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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第4章 第3話:流し路


 翌朝、祓殿の前に立った瞬間、千歳は昨日よりはっきりとわかった。


 ここは、ただ冷たいだけの場所じゃない。


 雪は薄く残っている。

 空は曇りきってはいないのに、祓殿の屋根の下だけ、光が少し鈍い。空気の流れも妙だった。風がないのに、建物の周囲だけが静かに冷えている。

 閉じた場所の冷たさ。

 昨日拾った違和感が、今朝はもっと輪郭を持っていた。


「立ち止まるな」

 綾人が言う。

「うん」

 千歳は短く返して、外套の前を握り直した。


 今日は入る。

 床下の入口を開け、奥を見る。

 昨日はそこまでだった。

 でも今日は、その先へ進む。


 冬真は千歳の少し前を歩いていた。

 背中だけ見れば普段と変わらないようにも見える。けれど、歩幅はほんの少しだけ小さいし、肩のあたりもわずかに固い。

 無理をしているのが、今の千歳にはわかる。


「冬真」

 呼ぶと、半歩だけ動きが止まる。

「何だ」

「今どこ」

 冬真は振り返らずに答えた。

「祓殿の前」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで迷いなく返ってきて、千歳は小さく息を吐く。

 まだ大丈夫。

 そう自分に言い聞かせるみたいに。


「……毎回やるのか、それ」

 冬真が低く言う。

「毎回やる」

「面倒だな」

「知ってる」

 そのやり取りのあと、冬真がほんの少しだけ口元を動かした。

 それだけで、千歳の胸の奥の張りつめたものが少しだけ緩む。


     ◆


 祓殿の戸を開くと、内側の冷えは昨日と同じように肌へ刺さった。


 囲炉裏はない。

 火の名残もない。

 ただ、古い木の匂いと、長いあいだ動かされなかった祭具の乾いた気配が満ちている。

 その下に、別の冷たさが沈んでいる。

 床下から這い上がってくる湿った空気だ。


 綾人は昨日仮に打った札を確かめ、そのまま左奥の床板の継ぎ目へ膝をついた。

 冬真は入口の内側。

 千歳は少し離れた位置。

 昨日決めた配置のまま、三人が自然に散る。


「開ける」

 綾人が短く言う。


 昨日より手際は早かった。

 札を差し入れ、低く言葉を落とす。

 ぎし、と鈍い音を立てて床板が浮き、その下の暗がりが口を開く。


 冷気が上がる。


 千歳は息を浅くしながら、すぐには下を覗き込まなかった。

 見るな。

 まず空気を見ろ。

 昨日言われたことを思い出す。


 冷たい。

 湿っている。

 でも井戸の底の冷えとは違う。

 水の匂いではない。

 もっと土に近く、古い灰と木の匂いが混じっている。

 閉じられた通路の空気だ。


「千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「今は」

「……床下の冷たさ」

 千歳は答える。

「濡れてるんじゃなくて、こもってる」

「いい」

 綾人が頷く。

「それを切らすな」


 ようやく千歳は視線を下ろした。


 狭い。

 だが、ただの床下ではない。

 束石と梁のあいだに、明らかに人の手で土を掘り広げた跡がある。板で押さえ、崩れないように補強した線も見える。

 しかも、それは入口のすぐ先だけではなかった。

 手燭の光が届くぎりぎりの先まで、土の道が横へ続いている。


「……ほんとに道だ」

 千歳の口から、小さく漏れる。


 綾人が手燭を差し入れる。

 光が揺れ、湿った土と古い板、朽ちかけた木箱の輪郭が浮かび上がる。

 その奥。

 まっすぐではない。

 少し曲がりながら、横へ抜けていく空間。


「流し路」

 綾人が低く言った。


 千歳はその言葉を聞いて、胸の奥に鈍いものが落ちるのを感じた。

 やっぱりそうなのだ。

 偶然できた床下ではない。

 最初から何かを流すために作られていた。


