第4章 第1話:祓殿の床下へ
朝の空気は、痛いほど澄んでいた。
雪はもう新しく降っていない。
けれど仮殿の外へ出ると、踏み固められた白さが光を跳ね返して、目の奥まで冷たくなる。千歳は外套の襟を指先で押さえながら、浅く息を吐いた。
白い息が細くほどける。
夜が明けた。
だから何かが軽くなるわけではない。
昨夜までの呼びは押し返せた。戻せた。冬真の声も、視線も、ちゃんとこちらへ返ってきた。
でもそれは、“終わった”ではなく“まだ持ちこたえている”に過ぎない。
祓殿の床下。
第3章の最後に見えた、その言葉が、朝からずっと胸の奥に引っかかっていた。
通り道の口。
冬真の中へ続いてしまったものの、現実側にある入口かもしれない場所。
「千歳」
綾人の声に振り返る。
仮殿の戸口に立つ綾人は、もういつもの静かな顔に戻っていた。昨夜だって同じような顔をしていたのに、その奥ではずっと計算し続けていたのだろうと、今ならわかる。
「起きてたの」
「お前よりは少し早くな」
「少しだけ?」
「二刻ほど」
「全然少しじゃない」
そう返すと、綾人は小さく肩を竦めた。
「誤差だ」
「何の」
「今の状況における時間感覚の」
理屈っぽい。
でも、その理屈っぽさが今はありがたかった。
感情だけでいると、足元から崩れそうになるからだ。
「冬真は?」
千歳が問うと、綾人は仮殿の中へ視線を向けた。
「起きてはいる」
「顔色」
「悪い」
「即答」
「事実だ」
それから綾人は少しだけ声を落とした。
「だが、今朝の時点では大きな抜けはない」
千歳の胸が少しだけ緩む。
大きな抜けはない。
その言い方に、抜けそのものはもう前提なのだとわかってしまうのが苦しい。
けれどそれでも、“まだ今朝は保っている”という意味ではある。
「……行くんですよね」
千歳は静かに言った。
綾人は少しだけ目を細める。
「どこへ」
「祓殿の床下」
一拍置く。
「次、そこ見るんでしょ」
綾人はすぐには答えなかった。
否定しない時点で、答えはもう出ているようなものだった。
「可能性は高い」
やがて言う。
「昨夜見えた断片が正しければな」
「正しいと思ってる?」
「半分以上は」
綾人は答える。
「冬真のあの見え方は、残滓の印象ではなく、場所の構造に触れたときの反応に近い」
千歳は喉を鳴らす。
つまり、ただの幻ではない。
現実に、そこに何かがある。
「だったら」
千歳は自分でも驚くほどはっきりと言った。
「わたしも行く」
その瞬間、仮殿の中から低い声が飛んだ。
「却下」
振り向くと、戸口の内側に冬真が立っていた。
外套も羽織らないまま、板壁へ肩を預けるようにしている。顔色はやはり良くない。けれど声だけは妙にまっすぐだった。
「聞こえてたの」
「聞こえる位置で言ってただろ」
「盗み聞き」
「違う」
「じゃあ」
「普通に耳に入っただけだ」
その返しが少しだけいつもに近くて、千歳は胸の奥が微かにほどける。
でも、内容は全然ほどけない。
「却下って何」
千歳が聞き返す。
「そのままだ」
冬真は即答した。
「危ない場所にお前を連れてく理由がない」
「ある」
「ない」
「ある」
「ない」
ほとんど反射みたいな言い合いになる。
その途中で、綾人が小さく息を吐いた。
「朝から元気だな」
「誰のせい」
千歳が返すと、綾人は平然と答えた。
「だいたいお前たち自身のせいだ」
冬真は少しだけ眉を寄せたまま千歳を見た。
「千歳」
「何」
「まだ“戻す”のにも慣れきってないだろ」
「うん」
「ならなおさら」
「でも」
千歳は遮った。
「戻す線が必要なんでしょ」
冬真の目がわずかに細くなる。
「……」
「祓殿の床下に行くなら、あなたは絶対、そっちに引かれやすくなる」
「……」
