第4章 第5話:怒りの向き先
怒りは、ひと晩寝たくらいでは薄れなかった。
朝の仮殿は静かだった。
囲炉裏の火は小さく、板戸の隙間から差し込む光も白く冷たい。外では雪が少しだけ緩み、屋根の端から雫が落ちている音がする。
そんな穏やかな音を聞きながら、千歳の胸の中だけがずっと熱かった。
祓殿の床下。
流し路。
人ひとり分の代替路。
あの構造を思い出すたび、怒りがじわじわと浮き上がってくる。
村に対して。
社に対して。
そして、それを知りながら一人で埋め続けてきた冬真に対して。
「……千歳」
低い声に顔を上げる。
冬真が壁際に背を預けたまま、こちらを見ていた。
顔色は昨日と大きくは変わらない。少し悪いまま、なんとか保っている顔。
それが余計に腹立たしい。
どうしてそんな顔のまま平気そうにしていられるのか。
「何」
少し硬い声で返すと、冬真はわずかに眉を寄せた。
「怒ってるな」
「怒ってるよ」
即答した。
冬真は小さく息を吐く。
「だろうな」
「だろうね、で済ませないで」
千歳は囲炉裏の前に座ったまま、でも視線は逸らさない。
「昨日の話、まだ全然終わってないから」
冬真は黙る。
その沈黙がまた腹立たしい。
逃げたいのか、受け止める気があるのか、どっちなのかはっきりしないからだ。
板戸が開く音。
綾人が戻ってくる。
千歳はその顔を見た瞬間、自分の中の怒りが別の方向へも向くのを感じた。
「綾人さん」
呼ぶ。
綾人は足を止めた。
「何だ」
「昨日の続き、します」
静かな声で言ったつもりだった。
でも、自分でも少しだけ喉が熱いのがわかる。
綾人はすぐには答えなかった。
戸を閉め、仮殿の中へ入ってくる。
「続き、とは」
「怒る話」
千歳は言った。
「たぶん、今しないと無理」
綾人は少しだけ目を細めた。
止めない。
その時点で、もう受けるつもりなのだとわかった。
◆
「誰も止めなかったのかって、昨日も言った」
千歳は囲炉裏の向こう、二人を順に見ながら言う。
「でも、まだ足りない」
一拍置く。
「止めようとした、じゃなくて」
「……」
「どうして、止めきれないまま続けたのか、ちゃんと聞きたい」
綾人は囲炉裏の向こうへ座る。
冬真は相変わらず壁際だ。
でも今はもう、逃げ場の配置ではなくなっていた。
「先代も」
千歳が言う。
「綾人さんも、構造があることは知ってた」
「全部ではない」
綾人が低く言う。
「だが、異常な流し路があることは知っていた」
「冬真が近いことも」
「……知っていた」
千歳の胸の奥が、また熱を持つ。
「じゃあ」
今度は冬真を見る。
「あなたは、どこまで知ってたの」
冬真は少しだけ目を伏せた。
「最初から全部じゃない」
「でも」
「途中から、自分がどこ埋めてるかはわかってた」
その返答が、あまりにもあっさりしていて、千歳は一瞬息を失う。
「何それ」
やっと出た声は掠れていた。
「それ、わかった上で続けてたってこと?」
「そうなる」
「そうなる、じゃない」
思わず声が強くなる。
「何でそんなふうに言えるの」
冬真は視線を上げた。
その目は静かだった。
でも静かだからこそ、余計に苦しい。
「やめたら、お前に戻る」
またそれだ。
また、そこへ戻る。
「それ以外に言い方ない」
冬真は低く続ける。
「実際そうだったから」
千歳は唇を噛む。
正しいのかもしれない。
でも、正しいから許せる話でもない。
「じゃあ村は?」
今度は綾人へ向く。
「供物で足りなかったら、別に流す構造を残して」
「……」
「それで誰かが埋め始めたら、結果的にそのまま使い続けるしかないってこと?」
綾人は少しだけ目を伏せた。
「そういう形になっていた」
「なっていた、じゃなくて」
千歳の声は低い。
「なってしまったなら、壊すべきだったんじゃないの」
綾人はすぐには答えなかった。
囲炉裏の火が、ぱち、と小さく鳴る。
「壊せる確証がなかった」
やがて、低い声。
「そして壊し損ねれば、お前に戻る」
「……」
「少なくとも、あの頃の私たちには、完全に切る手がなかった」
千歳は何も言えない。
そこにも結局、自分がいる。
千歳へ戻る。
その言葉が、全部の判断を鈍らせていたのだ。
でも、それでも。
「だからって」
千歳は言う。
「だからって、誰か一人が埋め続けていい理由にはならない」
「ならない」
綾人ははっきり言った。
その即答に、千歳は少しだけ言葉を止める。
否定しない。
言い訳に逃げない。
「ならないが」
綾人は続けた。
「現実には、そうなった」
「……」
「それを私は止めきれなかった」
その言葉は、綺麗な懺悔ではなかった。
もっと乾いていて、もっと取り返しのつかなさだけが残る言い方だった。
「……最悪」
千歳が呟く。
「そうだ」
綾人が言う。
「全部、最悪だ」
