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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第4章 第6話:戻す声、進む足


 祓殿へ向かう足取りは、昨日よりずっと重かった。


 雪は薄く残り、踏むたびに乾いた音を立てる。空は曇っていないのに、日差しは冷たい。冬の光は明るいくせに、何もやさしくないのだと、千歳は外套の襟を握りながら思った。

 今日も祓殿へ行く。

 しかも昨日より先へ。

 床下の道を、もっと奥まで見るために。


「立ち止まるな」

 綾人が言う。


「わかってる」

 千歳は返したが、自分の声が少し硬いことに気づく。

 怖い。

 ちゃんと怖い。

 でも、それでも足を止めたくはなかった。


 冬真はその少し前を歩いている。

 歩幅は小さい。

 肩も少し強張っている。

 昨日床下から戻ってから、顔色は完全には戻っていない。喉元の黒ずみも薄く残っている。

 それでも行くのだ。

 千歳が行くと言ったからではない。

 たぶん、この人ももう“見ないままでは切れない”ことを理解しているからだ。


「冬真」

 呼ぶ。


 半歩だけ速度が落ちる。

「何だ」

「今どこ」

 冬真は少しだけ息を吐く。

「祓殿に向かう途中」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は小さく頷く。


「うん」

「毎回やるのか」

「毎回やる」

「面倒だな」

「知ってる」

 返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。

 笑ったというほどではない。

 でも、まだこっち側にいるとわかるだけで、千歳には十分だった。


     ◆


 祓殿の中は、昨日よりさらに冷たく感じた。


 入口を開けた瞬間、千歳は胸の奥で小さく息を詰める。

 囲炉裏のない冷え。

 木の匂い。

 床下から滲む、湿った空気。

 そして、その奥に沈んでいる“人が長く見ないふりをしてきたもの”の気配。


 綾人は昨日仮封した床板の札を確認し、短く言う。

「開ける」

 千歳と冬真は黙って頷いた。


 床板が持ち上がる。

 冷気が這い上がる。

 その瞬間、冬真の肩がほんのわずかに揺れた。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。


 少し遅れて目が向く。

「何だ」

「今どこ」

「……祓殿」

「そう」

「床、開いた」

「うん」

 そこで千歳はそれ以上は重ねなかった。

 今はまだ、届いている。


 綾人が先に床下へ降りる。

 そのあとに冬真。

 千歳が続く。


 昨日と違い、今日は入口で止まらない。

 土の匂いが濃い。

 膝をつくたびに湿り気が伝わる。手燭の灯りが揺れ、梁の影が床下の壁に長く伸びる。

 流し路の溝は、昨日見た場所からさらに奥へ続いていた。


「ここから」

 綾人が低く言う。

「昨日の先だ」

 千歳は喉を鳴らす。

 灯りの先は狭い。

 だが、進めないほどではない。

 それがなおさら嫌だった。

 人が進めるように作られていることが、目で見なくてもわかってしまうからだ。


 冬真が前方の闇を見ながら低く言う。

「……横」

「うん」

 千歳が反射で返す。

「まだ横へ流れてる」

 一拍置く。

「でも、途中で沈む」

「沈む?」

 綾人が問う。


「溝の先」

 冬真の声は少し掠れていた。

「窪みがある」

 手燭をその方向へ向けると、たしかに土の溝の途中に、少し大きめの窪地のようなものがいくつか見えた。

 皿のような形ではない。

 もっと不規則で、人の手で何度も掘り直されたみたいな深さ。


「受けてるのか」

 綾人が呟く。

「流して、そこで一旦沈める」

 その言い方に、千歳の胸が冷たくなる。

 流し、留め、替えを得るまで保つ。

 紙束にあった言葉が、そのまま構造として目の前にある。


「……ひどい」

 思わず漏れる。


「まだ奥がある」

 冬真が言った。


 二人がそちらを見る。

 冬真の目は闇へ向いたまま、わずかに焦点が遠い。

 千歳の背筋がすぐに冷える。


「冬真」

 呼ぶ。

 返事がない。

「冬真」

 もう一度、今度は少しだけ強く。


 冬真の喉が動く。

「……聞こえる」

 掠れた声。

 千歳の心臓が跳ねる。

 こんなに早く来るとは思っていなかった。


「何が」

 問うと、冬真は少しだけ目を細めた。

「水じゃない」

 昨日までとは違う。

「じゃあ何」

「……擦れる音」

 一拍置いて、

「引きずるみたいな」

 それだけで十分に気味が悪かった。


 綾人が低く言う。

「来たな」

「浅い?」

 千歳が問う。


「まだ浅い」

 綾人は答えた。

「だが、この場で入ると深くなる」

 つまりここからが本番だ。


     ◆


「千歳」

 綾人が短く呼ぶ。

「はい」

「戻しながら進む」

 その一言で、胸が強く鳴る。

 わかっていた。

 でも言葉にされると違う。

 止まって戻すだけではない。

 進みながら、引き留める。


「できる?」

 綾人が問う。


 千歳は怖かった。

 正直、今すぐ外へ戻りたい気持ちもある。

 でも、ここで首を振ったら、第3章の最後から積み上げてきたものが全部嘘になる気がした。


「やる」

 はっきり言う。


 冬真が低く言う。

「無茶するな」

「してるのはそっち」

「知ってる」

「じゃあ黙って戻されて」

 思わず強い言い方になる。

 冬真が少しだけ言葉に詰まる。

 でも今は、言いすぎたとは思わなかった。


「いい」

 綾人が低く言う。

「そのまま行け」

 綾人は手燭を少し前へ出し、自分が先に進む。

 冬真が続く。

 千歳はその少し後ろ、真正面に入りすぎない位置を保ちながら進む。


 溝の幅は途中で少しだけ広がる。

 ここで何かを受けていたのだろうか。土の色がまだらだ。灰のような白さが点々と残り、古い木札の破片が湿った壁へ貼りつくように埋まっている。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。