「入る」

 綾人が言う。


 冬真が低く返す。

「先に行く」

「だめ」

 千歳が反射で言う。

 冬真が少しだけ眉を寄せた。

「何が」

「そうやって一番先に行くの」

「確認が必要だろ」

「だからって」

「千歳」

 綾人が短く制した。

「言い合うな。ここで熱を上げる方が危ない」

 千歳は息を呑み、口を閉じる。

 正しい。

 悔しいけれど、正しい。


「順番は私、冬真、千歳だ」

 綾人が言う。

「千歳は無理に前を見るな。冬真の輪郭を切らすな」

「……うん」

「冬真」

「何だ」

「先に馴染むな」

 冬真が小さく息を吐く。

「無茶言うな」

「今さらだ」

 綾人は即座に返した。


     ◆


 綾人が先に床下へ入った。


 梁は低く、すぐに膝と手を使う姿勢になる。

 冬真がそのあとへ続く。

 千歳は入口のところで一瞬だけ強く息を吸った。

 土の匂いが鼻へ入る。

 暗い。

 狭い。

 入ってはいけなかった場所。

 昨日の感覚は間違っていなかった。


 それでも、行く。


 床下へ身体を滑り込ませた瞬間、千歳は頭の奥で小さく何かが軋むのを感じた。

 呼びではない。

 でも、ここは人を歓迎しない場所だとわかる。


 手燭の灯りは弱い。

 その明かりの中で見えるものは、古い木箱、割れた椀、墨のにじんだ札束。

 どれも捨てられたというより、使い終わったのに片づけられなかったものみたいだった。

 その先へ、道はまだ続いている。


「止まれ」

 綾人の低い声。


 三人がそこで止まる。

 光の先、土の壁に沿うようにして、細い溝が掘られていた。

 ただの排水ではない。

 もっと丁寧で、もっと意図的だ。

 小皿ほどの窪みがいくつも並び、その都度、何かを置いたような痕が残っている。


「……何これ」

 千歳が小さく言う。


「受け皿だ」

 綾人が答える。

「流して、留めて、また流す」

 その説明に、千歳はぞっとする。

 つまりこれは、一度きりの儀式のための場所じゃない。

 何度も、何代も使ってきた場所だ。


「供物のため?」

 問いかけると、綾人は少しだけ沈黙した。

「供物だけじゃない」

「……」

「供物へ向かう前に留める」

「……」

「あるいは、別へずらす」

 その言葉が、千歳の胸に重く沈む。


 別へずらす。

 それがどれだけ嫌な響きか、もうわかる。

 人へ。

 封具へ。

 あるいは、もっと都合のいい場所へ。

 完全に断てないものを、誰かへ押しつけ直してきた構造。


「最低」

 思わず漏れる。


 綾人は否定しなかった。

「そうだな」


 そのとき、不意に冬真がぴたりと止まった。


「冬真?」

 千歳が呼ぶ。


 返事がない。

 冬真は溝の先、少し広くなった場所を見ていた。

 手燭の灯りが揺れ、その先に置かれたものがかすかに見える。


 古い木の枠。

 半ば朽ちた札。

 その奥に、白く乾いた縄のようなもの。


「何が見える」

 綾人が低く問う。


 冬真の喉が動く。

「……人ひとり分」

 千歳の背筋が冷える。

「何」

「幅」

 冬真は低く続ける。

「ここ、最初から人を通す前提で広げてる」

 綾人の表情が険しくなる。

「やはりそうか」

「やっぱりって」

 千歳が顔を上げる。


 綾人は手燭を少し持ち上げ、低く言った。

「供物だけでは処理しきれなかった時期があったんだろう」

「……」

「だから“人ひとり分”の代替路が必要だった」

 その意味を理解するまでに、数秒かかった。

 でも、理解した瞬間、息が詰まる。


「それって」

 千歳の声が掠れる。

「人が入る前提だったってこと?」

「そうだ」

 綾人ははっきり答えた。


 千歳は視線を道の先へ向ける。

 狭く、湿った土の通路。

 でも、たしかに人ひとりなら通れてしまう。

 通れてしまうように作ってある。


 その瞬間、これまでの全部が別の形で繋がった気がした。

 供物制度。

 先送り。

 肩代わり。

 冬真の中の通り道。


 偶然ではない。

