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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第4章 第4話:人ひとり分の代替


 仮殿へ戻るまでの道で、千歳はほとんど口をきかなかった。


 雪は薄く踏み固められている。

 石畳の上に残った白が、昼の光を冷たく跳ね返していた。足元は確かにいつもの村の道なのに、さっきまで祓殿の床下にいた感覚がまだ体の内側へこびりついている。

 土の匂い。

 湿った冷たさ。

 横へ抜ける道。

 そして、人ひとり分の幅。


 その言葉だけが、頭の中で何度も反響していた。


 人ひとり分の代替路。


 それはもう、供物の話だけではなかった。

 誰かを、最初から通すつもりで作られた道。

 何かを完全に断てなかったから、その場しのぎで流し、留め、替えを得るまで保つための道。


 そんなものが、ずっと祓殿の下にあった。


「……千歳」


 低い声に顔を上げる。

 冬真が半歩前を歩きながら、少しだけ振り返っていた。


「何」

「黙りすぎ」

「考えてる」

「そういう顔してる」

「便利だね」

「お前もな」


 そのやり取りに、少しだけ空気が揺れる。

 でも、軽くはならない。


「今、どこ」

 千歳が聞くと、冬真は少しだけ眉を寄せた。

「帰り道」

「ちゃんと」

「仮殿へ戻る途中」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「……しつこい」

「知ってる」


 そこまで返ってきて、千歳はようやく息を吐いた。

 床下を出たあとから、冬真の返答にはわずかな重さが残っている。

 切れてはいない。

 でも、擦れたまま戻ってきた感じだ。

 それが、たまらなく嫌だった。


 仮殿へ着くと、綾人はすぐに戸口と外周の札を見直し始めた。

 普段より無駄がない。

 帰ってきたというより、持ち帰ったものをすぐに整理しなければいけない顔だった。


「中へ」

 短い声。

 千歳と冬真は黙って従う。


 仮殿の中へ入った瞬間、囲炉裏の残り火の匂いが少しだけ肺をほどいた。

 床下の冷たさとは違う。

 人がいる場所の匂いだ。


 千歳は囲炉裏の脇へ座り、外套の前を押さえたまましばらく動かなかった。

 冬真も壁際へ背を預けるように座る。

 だが、その座り方がいつもより少し深い。

 疲労が脚まで回っているのだろう。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。


「何だ」

「今どこ」

 冬真は小さく息を吐いた。

「……仮殿」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで答えてから、冬真はこめかみへ手をやる。

「大丈夫?」

 千歳が問うと、冬真は一瞬だけ黙った。

「大丈夫ではない」

 その返答があまりにも正直で、千歳はほんの少しだけ言葉を失う。

「でも」

 冬真は続ける。

「切れてはない」

 それが今の精一杯なのだとわかった。


     ◆


 綾人が囲炉裏の向こうへ座ったのは、それからしばらく経ってからだった。


 手には祓殿の床下で見つけた紙束のうち、読める部分を抜いた数枚がある。

 湿気を含んでいるのに、妙にしっかり残っていた。

 それが逆に嫌だった。

 長く使われた構造には、それだけ長く残る意思があるということだからだ。


「整理する」

 綾人が低く言う。


 千歳も冬真も黙ってそちらを見る。


「祓殿の床下は、ただの保管場所ではない」

「……」

「流し、留め、替えを得るまで保つ」

 綾人は紙の文字をそのままなぞるように言った。

「つまり、完全に断てないものを一時的に受ける場所だ」

 千歳は膝の上で手を握る。

「供物の前段階?」

「それだけでは足りん」

 綾人は首を振った。

「供物へ向かう前の留めもある」

「……」

「供物で足りない時の逃がし先もある」

 その言葉に、千歳の胸が強く冷える。

 やはりそうだ。

 見たくなかった答えが、もう言葉として並び始めている。


「人ひとり分の幅」

 千歳が小さく言う。


 綾人は頷いた。

「あれが一番重要だ」

「最初から、人を通すつもりだった」

「そうだ」

「供物以外にも」

「そうだ」

 短く、容赦がない返答だった。


 千歳はそこで、ようやくその意味を本当に飲み込み始める。

 供物の制度があった。

 でも、それだけでは足りない時代があった。

