第4章 第7話:封じ損ねたもの
その日は、昼を待たずにもう一度祓殿へ入った。
昨日見つけた封具の先。
そこに何があるのか、三人とももう見ないふりはできなかった。
仮殿で準備を整えているあいだも、千歳の胸の奥にはずっと重いものが沈んでいた。怖い。正直、今すぐやめたい気持ちもある。
でも、やめた先にあるのが“何も起きなかった昨日”ではないことも、もう知っている。
「確認する」
綾人が言った。
「今日は見るだけでは終わらん」
その一言が、静かに重い。
冬真はいつもより言葉少なだった。
顔色は良くない。
だが、止めろとも言わない。
もう止めても無駄だとわかっているのか、それとも、ここで止まれないのは自分も同じなのか、千歳には判断がつかなかった。
「冬真」
祓殿へ向かう途中で呼ぶ。
「何だ」
「今どこ」
少し間があってから、
「祓殿に向かう途中」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまでは返ってくる。
でも、そのあと冬真は少しだけ目を伏せた。
「……重い?」
千歳が問うと、冬真は小さく息を吐いた。
「少し」
「少しじゃない顔してる」
「そういう顔なら、お前もだろ」
返されて、千歳は言葉を失う。
たしかにそうだ。
今の自分が強い顔をしているなんて、到底思えない。
「二人とも」
前を歩いていた綾人が振り返らずに言う。
「今は感情を使いすぎるな」
「便利な言い方」
千歳が小さく返すと、綾人は平然と言った。
「事実だ」
◆
祓殿の床下へ降りると、冷気は昨日よりさらに深く感じられた。
土の匂い。
古い灰の匂い。
閉じた木の匂い。
そしてその奥に、乾ききらない何かの気配。
手燭の灯りを頼りに、三人は昨日止まった封具の残骸の前まで進む。
崩れかけた木枠。
朽ちた札。
湿気を吸った縄。
それだけ見れば、ただの古い祭具だ。
でも、その前に立つとわかる。
ここは“失敗した場所”だ。
「ここから先」
綾人が低く言う。
「封じ損ねたものがある」
千歳は息を呑む。
言葉では予想していた。
でも、はっきりそう言われると違う。
ただ流し路があるだけではなく、封じきれなかった核そのものが、まだこの先に残っているのだ。
「冬真」
綾人が続ける。
「どう見える」
冬真は木枠の向こうを見つめたまま、しばらく答えなかった。
やがて、低く掠れた声。
「……奥が、暗くない」
「暗くない?」
千歳が思わず繰り返す。
「灯りが届かないのに」
冬真は言う。
「向こうだけ、白い」
それは最悪の答えだった。
光ではない。
人の目を引くための、別の白さだとわかる。
「千歳」
綾人が短く呼ぶ。
「うん」
「視線を固定するな」
「わかってる」
答えながらも、千歳は自分の喉が乾いていくのを感じていた。
見たい。
でも見たらまずい。
その綱引きが、もうこの場所に入った瞬間から始まっている。
綾人は封具の残骸の前へ札を二枚打ち、低く言葉を落とす。
白い紙が淡く光り、木枠の周囲に細い線が走った。
「一時的に起こす」
「……起こす?」
千歳が問うと、綾人は頷く。
「死んだままでは形が見えん」
「でも」
「わかっている」
綾人は短く返した。
「危ない」
その危ないことを、今からやるのだ。
◆
綾人が封具へ触れた瞬間、床下の空気がはっきり変わった。
冷えが一段深くなる。
耳の奥で、ざり、と乾いた音。
次の瞬間、崩れた木枠の向こうの白さが、じわりと輪郭を持ち始めた。
「っ……」
千歳は反射で息を止める。
見えたのは、何かの塊だった。
物の形ではない。
煙に近いのに、煙より粘る。
白い灰を水で練ったような、曖昧で、それでいてやけに重い色。
その中心に、砕けた祭具の破片がいくつも埋まっている。
椀の欠片、札の焦げ、縄の切れ端。
長く何度も封じようとして、全部失敗した痕跡みたいだった。
「これが」
千歳の声が掠れる。
「……残ってたもの」
「核に近い残骸だ」
綾人が言う。
「完全な本体ではない」
「でも」
「十分に悪い」
短く切られて、千歳は言葉を失う。
冬真が一歩だけ前へ出た。
その動きに、千歳の心臓が跳ねる。
「冬真」
呼ぶ。
返事はない。
冬真は白い塊を見たまま、ひどく静かな顔をしていた。
「何が見える」
綾人が低く問う。
「……重なってる」
冬真の声は低い。
「何と」
「俺の中の道と」
千歳の背筋に冷たいものが走る。
「違う」
思わず言う。
「今見てるのは床下」
冬真の肩がわずかに揺れる。
「……」
「祓殿の床下」
「……」
「わたしは」
「千歳」
今度は返ってきた。
でも、その返りは少し遅い。
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまでは大丈夫。
なのに、千歳の胸はまったく軽くならなかった。
今の冬真は、こっちを見ながら、同時に向こうも見ている。
その感じが痛いほどわかるからだ。
「封具が壊れたあと」
綾人が静かに言う。
「これは残った」
「残ったから、供物でごまかした」
冬真が言った。
その声が妙に乾いていて、千歳はぎくりとする。
「冬真」
呼ぶ。
「何だ」
返事は返る。
だが視線はまだ白い塊から切れていない。
「こっち見て」
そう言うと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「難しいこと言うな」
