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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第4章 第2話:入ってはいけなかった場所


 祓殿へ向かう朝の空気は、皮膚を薄く裂くみたいに冷たかった。


 雪は昨夜のうちに少しだけ固まり、石畳の上で鈍く白く光っている。歩くたび、足裏に伝わる感触が硬い。

 千歳は外套の前を押さえながら、綾人と冬真の少し後ろを歩いていた。


 今日、祓殿の床下を開ける。


 そう決まった瞬間から、胸の奥はずっと落ち着かなかった。

 怖い。

 その一言で済ませたくないくらい、嫌な感じがする。

 でも、その嫌な感じがどこから来るのか、今の千歳には少しだけわかる。

 井戸に近い湿った冷たさ。

 それよりは閉じていて、もっと長く人に触れずにいたものの冷たさ。

 昨日、祓殿の前で拾った違和感と同じものが、近づくほど少しずつ濃くなる。


「千歳」

 前を歩いていた綾人が振り返らずに言う。

「何ですか」

「今、どう感じる」

 急に問われて、千歳は少しだけ目を閉じる。

 冷たい。

 怖い。

 でもそれだけではない。


「……湿ってる」

 小さく答える。

「井戸の下ほどは濡れてないけど」

 一拍置く。

「閉じた場所の冷たさがする」

 綾人は短く頷いた。

「昨日と変わらないな」

「濃くなってる気もする」

「それも正しい」


 冬真がその横で低く言った。

「床の下、だろうな」

 その声は落ち着いている。

 だが、顔色は朝から良くない。

 喉元の黒ずみも薄くはあるが消えていないし、石畳を踏む歩幅も、ほんの少しだけいつもより慎重だった。


「今、どこ」

 千歳が聞く。

 冬真が半歩だけ歩みを緩める。

「またか」

「また」

「……祓殿へ行く途中」

「わたしは」

「秋月千歳」

「綾人さんは」

「月代綾人」

 そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐く。

 昨日から続けている確認は、もう二人のあいだの決まりみたいになっていた。

 面倒だと言われる。

 でも、面倒な日常の積み重ねこそが戻す線になるのだと、今はもう知っている。


 祓殿が見えた。


 村の社の中でも、そこだけは妙に温度が違って見える。

 本殿のような威圧感ではない。もっと古くて、もっと忘れられた感じだ。

 雪の白の中で、屋根の影は静かに黒い。

 何も起きていない場所みたいに見えるのに、そこへ近づくほど、千歳の肩は無意識に強張っていく。


「立ち止まるな」

 綾人が低く言う。

「はい」

 返事をした自分の声が、少しだけ硬い。


     ◆


 祓殿の戸を開けると、内側の空気は外より冷たかった。


 囲炉裏もない。

 火の気がない。

 祓いに使うための静けさなのか、ただ人が寄りつかなくなった静けさなのか、今の千歳にはわからない。

 ただ、床板の下に何かが眠っている気配だけは、はっきりわかった。


 綾人は入ってすぐに祭具の配置を確かめ、中央を避けるように歩いた。

 冬真は入口の内側で一度足を止める。

 その一瞬の間に、千歳は気づく。


「冬真」

 呼ぶと、冬真は少し遅れてこちらを見る。

「何だ」

「どうしたの」

 冬真は床板を見下ろしたまま答えた。

「……近い」

「通り道?」

「ああ」

 一拍置く。

「昨日より、はっきりしてる」


 綾人が低く言う。

「なら、入口は正解だな」

 そう言って、祓殿の左奥、古い祭具棚の陰にある床板の継ぎ目へ膝をついた。


 千歳はそこを見て、息を止める。

 昨日は気づかなかった。

 だが今日は、そこだけ木目の色が違う。古い板の上へ、あとからもう一枚重ねたみたいな不自然さがある。

 綾人が札を一枚差し入れると、継ぎ目が淡く白く光った。