 あるいは、足りなくなることを前提にしていた。

 だから別に流す道を作った。

 人ひとり分の幅で。


「……最低」

 また同じ言葉が口をつく。

 でも、さっき祓殿の前で吐いた時より、ずっと重かった。


「そうだな」

 綾人は否定しなかった。


「じゃあ」

 千歳は顔を上げる。

「冬真は」

 喉が少し乾く。

「その構造に、たまたま噛み合ったってこと?」


 綾人は数秒、黙っていた。

 それから低く答える。


「半分はそうだ」

 千歳は息を止める。

「半分?」

「“近い者が流れを割る”という古い理屈に、幼い頃のお前たちの距離が噛み合った」

「……」

「そして冬真が、肩代わりを繰り返した」

「……」

「その結果、人の身で代替の流し路に近い状態が成立してしまった」


 仮殿の空気が静まり返る。


 成立してしまった。


 あまりにも冷たい言葉だった。

 けれど、今はその冷たさが必要でもあった。

 曖昧な優しさで濁していい話では、もうないからだ。


「……じゃあ」

 千歳は掠れた声で言う。

「供物が要らなくなったんじゃなくて」

 喉がきつく締まる。

「そのぶんを、冬真が埋めてたってこと?」


 綾人は正面から頷いた。

「ああ」


 その一言で、千歳の中の何かがはっきり音を立てた。


 今まで何度も想像してきた。

 肩代わりしていた。

 守っていた。

 少しずつ引いていた。

 でも、そこにはまだどこか“個人が無理をしていた”という枠があった。


 違う。


 もっと構造的で、もっとひどい。

 村が切り捨てきれなかったものを、結果として冬真ひとりが埋めていたのだ。


「……ふざけないで」

 気づけば、そう言っていた。


 冬真が少しだけ顔を上げる。

 綾人は黙って千歳を見る。


「助かったんじゃない」

 千歳は続ける。

「ずっと、そのぶんがこっちへ来てたんじゃん」

 喉が熱い。

「供物が止まったとか、契約が切れたとか」

 一拍置く。

「そういう話の前に、もっと前から、冬真が代わりに詰めてたってことでしょ」


 誰もすぐには答えない。

 沈黙が、そのまま答えだった。


「……誰も止めなかったの」

 千歳は低く言う。

「先代も」

「……」

「綾人さんも」

「……」

「村も」

 そこまで言ったところで、自分でも息が乱れているのがわかった。


「千歳」

 冬真が低く呼ぶ。


「だって」

 千歳はそちらを見る。

「これ、“守ってた”だけで済ませたら駄目でしょ」

 一歩だけ、囲炉裏の向こうへ出る。

「こんなの、構造ごとおかしい」

 冬真は目を逸らさなかった。

 だから余計に苦しかった。

 この人は、それをどこかでもう知っている顔をしている。


「……知ってる」

 冬真が掠れた声で言う。


「じゃあ何で」

「止めても、お前に戻る」

 冬真は即座に返した。

「それ以外に言いようがない」

 その答えが、あまりにもこの人らしくて、千歳は余計にきつくなる。


「そうじゃなくて」

 声が少しだけ震える。

「何で、そんな構造を一人で埋める方へ行ったの」

「一人で埋めたかったわけじゃない」

 冬真は低く言った。

「でも、そうなった」

「何でそうなるまで」

「やめたら、お前の方へ戻る」

 またそこへ戻る。

 そこだけは一度もぶれていない。


 千歳は歯を食いしばる。

 怒っている。

 でも、その怒りの向き先が一つではない。

 村へもある。

 社にもある。

 綾人にもある。

 そして何より、目の前のこの人にもある。


     ◆


「綾人さん」

 千歳が低く呼ぶ。


「何だ」

「本当に、止められなかったんですか」

 綾人は少しだけ目を伏せた。


「止めようとはした」

「……」

「先代も、私も」

「でも止まらなかった」

「ああ」

 綾人は答える。

「肩代わりそのものを止めれば、お前の方へ戻る可能性が高かった」

「……」

「そして、冬真自身も止まらなかった」

 その言い方に、千歳は冬真を見る。

 冬真は何も言わない。

 けれど、否定もしない。


「じゃあ、黙って見てたんですか」

 千歳の声は静かだった。

 静かだからこそ、余計に痛かった。


「黙っていたつもりはない」

 綾人が言う。

「封じ方を教えた」

「……」

「散らし方も」

「……」

「だが結果として」

 一拍置いて、

「人ひとり分の代替路を、冬真が埋める形を止めきれなかった」

 それは言い訳ではなく、敗北の確認みたいな声だった。


 千歳はそこで、余計にやりきれなくなる。

 止めきれなかった。