「今どこ」

「……祓殿の床下」

「そう」

「夜じゃない」

 冬真が少し遅れて続ける。

「昼」

「うん」

「お前」

 一拍置いて、

「怒ってる」

 その返答に、千歳は少しだけ息を呑む。

 そこが見えているなら、まだこちらへ繋がっている。


「怒ってる」

 千歳ははっきり言った。

「すごく」

「……」

「でも、今は怒るより戻す方が先」

 冬真の目が少しだけ動く。

「何それ」

「本音」

「変な優先順位」

「そっちが今まで勝手すぎたから」

 そこまで言うと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。

「……容赦ない」

「知ってる」

 会話はまだ届く。

 よかった、と思いながら、千歳はさらに言葉を重ねる。


「今日、ここ来る前に」

「……」

「仮殿でお湯飲んだ」

「……」

「綾人さん、時間がないって顔してた」

 冬真の眉が、かすかに寄る。

「いつもだろ」

「そう」

 千歳は頷く。

「いつもだよ」

 そういうどうでもいい現実の方が、今は必要だった。


 そのとき、床下のさらに奥から、ざり、と土を擦る音がした。


 三人の空気が一瞬で変わる。


「止まれ」

 綾人が低く言う。


 灯りを前へ向ける。

 溝の先、少し広くなった空間の端に、崩れかけた木組みが見えた。

 細い柱のようなもの。

 だが柱ではない。

 枠だ。

 何かを留めるための。


「……封具」

 綾人が言う。

「残ってる」

 その瞬間、冬真の呼吸が浅くなる。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。

 返事がない。

 今度ははっきり危ない。


「冬真」

「……」

「今どこ」

「……」

「何見てる」

 数秒の沈黙。

 そのあと、低く、掠れた声。


「向こう」

 その一言に、千歳の心臓が強く跳ねる。


「違う」

 即座に言う。

「今見てるのは床下」

「……」

「祓殿の床下」

「……」

「わたしは」

 冬真の目が少しだけ揺れる。

「千歳」

「フルネーム」

「秋月……」

 そこで一瞬、引っかかる。

 昨日までならもっと早かった。

 千歳の胸がきゅっと痛む。


「秋月千歳」

 自分で言い直す。

「面倒で、しつこくて、今あなたに怒ってるやつ」

 冬真の眉が少しだけ寄る。

「……しつこい」

 返ってきた。

 千歳は息を吐く間もなく続ける。


「そう」

「……」

「戻って」

「……」

「今、戻って」

 そこで冬真の視線が、ようやくほんの少しこちらへ寄る。


「押せ」

 綾人が札を切る。

 白い光が、崩れかけた封具の枠へ走る。

 次の瞬間、床下の奥でざり、と何かが引く音がした。


 完全には消えない。

 でも、一歩だけ退いた。

 そんな感じだった。


     ◆


 それ以上は進まなかった。


 綾人がすぐに撤退を決めたからだ。

「戻る」

「でも」

 千歳が言いかける。

 綾人は振り返らないまま言う。

「今のは浅い呼びだった」

「……」

「ここでさらに奥へ進めば、冬真を観測点にして深く噛み合う」

 つまり、もう一段先へ行くには準備が足りない。

 それが嫌でもわかった。


 床下から出ると、外気が肺へ刺さるようだった。

 冬の冷たさなのに、床下よりずっと人間の側にある。

 千歳は祓殿の前で一度だけ深く息を吸い、そして冬真を見た。


 冬真は戸口の柱へ手をつき、少しだけ俯いている。

 顔色は悪い。

 だが、目はもうこちらを見ていた。


「今どこ」

 千歳が聞く。


 冬真は少しだけ目を細める。

「……祓殿の前」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「しつこい」

 その一言に、千歳はようやく少しだけ肩の力を抜いた。


「大丈夫?」

 問うと、冬真は小さく息を吐いた。

「大丈夫ではない」

「それ最近よく言うね」

「前より正直だからな」

「嫌な成長」

「知ってる」

 その返しに、千歳は少しだけ笑ってしまう。

 でも、すぐに真顔へ戻る。

 笑って終われる話ではないからだ。


「見つけたな」

 綾人が言う。

 二人がそちらを見る。


「何を」

 千歳が問う。


「流し路の先の封具」

 綾人は答える。

「完全に壊れてはいないが、機能もしていない」

「……」

「だから残滓と呼びが溜まる」

 一拍置いて、

「そして冬真の中の道と、あそこが響き合う」

 千歳は祓殿を振り返る。

 静かな建物だ。

 でも、その下ではもう、構造そのものが傷んでいる。


「まだ奥がある」

 冬真が低く言う。

「封具の先」

「そうだろうな」

 綾人は頷く。

「だが今日はそこまでだ」

「……」

「今の段階で十分危ない」

 その言葉に、千歳は反論しなかった。

 今ならわかる。

 戻す役と進む役を両方やるというのは、ただ勇気を出せば済む話ではない。

 足を出すたび、どこまでが見ていい領域で、どこからが噛み合ってしまう領域なのかを見極めなければならない。


 それがたまらなく難しい。

 でも、もうその難しさごと引き受けるしかないところへ来ていた。


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