「だったら、わたしも必要になる」
それは感情論だけではないつもりだった。
事実として、そうだ。
昨日までの押し返しが機能したのなら、危ない場所へ行くほど、その線は必要になる。
冬真はすぐには答えなかった。
代わりに綾人が低く言う。
「千歳の言い分は正しい」
冬真がそちらを見る。
「お前まで」
「だが、そのまま連れていくとも言っていない」
綾人は続ける。
「条件を満たせば、だ」
千歳が息を止める。
「条件」
「床下へ入る前に、仮殿で固定の精度をもう一段上げる」
「……」
「千歳が一人で戻し続けられること」
「一人で」
「私が補助しない場面でも、最低限の現実へ引き戻せるかを見る」
簡単ではない。
でも不可能とも言われていない。
「やる」
千歳はすぐに言った。
冬真がすかさず顔をしかめる。
「即答するな」
「する」
「何で」
「行くから」
「だから行かせたくないって言ってる」
「それも知ってる」
そう返すと、冬真は少しだけ言葉を失ったように黙る。
その顔が、以前よりほんの少しだけ“止めきれない”ものになっているのがわかった。
◆
昼前まで、綾人は仮殿の中で準備を進めた。
囲炉裏は落とさない。
日常の熱を残すため。
札は外周だけでなく、床下へ向かう想定の“移動の線”にも置く。
固定の札は冬真だけではなく、千歳の立つ場所にも薄く重ねる。
千歳はそれを見ながら、今までより自分が戦いの配置に入っていることを、嫌でも実感する。
「ここ」
綾人が指した位置は、仮殿の中央から少しだけ戸口寄りだった。
「冬真が引かれたとき、お前は真正面から引くな」
「第3章でも聞いた」
「だから使える」
「うん」
「少しずらした位置から、言葉を重ねる」
「……」
「お前自身が向こうと直線で噛み合うのを避けるためだ」
千歳は静かに頷いた。
怖い。
でも、理屈がある怖さは、何もわからないまま怯えるよりまだ踏ん張れる。
「冬真」
綾人が呼ぶ。
壁際にいた冬真が少しだけ顔を上げた。
「何だ」
「立て」
「雑だな」
「時間がない」
冬真は小さく息を吐いてから、ゆっくり立ち上がる。
その動作が、昨日より少しだけ重い。
たったそれだけの違いに、千歳の胸はひりつく。
「今、どこ」
千歳が反射で聞いた。
冬真が半眼でこちらを見る。
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまでは迷わない。
けれど、そのあと冬真はわずかに目を伏せた。
「どうした」
千歳が聞く。
「いや」
「いやじゃない」
「……少し、重い」
こめかみへ手が行く。
「何が」
「考える前に、一回沈む感じ」
それは、これまでにも何度か見てきた症状だった。
答えが消えるわけではない。
けれど、届くまでに一瞬、薄い膜がある。
「昨日の残りか」
綾人が問う。
「たぶんな」
冬真は答えた。
「じゃあ、なおさら試す必要がある」
綾人は淡々と言う。
「千歳」
「はい」
「今、昨日までの固定を全部忘れろ」
「え」
「今目の前にいるこいつを、その場で戻せ」
千歳は一瞬だけ目を見開く。
でもすぐに呼吸を整える。
「冬真」
呼ぶ。
冬真が少しだけ目を上げる。
「今、昼」
「……」
「囲炉裏、火ついてる」
「……」
「わたし、朝から何回も行くって言ってる」
冬真の口元がほんの少しだけ動いた。
「うるさい」
「知ってる」
「しつこい」
「知ってる」
「面倒」
「知ってる」
そこまで返ってきたところで、千歳は小さく息を吐く。
戻ってくる線はある。
しかも、やっぱり“どうでもいい会話”の方が強い。
「今どこ」
もう一度問う。
「……仮殿」
「うん」
「お前、ほんとに」
一拍置いて、
「行く気なんだな」
その問いに、千歳は少しだけ胸が詰まる。
