第3章 第20話:呼び戻した先で
夕暮れは、思ったより早く落ちてきた。
仮殿の板戸の隙間から差していた白い光は、いつのまにか薄い群青へ変わっている。囲炉裏の火だけが赤く残り、その赤さがあるぶん、外の冷えは余計にはっきりわかった。
千歳は囲炉裏の脇に膝を寄せ、静かに火を見ていた。
昨日の夜、押し返した。
今朝も、まだ冬真はここにいた。
名前も返ってきた。会話の端も、少しは残っていた。
それでも、終わったとは思えない。
むしろ逆だった。
一度戻せたからこそ、この先に“もっと深い呼び”があるかもしれないと、余計にはっきりしてしまった。
戻せる。
でも、戻せなくなる深さがあるかもしれない。
その考えが、夕方からずっと胸の奥に重く沈んでいる。
「……千歳」
低い声に顔を上げる。
冬真が壁際からこちらを見ていた。
昼間より顔色は少し悪い。けれど、視線の焦点はまだちゃんと合っている。
「何」
「さっきから静かすぎ」
「考え事してるから」
「そういう顔してる」
「便利だね」
「お前もな」
その返しに、千歳は少しだけ息を吐いた。
まだこうやって返ってくる。
それだけで安心しそうになる自分を、同時に止める。
安心しきるのは早い。
「……ねえ」
千歳が静かに呼ぶ。
「何だ」
「今、どこ」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「またか」
「また」
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
一拍置いて、
「面倒なやつ」
そこまで返ってきて、千歳は思わず少しだけ笑った。
「よかった」
「それ、今日何回目だ」
「数えてない」
「だろうな」
その小さなやり取りのあいだに、板戸が開く。
綾人が戻ってきた。
指先に灰がついている。外周の札をまた見ていたのだろう。
「外は」
冬真が低く問う。
「今は静かだ」
綾人が答える。
「今は、か」
「そうだ」
綾人は囲炉裏の向こうへ座る。
「静かなまま終わるとは思うな」
その一言で、仮殿の空気がまた少しだけ締まる。
やはりそうだ。
綾人も、今夜がただ静かに過ぎるとは思っていない。
◆
夜に入る前、綾人は三人で最後の確認をした。
「昨夜の方法は効いた」
綾人が言う。
「だが、次も同じ深さとは限らない」
「深くなる」
冬真が低く言う。
「たぶんな」
「そうだ」
綾人は頷く。
「向こうも、押し返されたままでは済まさない」
千歳は膝の上で指を組んだ。
わかっていた。
それでも、口にされると重い。
「今夜もし来たら」
綾人は続ける。
「昨日と同じでいく」
「名前、場所、時間、会話」
千歳が復唱する。
「そうだ」
「固定を切らさない」
「そうだ」
「冬真は、抱え込まない」
そこは冬真が低く返す。
「努力する」
「努力で終わらせるな」
綾人が即座に返した。
「意識して外へ逃がせ」
「面倒だな」
「今さらだ」
短いやり取り。
その温度があるうちは、まだこちら側で踏ん張れているのだと思う。
「あと一つ」
綾人が言う。
「千歳」
「はい」
「今夜、もしお前の呼び戻しでも届きが悪かったら」
千歳の胸が少しだけ強張る。
「そのときは、名前にこだわるな」
「え」
「逆に、もっと日常へ寄せろ」
綾人は静かに続ける。
「喧嘩したことでも、村長に腹が立ったことでも、お前がしつこいことでもいい」
冬真が少しだけ顔をしかめる。
「何で最後のそれが入る」
「効いたからだろ」
綾人は平然と返した。
千歳は小さく息を呑む。
たしかに昨夜、一番最後に引き戻したのは“しつこい”みたいな、どうでもよさそうで、でも二人のあいだでは確かな日常だった。
「……わかった」
千歳は頷く。
「きれいな言葉じゃなくてもいいんだね」
「むしろ、その方がいいこともある」
綾人は答える。
「怪異は“意味の強いもの”を食うが、“暮らしの雑音”には入り込みにくい」
その言い方は少し意外だった。
でも、たしかにそうかもしれない。
運命みたいな言葉より、日常の細かい会話の方が、この二人を人間の側へ繋いでいるのだ。
◆
夜半が近づくにつれ、仮殿の中はまた少しずつ冷えていった。
囲炉裏の火は落とさない。
