第4章 第10話:口を開けたままの冬
夜は、妙に澄みすぎていた。
仮殿の外には雪が残り、空気は冷たいのに、風はない。静けさが深い。板壁の向こうで何も動いていないように思えるのに、千歳にはその静けさ自体が、何かを待っているみたいに感じられた。
囲炉裏の火が小さく鳴る。
ぱち、と乾いた音。
その音だけが、今ここがまだ人の側の場所であることを教えてくれる。
千歳は火の向こうにいる冬真を見た。
顔色は今日も良くない。
でも目はまだこちらを見ている。
疲労は隠せていないのに、それでもここへ座っている。そのこと自体が、今の千歳にはひどく痛く、同時に救いでもあった。
「……千歳」
低い声。
顔を上げる。
「何」
「また考え込んでる」
「考えるよ」
千歳は小さく返す。
「今さら何も考えない方が無理」
冬真は少しだけ目を細めた。
「そういう顔してる」
「そっちも」
「俺は元からだ」
「よく言う」
その短いやり取りが、今はやけに大事だった。
さっきまで、まだ言っていないことの話をしていた。
千歳の名前だけが残るかもしれないこと。
その線が、戻す線であると同時に、怪異の側から触れられる鍵になるかもしれないこと。
冬真の中にある“千歳へ向いているもの”ごと、向こうに掴まれる可能性があること。
ここまで聞いてしまった以上、もう戻れない。
でもまだ、全部ではない。
この人はまだ、最後の最後まで吐き出していない何かを抱えている。
それがわかる顔をしていた。
綾人は戸口近くで札を見ていた。
囲炉裏の明かりが届ききらないその位置で、白い紙の端と指先だけが時々光る。
「綾人さん」
千歳が呼ぶ。
「何だ」
「明日」
一拍置く。
「祓殿の床下、もう一回入るんですよね」
綾人は振り返り、少しだけ目を細めた。
「ああ」
「封じ損ねた核」
「……」
「流し路」
「……」
「そこ、今のままじゃ閉じられないんですよね」
綾人は短く息を吐く。
「閉じられない」
はっきりした答えだった。
「口は見つかった」
「……」
「構造も見えた」
「……」
「だが、切れてはいない」
その言葉が、仮殿の空気へ重く落ちる。
千歳は膝の上で手を握る。
やっぱりそうだ。
ここまで来てもまだ、“見つけた”だけでは終わらない。
通り道の口は開いたままだ。
しかも、冬真の中の道と噛み合っている。
「だから」
綾人は続ける。
「次は、もっと大きく切る必要がある」
冬真が低く言う。
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
綾人は即答した。
「だが、もう避ける段階ではない」
その会話の意味が、千歳の胸へ静かに沈んでいく。
避ける段階ではない。
つまり第4章は、ここで終わる。
そして次は、本当に切りに行く段階へ入る。
◆
しばらくの沈黙のあと、千歳は静かに口を開いた。
「わたし」
二人の視線が向く。
「切らない」
一拍置く。
「戻す線」
冬真の目が少しだけ動く。
「……」
「怖い」
正直に言う。
「ほんとは、もう嫌なくらい怖い」
喉の奥が少しだけ震える。
「名前が残るのも」
「……」
「鍵になるかもしれないのも」
「……」
「そのまま怪異に触られるかもしれないのも」
息を整える。
「全部、嫌」
冬真は何も言わなかった。
綾人も口を挟まない。
だから千歳は、そのまま続けた。
「でも」
冬真を見る。
「だから切る、にはしない」
その言葉は、自分へ言い聞かせるものでもあった。
「切ったら、今度こそ戻れないって」
一拍置く。
「それは、もうわかったから」
冬真の喉がわずかに動く。
「……千歳」
低い声。
「何」
「それ、ちゃんと覚えとけ」
「覚えてる」
「ほんとに?」
「何回確認するの」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「お前に言われたくない」
「知ってる」
少しだけ空気がやわらぐ。
でも、重さは消えない。
「ただし」
千歳は続ける。
「切らない代わりに、放ってもおかない」
冬真が目を細める。
「何だそれ」
「そのまま」
千歳は言った。
「戻すだけじゃ終わらない」
「……」
「祓殿の床下も」
「……」
「通り道の口も」
「……」
「あなたの中の道も」
一拍置く。
「次、ちゃんと切る方へ行く」
その言葉を言い切った瞬間、千歳は自分の中で何かが静かに定まるのを感じた。
怖いままでも、進む方を選ぶしかないのだと。
◆
冬真はしばらく黙っていた。
いつもなら、ここで止める言葉を挟むか、危ないと言うか、少なくとも嫌な顔くらいはする。
でも今夜は違った。
嫌そうな顔はしている。
けれど、簡単には言葉にしない。
「……止めたい」
やがて、ひどく小さく言う。
千歳は目を瞬く。
こんなふうに正直に言うのは珍しかった。
「でも」
冬真は続ける。
「今は、止めきれない」
その言葉が、胸の奥へ重く落ちる。