これはただの確認じゃない。
止めたい気持ちと、もう止めきれない理解のあいだにある問いだ。
「行く」
千歳ははっきり答えた。
「知った上で、もう外にいられない」
冬真はしばらく黙ったあと、ひどく小さく息を吐く。
「……面倒」
「知ってる」
千歳が返すと、綾人が低く言った。
「今ので十分だな」
二人がそちらを見る。
「少なくとも、仮殿内での固定は一段上がった」
◆
午後、三人は祓殿までの道を実際に歩いて確認した。
今日は床下へは入らない。
あくまで距離と空気と、冬真の反応を見るためだけだ。
けれど、その“だけ”が、もう普通ではない。
祓殿へ続く石畳は薄く雪をかぶっていた。
踏むたび、きゅ、と乾いた音が鳴る。
空気は冷たいのに、なぜか首筋のあたりだけがじわじわと落ち着かない。
千歳はそれを振り払うように外套を握った。
「どう」
綾人が冬真へ聞く。
冬真は祓殿の手前で立ち止まり、少しだけ目を細める。
「……近い」
低い声。
「何が」
「昨夜の横へ抜ける感じ」
一拍置いて、
「ここから下だ」
千歳は祓殿を見る。
昼の光の中にあるそれは、表面だけ見れば静かな建物だ。
でも、その下へ何かがある。
しかも冬真の中の道と繋がる何かが。
「千歳」
綾人が呼ぶ。
「はい」
「今、お前は何を感じる」
急な問いに、千歳は少しだけ目を閉じた。
怖い。
それはもちろんある。
でも、もう少し具体的な何かがある。
「……湿ってる感じ」
「湿ってる」
「井戸の底みたいな、あの濡れた冷たさじゃない」
言葉を探す。
「もっと、閉じた場所の冷たさ」
綾人がわずかに頷く。
「床下だな」
冬真が低く言う。
「やっぱり」
千歳はそこで、ようやくはっきり理解した。
自分ももう、ただ外から見ているだけではない。
微かな違和感の形なら、拾えるようになってきている。
「今日はここまで」
綾人が告げる。
「入口を開けるのは明日以降だ」
冬真が小さく息を吐く。
「助かった」
「今はな」
綾人は返した。
「今日無理に開ければ、床下の構造を見る前にお前が引かれる」
それはたぶん、そのまま事実なのだろう。
冬真も反論しなかった。
◆
仮殿へ戻る道で、千歳はずっと無言だった。
雪の白。
石の冷たさ。
祓殿の下にあるもの。
その全部が、もう現実になり始めている。
「……千歳」
冬真の声。
「何」
「黙りすぎ」
「考えてるから」
「そういう顔してる」
「そっちも、最近それ多い」
返すと、冬真の口元が少しだけ動く。
「お前に言われたくない」
「知ってる」
少しだけ空気が緩む。
けれど、ほんの一瞬だけだった。
「ねえ」
千歳が静かに言う。
「明日、床下を開けたら」
冬真が顔を向ける。
「何だ」
「もっと深いの、来ると思う?」
冬真はすぐには答えなかった。
その沈黙が、逆に答えに近い。
「……来るだろうな」
やがて、低い声。
「やっぱり」
「向こうからすれば」
冬真は前を見たまま続ける。
「口のところを触られるのが一番嫌だろ」
その理屈は、あまりにもわかりやすい。
だからこそ怖い。
「でも」
千歳は言う。
「行く」
「知ってる」
「止める?」
「止めたい」
一拍置いて、
「でも、今はもう止めきれない」
その言葉に、千歳の胸は少しだけ痛んだ。
嬉しいわけではない。
でも、ここまで来たという実感があった。
仮殿が見えてくる。
白い雪の中で、板壁の暗い色だけが妙にくっきり見えた。
「……冬真」
もう一度呼ぶ。
「何だ」
「明日も、戻すから」
冬真は少しだけ目を細める。
「何を」
「全部」
一拍置く。
「名前も、場所も、あなた自身も」
冬真は長く黙っていた。
やがて、ひどく小さく息を吐く。
「……知ってる」
その一言は、今までのどの返事より静かで、重かった。