「封が生きてる」

 綾人が言う。

「完全には切れていない」

「開くんですか」

 千歳が問うと、綾人は頷く。

「そのために来た」

 短い返答。

 正しい。けれど、正しいからこそ怖い。


「千歳」

 綾人は床板から視線を外さずに言った。

「入口が開いたら、すぐ下を見るな」

「え」

「まず空気を見ろ」

「空気」

「冷たさ、匂い、音」

 綾人は続ける。

「向こうは人が視線を落とす瞬間を使うことがある」

 千歳の背筋が冷える。

 見るという行為そのものが、引き込みの糸口になるのだ。


「……わかりました」

「冬真、お前もだ」

 冬真が低く息を吐く。

「難しいこと言うな」

「今さらだ」

「知ってる」


 綾人は床板へ二枚目の札を差し込み、短く言葉を落とす。

「開け」


 ぎし、と鈍い音。

 重なっていた板が、ほんの少しだけ浮いた。


 その瞬間だった。


 下から、湿った冷気が一気に立ちのぼる。


「っ」

 千歳は思わず息を呑む。

 冷たい。

 でも井戸の底の湿りとは違う。

 土と木と、古い灰と、長く閉じた祭具の匂いが混ざっている。

 呼び声ではない。

 けれど、“ここから下へ行くな”ではなく、“ここから下に入ればもうこちら側には戻りにくい”と、空気そのものが知らせてくる感じだった。


「見るな」

 冬真の低い声。

 気づけば、彼の方が先に千歳の前へ半歩出ていた。


「それ禁止」

 千歳が反射で言う。

「何が」

「そうやって前に出るの」

 冬真が少しだけ眉を寄せる。

「今さらだろ」

「今さらだから」

 一歩だけ近づきかけて、でも綾人の言葉を思い出して止まる。

 真正面に入りすぎるな。

 一直線に噛み合うな。


「……二人とも、そこで止まれ」

 綾人が低く言った。


 床板は人ひとり分ほど開いた。

 だがすぐ下に穴があるわけではない。

 暗い。

 かなり低い位置に土が見える。古い束石と木の梁、そのあいだに狭い空間が続いている。

 床下。

 でも、本当にただの床下ではないと、入る前からわかった。


 からん。


 どこかで鈴が鳴った。


 千歳の肩が跳ねる。

 外ではない。

 床下の奥からだ。


「……ひどい」

 思わず零れる。

 昼間なのに。

 明るいのに。

 それでもあの音は、ちゃんとこちらへ届く。


「今のは浅い」

 綾人が言う。

「ただの反応だ」

「ただの、って」

 千歳は言いかける。

 でもその途中で、冬真の顔色がさらに悪くなったのがわかった。


「冬真」

 呼ぶ。

 冬真は少しだけ遅れて答えた。

「何だ」

「今どこ」

「……祓殿」

「うん」

「床、開いた」

「うん」

「お前」

 一拍置いて、

「怖がってる」

 その返答に、千歳の胸がきゅっと縮む。

 見えている。

 まだ、ちゃんとこちらを見ている。


「怖いよ」

 正直に言う。

「でも帰らない」

 冬真の目が少しだけ細くなる。

「知ってる」

「そっちも」

「何だ」

「今、顔色悪い」

「それも知ってる」

 その返しがあまりにも自然で、千歳は少しだけ息を吐いた。

 まだ会話は届く。

 まだ大丈夫だ。


     ◆


 綾人が手燭を用意し、床下の入口へ灯を差し入れる。


 橙の火が、湿った空間を浅く照らした。

 見えるのは、土、束石、古い木箱、そして向こうへ細く続く闇。

 普通の床下なら、そこで終わる。

 だがここは違った。


「……道」

 千歳が小さく言う。


 綾人が頷く。

「ああ」

 床下の奥は、途中からやや広がっている。人が這って進める程度だが、明らかにただの建築の隙間ではない。

 土が掘り広げられ、板で補強された跡がある。

 しかも新しくはない。

 何十年も前、あるいはもっと昔から、意図的に作られてきたものだ。


「入ってはいけなかった場所、って感じ」

