第4章 第8話:見えてしまった向こう側
その夜、仮殿の中は妙に静かだった。
囲炉裏の火は小さく燃えている。
札も今のところは焼けていない。
外では風がないのに、ときどき雪が屋根の端から落ちる音だけがする。その静けさが、千歳にはかえって落ち着かなかった。
祓殿の床下で見た白い塊。
封じ損ねた核。
あれがまだあの下に残っているのだと思うと、何も起きていない時間の方が、むしろ不気味に思えてしまう。
冬真は囲炉裏から少し離れた壁際に座っていた。
昼に祓殿から戻ってから、ほとんど余計なことを言わない。問いかければ返ってくる。だが、その返答と返答のあいだが、いつもより少し長い。
その長さに、千歳はずっと気を張っていた。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
冬真が少しだけ顔を上げる。
「何だ」
「今どこ」
冬真はわずかに眉を寄せた。
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまで返ってきて、千歳はようやく小さく息を吐く。
「何回目だ」
冬真が低く言う。
「数えてない」
「だろうな」
「大事だから」
「知ってる」
その返しがちゃんと返るだけで、まだ安心してしまう自分がいる。
でも、その安心が長く続かないことも、もう知っている。
綾人は戸口の近くで札の焼け具合を見ていた。
「今夜は来る」
低く言う。
「何でわかるんですか」
千歳が問うと、綾人は外を見たまま答える。
「昼に核を起こした」
「……」
「向こうもこちらを見た」
一拍置いて、
「静かなまま終わると思うな」
その言葉は、嫌になるほど正しかった。
◆
夜半を過ぎた頃だった。
最初に変わったのは、囲炉裏の火だった。
風はない。
なのに、炎が一度だけ細くなる。
次いで、戸口の札の端が白く光った。
からん。
鈴の音。
今までと同じはずなのに、千歳はその一音でわかった。
違う。
今夜の呼びは、最初から深さが違う。
「来た」
綾人が短く言う。
冬真の肩がわずかに強張る。
喉元の黒ずみが、火の明かりの中でじわりと濃く見えた。
「位置」
綾人の声。
千歳はすぐにいつもの位置へ立つ。
冬真の真正面ではなく、少しずらした場所。
囲炉裏の熱を背に感じる位置。
もう何度かやってきた配置だ。
でも今夜は、その慣れが逆に怖かった。
慣れてきたということは、それだけ必要な夜が増えているということだからだ。
からん。
からん。
鈴がもう二度鳴る。
仮殿の外ではない。
もっと近い。
板壁をすり抜けるみたいに、音だけが中へ入ってくる。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
「今どこ」
冬真は少し遅れて答えた。
「……仮殿」
「そう」
「夜」
「うん」
「囲炉裏」
「うん」
そこまではいい。
でも、冬真の目はまだ少し遠い。
板壁の向こうではなく、別のどこかを見ている目だった。
「何が見える」
綾人が低く問う。
冬真の喉が上下する。
「……白い」
千歳の胸が冷える。
「核?」
「たぶん」
一拍置いて、
「でも、あれだけじゃない」
「何」
返事はすぐには返らなかった。
からん。
鈴がもう一度鳴る。
今度は高く、細い音だった。
「冬真」
千歳は声を強める。
「こっち見て」
冬真の視線がわずかに揺れる。
けれど完全には戻らない。
「何が見えるの」
もう一度問うと、冬真はひどく小さく言った。
「……向こう」
その一言に、千歳の背筋がぞくりとする。
「向こうって何」
冬真は目を細めた。
「床下の、先」
「……」
「白いのの奥」
呼吸が少し浅い。
「もっと、向こう」
それはつまり、封じ損ねた核のさらに奥を見ているということだった。
綾人の表情が険しくなる。
「見せられてるな」
低い声。
「何を」
千歳が問う。
綾人はすぐには答えない。
代わりに冬真へ向けて言う。
「目を切れ」
「……無理」
掠れた声。
「今、引いてる」
千歳の心臓が強く鳴る。
これはただの呼びじゃない。
見せることで、もっと深く噛み合わせようとしている。
「冬真」
千歳は一歩だけ近づく。
「今どこ」
「……仮殿」
「そう」
「お前」
そこで少し言葉が止まる。
千歳の胸がきゅっと締まる。
「何」
「……泣きそう」
その返答に、千歳は息を呑む。
まだ見えている。
自分の顔が、まだこの人には見えている。
「泣いてない」
すぐに返す。
「今は」
一拍置いて、
「だから戻って」
冬真の目が少しだけこちらへ寄る。
だが次の瞬間、その焦点がまた遠くへ滑る。
「っ……」
冬真が喉元を押さえる。
呼吸が乱れる。
「何が見える」
綾人が低く問う。
今度の冬真の返答は、明らかに遅かった。
「……雪」
千歳の胸がひやりと冷える。
「雪?」
「白い」
「……」
「でも、村じゃない」
一拍置いて、
「もっと、何もない」
それは景色だった。
向こう側の断片。
冬真は今、核の先にある“何か”を見てしまっている。
◆
「冬真!」
千歳が強く呼ぶ。
冬真の肩が跳ねる。
でも、まだ足りない。
「こっち見て」
「……」
「今、見てるのは向こうじゃない」
「……」
「仮殿」
「……」
「囲炉裏」
「……」
「わたしは秋月千歳」