同じ言葉。
でも昨日よりずっと重く感じた。
◆
しばらくの沈黙のあと、千歳は冬真を見た。
「あなたにも怒ってる」
はっきり言う。
冬真は目を逸らさなかった。
「知ってる」
「何でそんな平気な顔するの」
「平気じゃない」
「そう見える」
「……」
「見えるようにしてるなら、なおさら腹立つ」
そこまで言うと、冬真はほんの少しだけ困ったように眉を寄せた。
「どういう顔ならいいんだ」
低い声。
「怒られてる顔」
「怒られてる」
「もっと悪いと思ってる顔」
「思ってる」
「見えない」
「お前」
冬真は小さく息を吐いた。
「朝から容赦ないな」
「今さらだよ」
千歳は返す。
「今さら優しくしても意味ない」
その一言に、冬真は言葉を失ったみたいに黙る。
「だって」
千歳は続けた。
「優しくしたら、また“それでいい”って顔するでしょ」
「……」
「よくない」
一拍置く。
「あなたが人ひとり分の代替路になってたの、全然よくない」
冬真はしばらく何も言わなかった。
やがて、掠れた声で言う。
「それでも、お前が無事ならよかった」
千歳は一瞬、本当に呼吸を止めた。
またそれだ。
またこの人は、怒りを真正面から受けるより先に、そういうことを言う。
「……ほんとに」
声が少しだけ震える。
「そういうとこ」
冬真が少しだけ目を細める。
「何だ」
「最悪」
千歳は言った。
「今それ言うの、ずるい」
喉の奥が熱い。
怒っているのに、苦しさの方が前へ出てしまう。
「怒ってるのに」
一拍置く。
「そういうこと言われると、責めきれない」
冬真は何も言わなかった。
でも、その目がほんの少しだけ揺れる。
たぶんそれは、この人にとっても本音だからだ。
「……知ってる」
やがて、ひどく小さく返ってくる。
「知ってるじゃない」
千歳は視線を落とす。
「わたし、そんなふうに大事にされたいんじゃなかった」
昨日も似たことを言った。
でも今はもっとはっきりしていた。
「普通がよかった」
「……」
「普通に幼馴染で」
「……」
「普通に喧嘩して、普通に助けて、普通に腹立てて」
呼吸が少しずつ浅くなる。
「そういうのがよかった」
冬真は黙っていた。
その沈黙が、もう戻れないことを逆に強くしてしまう。
◆
「千歳」
綾人が低く呼ぶ。
顔を上げる。
「何」
「怒るのは正しい」
その言葉に、少しだけ目を瞬く。
「でも」
綾人は続けた。
「怒りだけで前へ出るな」
「……」
「今のお前は、怒りを進む理由にし始めている」
千歳は反射で否定しかける。
でも、できなかった。
たぶんその通りだからだ。
「だって」
やっと言う。
「怒らないと、全部飲み込んで終わりになりそうで」
「そうだな」
綾人は頷く。
「だから怒りは要る」
「……」
「だが、それをお前自身の代替行為に変えるな」
その言葉に、千歳ははっとする。
「代替」
「冬真がやってきた構造を、今度はお前が感情で埋めるな」
綾人の声は冷静だった。
「怒って、知って、進むのはいい」
「……」
「だが“今度は私が埋める”に変わった瞬間、同じ構造の繰り返しだ」
千歳は息を止める。
その危険は、自分でも薄く感じていた。
怒りが強いぶん、“自分がやる”へ寄りすぎてしまうことを。
「……わかってる」
小さく言う。
「ほんとに?」
綾人が問う。
「全部は」
一拍置く。
「わかってない」
正直に答える。
「でも、気をつける」
「気をつけるでは足りん」
「じゃあ何」
「誰かと一緒にやれ」
綾人は言う。
「一人で決めるな」
その一言が、静かに胸へ落ちる。
そうか。
今までずっと冬真が一人で決めて、一人で埋めてきた。
だからこそ、次はそこを繰り返さないことが必要なのだ。
千歳はゆっくり頷いた。
「……うん」
「それでいい」
綾人は言った。
◆
夕方近く、少しだけ空気が落ち着いた頃、冬真が小さく口を開いた。
「千歳」
「何」
「まだ怒ってるか」
「怒ってる」
即答すると、冬真はほんの少しだけ目を細めた。
「そうか」
「でも」
千歳は続ける。
「怒ってるからって、見捨てるわけじゃない」
冬真の肩がわずかに揺れる。
「そういうの、先に言うなよ」
「何で」
「……」
「何」
「逃げ場なくなる」
その答えがあまりにも正直で、千歳は少しだけ言葉を失う。
そうか。
この人は今、責められることより、責められたまま切られないことの方がきついのだ。
「逃げ場なくていい」
千歳は静かに言った。
「今まで、一人で逃げて埋めてたんだから」
一拍置く。
「これからは、そういうのなし」
冬真は何も言わなかった。
でも、否定もしなかった。
囲炉裏の火が小さく鳴る。
怒りはまだ消えない。
たぶん、すぐには消えない。
でも千歳はもう、その怒りを抱えたまま進むしかないことを知っていた。




