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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第4章 第9話:まだ言っていないこと


 仮殿の夜は、火の音だけがやけに近かった。


 囲炉裏の赤が小さく揺れるたび、板壁に落ちる影も細く動く。外は静かだ。鈴の音は今のところ鳴っていない。札も焼けていない。

 それなのに千歳は、こういう静かな夜ほど怖いのだと、もう何度も思い知っていた。


 さっきまでの会話が、まだ胸の中に残っている。


 一瞬、冬真は「何を守りたいのか」が曖昧になった。

 けれど、千歳の名前だけは先に出た。

 それで戻れた。


 救いなのに、苦しい。

 苦しいのに、切れない。

 そのねじれた感情を、千歳はまだうまく言葉にできずにいた。


「……千歳」


 低い声に顔を上げる。

 冬真が壁際からこちらを見ていた。

 疲れている顔だ。目の下の影も濃い。喉元の黒ずみも、薄くなったかと思えば火の影でまた濃く見える。

 それでも、視線はちゃんと合っていた。


「何」

「黙りすぎ」

「考えてる」

「そういう顔してる」

「便利だね」

「お前もな」

 その返しが、少しだけいつもに近い。

 けれど千歳は、今日はそのまま流せなかった。


「……ねえ」

 静かに呼ぶ。


「何だ」

「まだあるよね」

 冬真の表情が、ほんの少しだけ止まる。

「何が」

「言ってないこと」

 一拍置く。

「まだ、残ってるでしょ」


 囲炉裏の火が、ぱち、と鳴った。

 その小さな音のあと、仮殿の中に長い沈黙が落ちる。

 千歳はその沈黙を、逃がしたくなかった。


「通り道のことは聞いた」

 千歳は続ける。

「最後に削れるもののことも聞いた」

「……」

「名前と、自分の輪郭」

「……」

「でも、それで終わりじゃない顔してた」

 一語ずつ、押し出すように言う。

「ずっと」


 冬真は視線を逸らさなかった。

 でも、すぐにも答えなかった。

 その沈黙が、もう答えみたいなものだった。


「……千歳」

 やがて、低い声。

「今じゃない方がいい」

「何で」

「夜だから」

「それ、この前も聞いた」

 千歳は言う。

「でも結局、夜だからやめたこと、後で余計に重くなった」

 冬真は少しだけ眉を寄せる。

「今回はそうじゃない」

「じゃあ何」

「……」

「また隠す」

 そう言うと、冬真は本当に小さく息を吐いた。


「隠したいわけじゃない」

「じゃあ」

「言うと」

 一拍置く。

「お前の方が、そっちへ寄る」

 またそれだ。

 また、この人はそこへ戻る。


 でも今の千歳には、その言葉を前みたいにただ受け取ることはできなかった。


「それ」

 低く言う。

「もう何回も聞いた」

 冬真の目が少しだけ細くなる。

「……」

「知って全部抱えに行くんじゃないかって、そういうことでしょ」

「そうだ」

 今度は即答だった。

「お前、怒ると前に出る」

「……」

「知ると止まらない」

「……」

「今も、そういう顔してる」

 千歳は一瞬だけ言葉を失う。

 図星だった。

 認めたくないけれど、たしかにそうだ。

 怒っている。

 知った以上、切りたいと思っている。

 そのためなら自分も危ないところへ行くつもりでいる。


「でも」

 千歳は息を整える。

「だからって、最後まで半分だけでいるのは無理」

「……」

「今のままでも、もう十分危ない」

 冬真は何も言わなかった。

 その沈黙に、千歳はさらに踏み込む。


「綾人さん」

 今度は囲炉裏の向こうへ視線を向ける。


 綾人は戸口近くで札を見ていた。

 呼ばれて振り向く。

「何だ」

「ありますよね」

「何が」

「まだ、言ってないこと」

 一拍置いて、

「冬真が最後まで言いたがらないやつ」

 綾人もすぐには答えなかった。

 そのわずかな沈黙が、千歳の確信をさらに強くする。


「あるな」

 やがて、低い声。


 千歳の胸が強く鳴る。

 認めた。

 やっぱりある。

 まだ残っている真実が。