「今はそれやって」
一歩だけ近づく。
「わたしの方」
数秒の沈黙。
それから、冬真の視線がようやくこちらへ動く。
それだけで、千歳は胸の奥に薄く走っていた冷たさが少しだけゆるむ。
◆
綾人は白い塊の前へさらに灯りを寄せた。
すると、その中に埋もれていたものがもう少し見えた。
砕けた祭具だけじゃない。
木片に墨で何かを書いた跡。
細い髪。
古びた布の端。
どれも“個人”の痕に見えた。
「……人のもの」
千歳が小さく言う。
綾人はすぐには否定しなかった。
「流し路へ流されたものの残りだろう」
「残り」
「供物へ行ききらなかったもの」
「……」
「封具へ収まりきらなかったもの」
その説明に、千歳の胸がさらに重くなる。
ここはただの通り道じゃない。
流され、留められ、切り離されそこねたものの墓場みたいな場所だ。
「じゃあ」
千歳は喉を鳴らす。
「冬真が埋めてたのって」
一拍置く。
「こういうものと同じ役割だったってこと?」
綾人はゆっくり頷いた。
「ああ」
その一言で、床下の空気がさらに重くなった気がした。
「人ひとり分の代替路」
綾人が低く続ける。
「それは構造としてあった」
「……」
「だが完全には機能しなかった」
「だから」
「人の身で埋めた方が、短期的には保った」
千歳は思わず冬真を見る。
短期的には保った。
なんて冷たい言い方だろう。
でも、それが一番正確なのだともわかる。
「ふざけないで」
思わず出た声は、低かった。
二人が見る。
「短期的って何」
千歳は続ける。
「保ったって何」
喉の奥が熱い。
「その“保った”の中身が、冬真だったんでしょ」
綾人は何も言わない。
否定できないのだ。
その沈黙が、余計に千歳の怒りを煽る。
「千歳」
冬真が低く呼ぶ。
「やだ」
千歳は首を振る。
「今それで止まらない」
一拍置く。
「こういう言い方されると、まるで仕方なかったみたいに聞こえる」
綾人が静かに言う。
「仕方なかったとは言っていない」
「でも近い」
「近い」
綾人は認めた。
「当時は、他に手がなかった」
「……」
「だからといって、正しいとは言わん」
その答えは誠実だった。
でも、千歳の怒りはそれで消えない。
◆
そのとき、不意に白い塊の奥で、何かが微かに揺れた。
「っ」
冬真の肩が強張る。
視線がまたそちらへ引かれる。
「冬真」
千歳は即座に声を出した。
「今どこ」
返事がない。
まずい。
さっきより深い。
「冬真!」
今度は強く呼ぶ。
冬真の喉が小さく動く。
「……白い」
掠れた声。
「知ってる」
千歳はすぐに返す。
「でも今いるのは祓殿の床下」
「……」
「昼」
「……」
「わたしは秋月千歳」
冬真の目が少しだけ揺れる。
「……」
「怒ってる」
一拍置く。
「すごく怒ってる」
そこへ、冬真の眉がほんの少しだけ寄る。
「……知ってる」
返ってきた。
千歳は息を吐く間もなく続ける。
「今、戻って」
「……」
「ここで向こう見るな」
「……」
「あとでいくらでも怒るから」
その言葉に、冬真の口元がわずかに動く。
「……それ、脅し?」
「本気」
千歳は言い切る。
「戻ったあと、ちゃんと怒る」
そこで、冬真の視線がほんの少しだけこちらへ寄る。
「よし」
綾人が低く言う。
「そのまま押せ」
札が切られる。
白い光が塊の周囲へ走り、一瞬だけ、白さの輪郭が崩れた。
ざり、と土の擦れる音。
白い塊は消えない。
だが、こちらへ寄ってくる圧がわずかに緩む。
「今だ、離れろ」
綾人が断じた。
三人はその場からじりじりと後退する。
手燭の光を切らさないように、足元を確かめながら。
白い塊は追ってこなかった。
だが、見送るみたいにそこに在り続けた。
◆
床下から出たあと、冬真は祓殿の外でしばらく動けなかった。
戸口の柱へ手をつき、呼吸を整えている。
千歳はその横で、すぐには声をかけずに立っていた。
今はたぶん、何かを言うより、まだここにいることを確かめる方が先だと思ったからだ。
やがて、冬真が少しだけ顔を上げる。
「……何」
掠れた声。
「今どこ」
千歳が問う。
「祓殿の前」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「怒ってる」
「うん」
冬真の口元が本当にわずかだけ緩む。
「だろうな」
その返しに、千歳はようやく胸の奥の強張りを少しだけ緩めた。
綾人が祓殿を振り返りながら言う。
「封じ損ねた核は確定した」
「……」
「しかも、ただ残っているだけではない」
「冬真の道と噛み合う」
千歳が言うと、綾人は頷いた。
「ああ」
「じゃあ、あれを切らない限り」
「押し返し続けるしかない」
その答えが、あまりにも重い。
千歳は祓殿を見る。
静かな昼の建物。
でも、その下には、長年封じ損ねたものがまだ残っている。
供物制度は、それを誤魔化すためでもあった。
冬真の肩代わりは、その構造に人ひとりで噛み合ってしまった結果だった。
「……もう嫌」
小さく呟く。
「全部」
冬真が横で低く言う。
「知ってる」
「知ってるなら」
「だから来てる」
その言葉に、千歳は一瞬だけ口を閉じる。
そうだ。
嫌なのは同じだ。
それでもここへ来ている。
雪の白さが、目に痛いほど眩しかった。
冬はまだ続く。
でももう、見ないまま耐える段階には戻れなかった。