 この場所そのものが、そういう構造を許してきたのだ。


     ◆


 さらに少し進んだところで、綾人が古い木箱を見つけた。


 蓋は半分朽ちている。

 だが内側はまだ乾いていて、几帳面に包まれた紙束が何枚か残っていた。

 綾人が慎重にそのうちの一枚を開く。

 文字はかなり薄れている。

 それでも、ところどころ読めた。


「何て」

 千歳が問う。


 綾人は目で追いながら、低く読み上げる。

「流し、留め、替えを得るまで保つ」

 千歳の胸が冷える。

 替え。

 その言葉の意味が、あまりにもはっきりしていた。


「……替えって」

 言いかけると、冬真が低く答えた。

「器」

 千歳はそちらを見る。

 冬真は紙ではなく、土の道の先を見たまま言った。

「供物じゃ足りない時、別に流す」

 一拍置いて、

「だから、代替」


 その言葉の響きは妙に乾いていた。

 まるで、自分のことをどこか遠いものとして言っているみたいで、千歳はひやりとする。


「冬真」

 すぐに呼ぶ。


 少し遅れて、冬真の視線が揺れる。

「何だ」

「今どこ」

「……祓殿の床下」

「わたしは」

「千歳」

「そう」

 千歳は小さく息を吐く。

 危なかった。

 完全に切れたわけじゃない。

 でも、ここは確実にこの人の中の道を撫でている。


「ここ、長くいるな」

 綾人が低く言う。

「必要なものだけ拾って戻る」

「流し路は確定」

 冬真が言う。

「しかも、人ひとり分」

「わかっている」

 綾人は答えた。

「十分だ」


 千歳はまだ道の先を見ていた。

 光の届かないその先に、さらに何があるのか。

 知りたい気持ちがないわけではない。

 でも今は、その先へ行きたいより先に、ここにこんなものが本当にあったのだという怒りの方が強かった。


「こんなの」

 小さく言う。

「村は知ってたのかな」

 綾人はすぐには答えなかった。

 やがて、静かに言う。

「今の者がどこまで知っていたかは別だ」

「でも」

「少なくとも、誰かは知っていた」

 その答えは、十分に重い。

 知らなかった、で済ませられる構造ではないのだ。


     ◆


 床下から出たとき、外の空気は驚くほど軽かった。


 冬の冷たさのはずなのに、まだ人間の側の空気だとわかる。

 千歳は祓殿の前でしばらく深く息を吸った。

 肺が痛い。

 でも、その痛みが逆に現実だった。


 冬真は戸口の脇に手をついたまま、少しだけ俯いている。

「大丈夫?」

 千歳が問うと、冬真は少しだけ顔を上げた。

「……大丈夫ではない」

 その返答があまりにも正直で、千歳は一瞬だけ言葉を失う。

「でも」

 冬真は小さく息を吐く。

「今は、まだこっちだ」

 その一言に、胸が少しだけ熱くなる。


「今どこ」

 千歳はすぐに聞いた。

「祓殿の前」

「わたしは」

「秋月千歳」

「うん」

「しつこい」

「知ってる」

 そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。


 綾人は手にした紙束を見下ろしながら、低く言った。

「流し路は確定した」

「……」

「そして、人ひとり分の代替路でもあった」

 千歳は唇を噛む。

 そこまで言われると、もうはっきりする。

 冬真の肩代わりは、異常な自己犠牲であると同時に、この場所が長く許してきた構造へぴたりと噛み合ってしまった結果でもあるのだ。


「帰るぞ」

 綾人が言う。

「今日はここまでだ」

「ここまで」

 千歳が小さく繰り返す。

 でも、もう“ここまで”の意味はわかっている。

 知るべきことは知った。

 いや、知ってしまった。


 祓殿を振り返る。

 昼の光の下で静かに立つ建物は、さっきまでと同じように見える。

 でも、もう違う。

 その下にあるものを知ってしまったから。


 入ってはいけなかった場所。

 でも、入らなければ見えなかった場所でもあった。


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