「何ですか」

 問うと、綾人は冬真を見た。

 その視線は、判断を委ねるものだった。

 言うか。

 まだ止めるか。

 その線を、冬真に返している。


 冬真は長く黙っていた。

 囲炉裏の火だけが、小さく、規則的に鳴る。

 千歳はその沈黙が嫌いだった。

 この人はいつも、その沈黙の中で自分だけの判断をし、自分だけの痛みを選んできたからだ。


「……何」

 千歳はもう一度言う。

「言って」

 冬真が目を上げる。

 その目の奥に、疲れと、ためらいと、でももう隠しきれないものが混ざっていた。


「最後に」

 掠れた声。

「名前が残るかもしれないって、言っただろ」

「うん」

「でも」

 一拍置いて、

「それが“残る”とは限らない」

 千歳は眉を寄せる。

「どういうこと」

 冬真は少しだけ目を伏せた。

「お前の名前を、俺の中で残すんじゃなくて」

「……」

「向こうが、それを鍵みたいに使う可能性がある」

 千歳の背中に冷たいものが走る。


「鍵」

 小さく繰り返す。


「俺の中に、お前への線が一番強く残るなら」

 冬真は続ける。

「そこを辿れば、お前まで触れる」

 一瞬、意味がうまく入ってこなかった。

 でも、次の瞬間、理解してしまう。


 名前だけ残る。

 それは冬真を戻す線でもある。

 けれど同時に、その線が太すぎれば、怪異の側からも辿れる。


「……そんなの」

 声が掠れる。

「そんなの、聞いてない」

「だから言いたくなかった」

 冬真が答える。

「お前、そこ知ったら」

 一拍置いて、

「自分から線を切ろうとするだろ」

 その言葉に、千歳は息を止める。


 切る。

 たしかに、一瞬そう考えた。

 自分の名前が鍵になるなら、呼ばない方がいいのではないか。

 繋がらない方がいいのではないか。

 その発想が、ほんの一瞬で脳裏を掠めた。


「……ほら」

 冬真が低く言う。

「今、そう考えただろ」

 千歳は何も言えなかった。

 図星だった。


「だめだ」

 冬真の声は低いが、はっきりしていた。

「お前が線を切ったら、今度こそ戻れなくなる」

「でも」

「でもじゃない」

 初めて、少しだけ強い声。

「それだけは絶対にだめだ」


 仮殿の空気が静かに張る。

 千歳は自分の手が冷たくなっていくのを感じた。

 怖い。

 自分の名前が、救いであり、同時に鍵にもなるなんて。

 そんなの、あまりにもひどい。


     ◆


「綾人さん」

 千歳が低く呼ぶ。

「それ、本当ですか」

 綾人は頷いた。

「あくまで可能性だ」

「でも」

「十分にあり得る」

 やはり、そうだ。

 曖昧に濁してくれないところが、この人らしい。

 そして今は、その正直さがひどく痛い。


「……じゃあ」

 千歳は喉を鳴らす。

「わたし、戻す線なのに」

 一拍置いて、

「そのままだと触られる線でもあるってこと?」

「そうだ」

 綾人は答える。

「だから第4章で、お前がただ“戻す役”に固定されるのは危ない」

 千歳は目を伏せる。

 昨日、綾人が言っていたことが繋がる。

 戻す線であり続けろ。

 でも、それだけになるな。

 その意味が、ようやく本当の形でわかってしまった。


「……何で」

 小さく言う。

「こんなふうになるの」

 冬真は何も言わない。

 綾人も、すぐには何も言わない。

 たぶん、それは誰にもわからない問いだからだ。

 あるいは、わかりすぎていて簡単には言葉にできない問いだからかもしれない。


 囲炉裏の火がまた鳴る。

 その音だけが、今ここがまだ仮殿なのだと教えてくる。


「もう一つある」

 不意に、綾人が言った。

 千歳が顔を上げる。


「何」

「冬真がまだ口にしていないのは、線の話だけじゃない」

 冬真の表情が、はっきり固まる。

 千歳はその横顔を見て、息を詰める。

 やっぱりまだある。

 しかも今度は、冬真が今の話以上に触れたくない顔をしている。


「綾人」

 低い声。

 止めたいのがわかる。

 でも綾人は引かなかった。


「ここまで来て、そこだけ残す方が危ない」

 静かな断定。


「何ですか」