そこで、冬真の目が少しだけ揺れる。
「千歳」
掠れた声。
「うん」
「……白い」
「知ってる」
千歳は即座に言う。
「でも、そこへ行かないで」
「……」
「今、戻って」
綾人が札を二枚切る。
白い光が冬真の左右へ走る。
けれど、今夜の呼びはそれだけでは押し切れない。
光が細く震え、すぐには落ち着かない。
「深い」
綾人が言う。
「千歳、続けろ」
千歳は呼吸を整える。
怖い。
でも今はそれを言っている場合ではない。
「冬真」
「……」
「今日、昼に床下入った」
「……」
「嫌なもの見た」
「……」
「わたし、すごく怒ってる」
冬真の眉が、ほんの少しだけ寄る。
そこだ、と千歳は思った。
怒り。
今の二人を繋いでいる、どうしようもなく生々しい日常。
「怒ってる」
千歳は続ける。
「村にも」
「……」
「社にも」
「……」
「綾人さんにも」
「おい」
綾人が横で低く言うが、千歳は止まらない。
「あと、あなたにも」
冬真の喉がわずかに動く。
「……知ってる」
返ってきた。
千歳は息を吐く間もなく重ねる。
「そう」
「……」
「だから、後でちゃんと怒る」
冬真の目が少しだけこちらへ戻る。
「今は、戻ってから」
「……」
「怒るの、まだ残ってる」
そこで、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。
「……脅し」
ひどく小さな声。
「本気」
千歳は言い切る。
「だから戻る」
一拍置いて、
「戻らないと、怒れない」
その言葉の直後、冬真の視線がはっきりとこちらへ合った。
「冬真」
千歳が畳みかける。
「今どこ」
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
「うん」
「怒ってる」
冬真が小さく言う。
「うん」
「しつこい」
「知ってる」
「……面倒」
「知ってる」
そのやり取りの瞬間、冬真の目に入っていた遠い白さが、ふっと薄くなるのが千歳にもわかった。
完全には消えない。
でも、今この瞬間だけは切れた。
綾人がすぐに札を戸口へ叩きつける。
「閉じろ」
白い線が仮殿の内側を一周する。
鈴が一度、高く鳴り、次の瞬間には遠のいた。
静寂。
「っ、ぁ……」
冬真の肩から力が抜ける。
膝が少し揺れ、壁へ手をついた。
「冬真!」
千歳は思わず一歩踏み込む。
綾人は止めなかった。
流れはもう切れたのだろう。
「大丈夫?」
問うと、冬真は少しだけ目を細めた。
「大丈夫では、ない」
「それ最近好きだね」
「好きで言ってない」
「知ってる」
返しながら、千歳は胸の奥でまだ心臓が鳴っているのを感じる。
戻せた。
でも、今までで一番危なかった。
◆
冬真は囲炉裏の近くへ移され、しばらく何も言わなかった。
綾人が喉元の黒ずみを見て、札を追加で二枚切る。
千歳はその間、少し離れた位置でじっと冬真を見ていた。
顔色は悪い。
でも、ここにいる。
目が、ちゃんとここを見ている。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
少し遅れて視線が上がる。
「何だ」
「今どこ」
冬真はほんの少しだけ呆れたように息を吐いた。
「仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「怒ってる」
「うん」
「しつこい」
「うん」
そこで、冬真の口元がかすかに動く。
「……そこまで言えば十分だろ」
その返しに、千歳はようやく少しだけ肩の力を抜いた。
「何が見えてた」
綾人が低く問う。
冬真は少し黙ってから答える。
「白い場所」
「……」
「雪みたいで、でも村じゃない」
「……」
「向こう側の断片だ」
綾人はそう言って目を細めた。
「核の先を見せて、引き込みを深くする気か」
「たぶんな」
冬真は掠れた声で言う。
「他は」
綾人が問う。
冬真はほんの少しだけ目を伏せた。
「一瞬」
「何だ」
「何を守りたいのか、わからなくなった」
千歳の胸が強く締まる。
それは、第4章でずっと恐れてきたことのひとつだった。
記憶が抜けることだけではない。
自分の輪郭が曖昧になっていくこと。
守りたいものすら、一瞬わからなくなること。
「……でも」
冬真は続ける。
「お前の名前だけは、先に出た」
千歳は息を止める。
「だから」
冬真は少しだけ目を上げた。
「戻れた」
その一言が、嬉しいより先に苦しかった。
やっぱりそこだけが残る。
それが救いであると同時に、壊れ方でもある。
「……嫌」
気づけば、千歳は小さくそう言っていた。
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「何が」
「それ」
一拍置いて、
「わたしの名前だけ残るの」
喉の奥が熱い。
「助かるのに、嫌」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙が、全部をわかっている顔だった。
綾人が低く言う。
「だが、現時点ではそこが戻し線だ」
「……」
「感情で拒むなとは言わん」
「……」
「だが、切るな」
千歳は膝の上で指を握りしめる。
嫌だ。
でも、切れない。
切ったら本当に失う気がするからだ。
「……うん」
やっと、それだけ返した。