 でも、それでも続いてしまった。

 その積み重ねが、今の冬真の中の通り道なのだ。


「……最悪」

 小さく漏れる。


「そうだな」

 綾人が言う。

「全部、最悪だ」

 珍しく感情の混じる答えだった。

 それが余計に重い。


     ◆


 しばらく、誰も喋らなかった。


 囲炉裏の火がぱち、と鳴る。

 その音だけが、今ここが床下ではなく仮殿なのだと教えてくれる。


「……千歳」


 冬真が低く呼ぶ。

 顔を向ける。


「怒ってるか」

 その問いに、千歳は少しだけ目を瞬く。

 怒ってる。

 ものすごく。

 でも、それをどう言葉にするのが正しいのか、一瞬わからなくなる。


「怒ってる」

 やがて正直に言う。

「すごく」

 冬真は黙って聞いている。

「村にも」

 一拍置く。

「社にも」

「……」

「綾人さんにも」

「……」

「あと、あなたにも」

 そこまで言うと、冬真は少しだけ目を伏せた。


「でも」

 千歳は続ける。

「怒って終わりにはしたくない」

 その言葉は、喉の奥を擦るみたいに出てきた。

「だって今さら、怒ってるだけじゃ戻らないから」

 冬真の視線が、ほんの少しだけ揺れる。


「……そうだな」

 掠れた声。


「だから」

 千歳はゆっくり言う。

「わたし、もう止めるだけじゃなくて、ちゃんと壊す方まで行く」

 綾人が顔を上げる。

 冬真も、今度ははっきりこちらを見る。


「通り道の口」

 千歳は続けた。

「祓殿の床下」

「……」

「そこ、切る」

 一拍置く。

「あなたが埋めてきた構造ごと」


 仮殿の空気が静かに張る。

 それは綺麗な宣言ではない。

 怒りと、苦しさと、覚悟が全部混ざった言葉だった。


「危ないぞ」

 冬真が低く言う。


「知ってる」

「やめろって言ったら」

「やめない」

 即答すると、冬真は本当に少しだけ言葉に詰まった。


「……お前」

「何」

「最近、ほんとに容赦ないな」

「そっちが今まで勝手すぎたから」

 そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。

 笑ったわけではない。

 でも、その一瞬だけ、いつもの彼に近かった。


「……綾人さん」

 千歳が視線を向ける。

「人ひとり分の代替路があるなら」

「……」

「それ、どうやって切るんですか」

 綾人は手元の紙束へ視線を落とし、それから静かに言った。


「まだ全部は読めていない」

「……」

「だが、流し路があるなら、始点と終点がある」

「始点」

「祓殿の床下の口」

「終点」

 そこで綾人は、冬真を見た。

「おそらくは、冬真の中にできた通り道と噛み合っている場所だ」

 千歳の胸が重く沈む。

 わかっていた。

 でも、はっきり言われると違う。

 祓殿の床下を切ることは、同時に冬真の中に触れることでもあるのだ。


「簡単にはいかない」

 綾人が続ける。

「当然だ」

「……」

「だが、今はもうそこをやるしかない」

 冬真は小さく息を吐いた。

「結局それか」

「最初からそうだ」

 綾人が返す。

「ただ、お前が認めたくなかっただけだ」

 冬真は反論しなかった。


     ◆


 夕方になるころ、千歳は一人で囲炉裏の火を見ていた。


 怒っている。

 まだ全然収まっていない。

 村にも、構造にも、そして冬真にも。

 でもその怒りは、少し前みたいにただ胸を焼くだけのものではなくなっていた。


 方向ができた。

 祓殿の床下。

 流し路。

 人ひとり分の代替路。

 そこを切らなければならない。


「……普通じゃないな」

 小さく呟く。


 戻りたい普通ではない。

 でも、ここまで来た以上、もう普通を懐かしむだけでは進めない。


 囲炉裏の向こうで、冬真が低く呼ぶ。

「千歳」

「何」

「今どこ」

 思わず目を瞬く。

「え」

「さっきから黙りすぎ」

 掠れた声。

「考え込みすぎると、今度はお前が飛ぶ」

 その言い方が少しだけいつもに近くて、千歳は小さく息を吐いた。


「……仮殿」

 答える。

「囲炉裏の前」

「うん」

「あなたは」

「白瀬冬真」

 一拍置いて、

「面倒な幼馴染」

 千歳はそこで、ほんの少しだけ笑ってしまう。

「知ってる」

「だろうな」

 その返しを聞きながら、千歳は胸の奥で静かに決める。

 怒って終わらせない。

 知って終わらせない。

 次は、壊すために進む。


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