止めたい。
けれど止めきれない。
それはつまり、この人自身ももう、この先へ行かなければ終わらないと理解しているということだ。
「……うん」
千歳は小さく頷く。
「知ってる」
「何でだよ」
「顔」
即答すると、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「便利だな」
「そっちも」
「嬉しくない」
「同じ」
そこへ綾人が、戸口の札から手を離して戻ってくる。
「ようやく、そこまで来たか」
低い声。
二人がそちらを見る。
「何が」
千歳が問う。
「“止めたいが止めきれない”と、“怖いが切らない”だ」
綾人は囲炉裏の向こうへ座った。
「どちらも必要だ」
「必要って」
千歳が眉を寄せる。
「そんな気持ちでいるの、最悪なんですけど」
「知っている」
綾人は淡々と答えた。
「だが、極端に振れた方が危ない」
「……」
「冬真が全部一人で抱える側へ戻るのもだめだ」
「……」
「お前が感情だけで切る側へ寄るのもだめだ」
千歳は視線を落とす。
わかっている。
でも、それを維持し続けるのがこんなに難しいとは思わなかった。
◆
そのとき、不意に冬真が少しだけ顔をしかめた。
「冬真?」
千歳がすぐに言う。
冬真はこめかみを押さえる。
「……いや」
「いや、じゃない」
「少し」
「何」
「……抜けた」
千歳の胸がひやりと冷える。
「何が」
「今」
冬真は低く言う。
「どこまで話してたか」
やっぱり、完全には消えていない。
ここまで静かでも、継ぎ目はまだ脆いままだ。
「じゃあ戻す」
千歳はすぐに言う。
「冬真」
冬真が少しだけ目を向ける。
「今どこ」
「……仮殿」
「うん」
「夜」
「うん」
「囲炉裏」
「うん」
「わたしは」
冬真の唇がわずかに動く。
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳は少しだけ呼吸を整える。
「今、何の話してた」
問うと、冬真は少し黙ってから答える。
「……線」
「うん」
「切るか、切らないか」
「うん」
「お前が」
一拍置いて、
「切らないって言った」
そこまで戻った。
千歳の胸が少しだけ緩む。
「そう」
「で」
冬真は少しだけ目を細めた。
「次、切る方へ行くって」
「そう」
「……面倒」
その一言に、千歳はほんの少しだけ笑った。
「知ってる」
綾人が静かに言う。
「今の継ぎ目だ」
「……」
「これ以上放置すれば、床下に入る前に崩れる」
千歳は頷く。
つまり、もう本当に時間がない。
「明日」
綾人が続ける。
「祓殿の床下へ入る」
「……」
「流し路の口をさらに開き」
「……」
「封じ損ねた核の固定を外し」
「……」
「通り道そのものへ干渉する」
言葉の一つ一つが重かった。
でも、もうそれを避けては通れない。
「危ない?」
千歳が聞く。
「今までで一番危ない」
綾人は即答した。
「……そっか」
「だが」
一拍置いて、
「ここでやらなければ、次はもっと悪い」
その理屈は、もう嫌というほど理解できる。
だから誰も反論しなかった。
◆
火が少し弱くなり、千歳は薪を一本だけ足した。
ぱち、と小さく音がして、囲炉裏の赤が少し戻る。
その赤を見ながら、千歳は静かに息を吐いた。
ここまで来た。
第4章のあいだに、
通り道の口を見つけた。
流し路の構造を知った。
人ひとり分の代替路があったことも知った。
封じ損ねた核がまだ残っていることも知った。
そして、戻す線がそのまま怪異の鍵になる危険も。
知ってしまったものばかりだ。
でも、知らないままでいられる段階は、もうとっくに終わっていた。
「……千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「何」
「次」
一拍置いて、
「祓殿の床下、入る時」
「うん」
「自分だけで何とかしようとするな」
その言葉に、千歳は少しだけ目を見開く。
いつもなら逆だ。
この人の方が、そういうことをする側なのに。
「それ」
千歳は言う。
「そっくり返すよ」
冬真の口元がわずかに動く。
「だろうな」
「あなたこそ」
「知ってる」
「じゃあ」
「善処」
「だめ」
即答すると、冬真は本当に小さく息を吐いた。
「即答だな」
「当然」
そこへ綾人が低く言う。
「二人とも、明日までそのやり取りを覚えておけ」
「何で」
千歳が問うと、綾人は答えた。
「日常の雑音だからだ」
その一言に、千歳は少しだけ黙る。
そうだ。
こういうどうでもいい応酬が、いざという時に人間の側へ戻す線になる。
綺麗な言葉より、むしろこちらの方が強いことを、もう何度も知っている。
囲炉裏の火は静かに燃えている。
外は冷たい。
でも、まだ今夜は鈴が鳴らない。
その静けさの中で、千歳は自分の中にある怖さと、逃げたくなさを一緒に抱えたまま、静かに前を見た。