 千歳が呟くと、綾人は手燭を持ったまま言う。

「正しい感覚だ」

「昔から?」

「おそらくな」

「……」

「だから残っている」


 冬真が低く言う。

「横だ」

 二人がそちらを見る。

 冬真は床下の暗がりをじっと見ていた。


「何が」

 綾人が問う。


「下じゃなくて」

 冬真は掠れた声で続ける。

「奥へ、横に抜けてる」

 千歳の胸がざわつく。

 昨日見た断片と同じだ。


「もっと向こう」

 冬真は言う。

「流れてる」

 綾人の目が細くなる。

「流し路か」

「たぶん」

 それはまだ仮説だ。

 でも、仮説であることより、冬真が“わかってしまう”ことの方が今は怖かった。


「今日は入口まで」

 綾人が低く言う。

「無理に奥へ進まない」

「え」

 千歳が思わず声を上げる。

 ここまで来て、入らないのか。


「千歳」

 綾人が視線を向ける。

「今のお前、怖さを押し込んで前へ行く顔をしている」

 言い当てられて、言葉が止まる。

「それは悪いことじゃない」

 綾人は続ける。

「だが、今日の目的は“開くこと”と“位置を確定すること”だ」

「……」

「床下の空気に慣れずに奥へ入れば、見る前に飲まれる」

 正しい。

 悔しいほど正しい。

 それでも千歳は、開いた暗がりの奥を見たいと思ってしまう。

 知りたいからだ。

 怖いより先に、知りたいが来てしまう。


「だから嫌なんだよ」

 不意に、冬真が低く言った。


 千歳が顔を向ける。

「何が」

「そういう顔で前へ行くの」

 一拍置いて、

「自分じゃ気づいてないだろ」

 胸の奥が少しだけ痛む。

 気づいていないわけではない。

 でも、言葉にされると違う。


「……知ってる」

 小さく返す。

「でも、行かないと切れない」

 冬真は答えない。

 その代わり、少しだけ目を伏せる。

 止めたい。

 けれどもう止めきれない。

 その葛藤が、今は隠しきれていなかった。


     ◆


 綾人は床下の入口に新しい札を三枚打った。

 完全に閉じはしない。

 だが、開けたまま放置もしない。

 開いたことを覚えた入口へ、こちらの手で仮の枠を作る。


「明日、改めて入る」

 綾人が言う。

「今日はここで終わり」

 千歳は小さく息を吐いた。

 ほっとしたわけではない。

 ただ、ここで無理に踏み込まないことの意味は理解できる。


 冬真がわずかに壁へ手をつく。

 千歳はすぐに気づいた。


「冬真」

「何だ」

「今、重い?」

「……少し」

「何が」

「床下の奥」

 掠れた声。

「近いと、引かれるというより、馴染む感じがする」

 その言葉に、千歳の背筋が寒くなる。

 引かれるより悪い。

 そこに合ってしまうということだ。


「だから今日はここまでだ」

 綾人が断定する。

「今の時点でそれなら、奥へ入ればもっと危うい」

 冬真は反論しなかった。

 反論できない顔だった。


 祓殿を出ると、外の空気が逆にあたたかく感じた。

 冬の冷たさのはずなのに、床下の湿った冷気に比べれば、はるかに人間の側だ。


 千歳は祓殿を振り返る。

 昼の光の中にある建物は、やはり静かだ。

 でももう知っている。

 その下には道がある。

 人が長く触れずに済むように、隠してきた道が。

 そして、その一部は冬真の中へ繋がっている。


「……明日」

 小さく言う。


 冬真が隣で低く返す。

「ああ」

「入るんだね」

「そうなるだろうな」

 その声は疲れていた。

 けれど、逃げる響きではない。

 もうここまで来た以上、行くしかないと、この人もわかっているのだ。


 千歳は外套の裾を握る。

 怖い。

 でも、その怖さはもう、後ろへ下がるためのものではなかった。


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