たぶん今までで一番わがままだった。
でも、今はそれでよかった。
綺麗な正しさより、どうしても失いたくないという本音の方が、ここでは強いはずだと思えたからだ。
◆
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
「何」
「選べ」
その一言で、空気がさらに冷える。
「何を」
「今ここで」
一拍置いて、
「表層だけで押し返し続けるか」
「……」
「意味の核ごと保持して、強引に切断を通すか」
千歳の喉が乾く。
前者なら安全寄りだ。
だが、冬真の方がさらに削れる可能性がある。
後者なら、二人の核そのものを使って切ることになる。
危ない。
けれど、冬真を“冬真のまま”繋げる可能性は高い。
「……」
言葉が出ない。
「時間がない」
綾人の声。
白い核が脈を打つ。
冬真の呼吸が乱れる。
流し路の奥で、ざり、と何かが這う音。
「千歳」
冬真が、ひどく薄い声で言う。
「切れ」
「だめ」
「……」
「わたしが決める」
その瞬間、自分でも驚くほどはっきり言っていた。
二人の視線が向く。
「意味の核、残す」
一拍置いて、
「そのまま切る」
綾人の目が細くなる。
「危ないぞ」
「知ってる」
「怪異に触られる」
「知ってる」
「お前自身も引かれる」
「知ってる」
千歳は息を整える。
「でも」
一歩も引かずに言う。
「それでも、そこを最初から切るのは違う」
「……」
「だって、それ残さないと」
一拍置いて、
「冬真が戻る理由そのものが痩せる」
冬真が目を見開く。
その表情が、今はっきりと人間らしく揺れた。
「……お前」
掠れた声。
「何」
「ほんとに」
一拍置いて、
「面倒だな」
その一言に、千歳の胸の奥が熱くなる。
「知ってる」
返す。
「だから戻って」
冬真の口元が、ほんの少しだけ動く。
笑ったわけではない。
でも、いつものこの人の気配が戻る。
「綾人さん!」
千歳が叫ぶ。
「行く!」
綾人は一瞬だけ目を閉じ、それから札を三枚同時に切った。
白い線が、核、流し路、冬真の左右を一気に繋ぐ。
床下全体が軋む。
白い核の輪郭が崩れ、流し路の溝を逆流するように冷気が走った。
「冬真!」
千歳は叫ぶ。
「今どこ!」
返事がない。
でも今は、待たない。
「祓殿の床下!」
「……」
「夜!」
「……」
「わたしは秋月千歳!」
「……」
「しつこい!」
「……」
「面倒!」
「……」
「知ってる!」
そこへ、冬真の眉がはっきり寄る。
「……知ってる」
返ってきた。
薄い。けれど届いた。
「もっと!」
綾人が叫ぶ。
「意味を切らすな!」
千歳は息を吸う。
怖い。
でも、ここで止まれない。
「冬真」
低く、はっきり言う。
「わたし」
一拍置いて、
「戻ってほしい」
「……」
「幼馴染だからとか、そういうの、もうそれだけじゃない」
冬真の視線が揺れる。
「だから」
千歳は続ける。
「そこごと戻って」
「……」
「自分切って終わりとか、絶対だめ」
その言葉の直後、冬真の目が、はっきりこちらへ合った。
「……千歳」
掠れた声。
「うん」
「お前」
一拍置いて、
「ずるい」
「知ってる」
返した瞬間、綾人が最後の札を核へ叩きつけた。
白い光。
土の奥で何かが大きく軋む。
ざり、ではない。
もっと深く、長く続いていたものが、ようやく裂ける音。
白い核の輪郭が、ひび割れるみたいに崩れた。
流し路の溝を満たしていた冷えが、一瞬だけ逆流し、それから急激に引いていく。
床下の空気が軽くなる。
けれど同時に、冬真の身体が大きく揺れた。
「冬真!」
千歳が手を伸ばしかける。
だが綾人が低く言う。
「触るな! まだ切れる!」
千歳はぎりぎりで止まる。
喉が痛い。
でも、声だけは出す。
「今どこ!」
冬真の呼吸は乱れていた。
返事が来ない。
数秒。
長い。
もう一度呼ぼうとした瞬間。
「……床下」
掠れた声。
千歳は息を呑む。
「祓殿の床下」
「……」
「夜」
「……」
「わたしは」
冬真の唇が少し動く。
「秋月、千歳」
「うん」
「面倒」
「知ってる」
「……」
「知ってる」
そこまで返ってきた瞬間、綾人が低く言った。
「切れた」
その一言で、千歳の膝から力が抜けそうになる。
完全ではない。
でも、今までの噛み合いはたしかに壊れたのだ。
◆
床下から這い出したあとの冬の空気は、信じられないほど軽かった。
冷たい。
でも、今までのように足元から引く冷たさではない。
ただの冬の冷えだ。
祓殿の前で、冬真は戸口の柱へ寄りかかるように立っていた。
呼吸は浅い。
顔色も悪い。
それでも、目はちゃんとここにある。
「今どこ」
千歳が問う。
少し遅れて、冬真が答える。
「祓殿の前」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「……しつこい」
その一言に、千歳はようやく強く詰めていた息を吐いた。
「どうだ」
綾人が低く問う。
冬真は少しだけ目を伏せる。
「……軽い」
「どこが」
「奥」
一拍置いて、
「流れが、前みたいには繋がってない」
綾人は小さく頷く。
「一時切断は成立したな」
一時。
完全ではない。
でも、たしかに何かは変わった。
「代償は」
千歳が低く問う。
その問いに、冬真はすぐには答えなかった。
やがて、掠れた声。
「名前」
千歳の胸がひやりとする。
「何」
「少し、遠い」
一拍置いて、
「でも」
冬真は千歳を見る。
「意味は、残ってる」
その一言に、千歳の胸の奥が痛いほど熱くなる。
選んだ通りだ。
名前や反応は少し遠くなった。
でも、意味の核はまだ残った。
「……よかった」
気づけば言っていた。
今度は、ちゃんとその言葉を使えた。
冬真は少しだけ目を細める。
「何回目だ」
「知らない」
「だろうな」
その返しも、少しだけ遠い。
でも、ちゃんとここにある。
綾人は祓殿を振り返り、低く言った。
「これで終わりではない」
千歳は頷く。
わかっている。
一時切断だ。
完全決着ではない。
「だが」
綾人は続ける。
「流し路と核の噛み合いは崩した」
「……」
「次は」
一拍置いて、
「残ったものと、どう決着をつけるかだ」
その言葉は、次章への扉そのものだった。
千歳は冬真を見る。
冬真もこちらを見ている。
名前は少し遠い。
それでも、意味は残った。
そこまで来た。
もう、後戻りはできない。