 千歳は問う。

 自分の声が少し震えているのがわかる。

「今、言ってください」


 綾人は冬真を見る。

 冬真は長く黙ったあと、ひどく低い声で言った。


「……俺が言う」

 千歳の胸が強く鳴る。

 綾人は小さく頷き、それ以上は口を挟まなかった。


 冬真は囲炉裏の火を見たまま、少しずつ言葉を探すように口を開く。


「通り道が深くなると」

「……」

「向こうへ引かれるだけじゃなくて」

「……」

「こっち側のものを、向こうへ渡す形になることがある」

 千歳は眉を寄せる。

「こっち側のもの」

「記憶とか」

 一拍置いて、

「感覚とか」

「……」

「名前とか」

 そこまでは、聞いてきたことの延長に思えた。

 だが冬真は、さらに低く続ける。


「それだけじゃなくて」

 仮殿の空気が、妙に静かになる。


「お前に関するものまで、向こうへ渡る可能性がある」

 千歳は一瞬、言葉の意味を理解できなかった。


「……何それ」

 やっと出た声は、ほとんど掠れていた。


「お前の名前」

 冬真が言う。

「お前の声」

「……」

「お前のことを、俺がどう思ってるか」

 一拍置いて、

「そういう“お前へ向いてるもの”ごと、向こうに掴まれるかもしれない」


 千歳の胸が、ぎゅっと強く締まる。

 ただ鍵として辿られるだけではない。

 冬真の中にある“千歳への感情や記憶”そのものまで、怪異の側へ触れられる可能性があるということだ。


「だから」

 冬真の声は低く、掠れていた。

「最後まで言いたくなかった」

 千歳は何も言えなかった。

 苦しい。

 怖い。

 でも同時に、わかってしまう。

 この人がそれを言いたくなかった理由が。

 自分の方が、きっとこの線を切ることを考えるからだ。


「……切らないで」

 冬真がひどく小さく言う。


 千歳は目を見開く。

 その言葉は、あまりにも弱くて、あまりにも本音だった。


「え」

「お前」

 冬真は視線を上げた。

「今、切る方考えたろ」

 また図星だった。

 千歳は息を止める。

 たしかに考えた。

 こんなに危ないなら、自分の名前も声も、この人の中に残らない方がいいのではないかと。


「だめだ」

 冬真がもう一度言う。

「そこ切ったら」

 一拍置いて、

「今度は、本当に戻る理由がなくなる」


 その言葉に、千歳の喉が痛くなる。

 戻る理由。

 この人にとって、自分はそこまでの位置にある。

 それが救いであり、ひどく残酷でもある。


「……ずるい」

 小さく零れる。


「何が」

 冬真が問う。

「そういうの」

 千歳は視線を落とした。

「そんな言い方されたら」

 一拍置いて、

「切れないじゃん」

 冬真は何も言わなかった。

 その沈黙は、たぶん肯定だった。


     ◆


 それからしばらく、誰も口を開かなかった。


 囲炉裏の火だけがある。

 札もまだ静かだ。

 でも、今夜の仮殿の空気は、今までで一番重かった。


「……千歳」

 やがて綾人が低く呼ぶ。


「何」

「ここまで聞いた以上、もう選び方を間違えるな」

「……」

「戻す線を切るな」

「うん」

「だが、お前一人で背負うな」

「……うん」

「そこを履き違えた瞬間、向こうの思う形に落ちる」

 千歳はゆっくり頷いた。

 わかる。

 怖いままでも、そこだけは間違えられない。


「冬真」

 今度は千歳が呼ぶ。


 冬真が顔を上げる。

「何だ」

「まだ、全部じゃないよね」

 冬真の目が、ほんの少しだけ止まる。

 そこが答えだった。

 まだ残っている。

 最後の最後まで言っていないものが。


「……ああ」

 掠れた声。


 千歳は息を吸う。

 怖い。

 でも、ここまで来たらもう止まれない。

 止まる方が、もっと怖い。


「わかった」

 静かに言う。

「でも、次は逃がさない」

 冬真は少しだけ目を細める。

「物騒だな」

「本気」

 千歳が返すと、冬真の口元がわずかに動いた。

「知ってる」


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