札も新しくしてある。
冬真は昨夜と同じ位置。
千歳は少しずれた場所。
綾人は戸口に近い位置で札を持つ。
準備はできている。
それでも、心臓は勝手に速くなる。
からん。
最初の鈴は、やはり突然だった。
三人が同時に反応する。
音は遠くない。
でも昨夜ほど近くもない。
まだ、戸口の外を探っている。
「来た」
冬真が低く言う。
その声はまだ落ち着いている。
だが喉元の黒ずみは、すでにわずかに濃くなり始めていた。
「位置」
綾人の声。
千歳はすぐに自分の場所へ立つ。
昨夜より、迷いが少ない。
怖くないわけじゃない。
でも、やることがわかっている怖さは、何も知らない頃より少しましだった。
鈴がもう一度鳴る。
からん。
からん。
今度は少し近い。
冬真の視線が、ほんのわずかに外へ引かれる。
「冬真」
千歳がすぐに呼ぶ。
彼の目が少しだけ動く。
「今どこ」
「……仮殿」
「そう」
「夜」
冬真の方が先に言った。
「囲炉裏、ついてる」
千歳は目を瞬く。
先回りした。
それだけでも、昨日の経験がちゃんと残っているのだとわかる。
「うん」
千歳は頷く。
「わたしは」
「秋月千歳」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこまではいい。
けれど次の瞬間、冬真の呼吸がわずかに乱れた。
「っ……」
喉元へ手が行く。
「冬真?」
千歳が呼ぶ。
返事が少し遅い。
「……今度は」
掠れた声。
「声が、近い」
その言い方が昨夜と違った。
音としてではなく、もっと内側で響いているような響き方。
「何て」
千歳が問う。
冬真は一瞬だけ目を閉じ、それから低く答えた。
「こっちで終われば楽だって」
千歳の胸が強く鳴る。
あまりにも悪質だった。
供物として連れていくとか、器にするとか、そういう露骨な言い方ではない。
むしろ、“楽になる”という形で誘ってくる。
「嘘」
千歳は即座に言った。
「それ、絶対嘘」
冬真の目が少しだけ動く。
「……」
「終わるんじゃなくて、奪われるだけ」
一歩だけ踏み込む。
「そっちに楽な方なんかない」
鈴が三度、短く鳴った。
からん、からん、からん。
昨夜より速い。
焦らせるような鳴り方だ。
「押されてる」
綾人が低く言う。
「千歳、日常へ寄せろ」
千歳は息を吸う。
名前だけじゃ足りない。
きれいな約束も、今はたぶん違う。
「冬真」
はっきり呼ぶ。
「昨日、わたしが“よかった”って何回も言った」
冬真の目がわずかに揺れる。
「お前、しつこい」
「そう」
千歳は続ける。
「今日も朝から何回も確認した」
「……」
「面倒だって言われた」
冬真の口元がかすかに動く。
「……言った」
「村長にも腹立った」
「……」
「わたし、普通がよかったって言った」
その瞬間、冬真の視線が少しだけこちらへ戻る。
「……千歳」
掠れた声。
「うん」
「泣きそうな、顔」
そこで、千歳の胸が強く詰まる。
見えている。
まだ、自分の表情が見えている。
「泣いてない」
千歳は言う。
「今は」
一拍置く。
「でも、あんたがそっちへ行ったら、たぶん本気で泣く」
冬真の眉が少しだけ寄る。
「脅し?」
「本気」
千歳は言い切った。
「戻るまで、ずっと泣くかもしれない」
「……面倒」
「知ってる」
「最悪」
「うん、最悪」
そのやり取りの直後、鈴の音が一瞬だけ途切れた。
綾人がすぐに札を切る。
白い光が、戸口から仮殿の外へ薄く走る。
「今だ、押せ」
「冬真」
千歳はさらに言葉を重ねる。
「わたしは秋月千歳」
「……」
「仮殿」
「……」
「囲炉裏」
「……」
「あなたは白瀬冬真」
一拍置く。
「面倒で、勝手で、ずるい幼馴染」
冬真の目が、はっきりとこちらへ戻る。
「……ひどい」
掠れた声。
「事実」
千歳が返すと、今度はほんの少しだけ、冬真の口元が緩んだ。
その瞬間、鈴が高く一度鳴って、ふっと遠のいた。
板戸の向こうの冷気がゆるむ。
囲炉裏の火がまた安定して燃え始める。
「……切れた」
綾人が低く言う。
「昨夜より早い」
千歳は大きく息を吐いた。
膝が震える。
でも、倒れない。
今夜は昨夜より少しだけ早く、こちらへ戻せた。
「冬真」
千歳が小さく呼ぶ。
「今どこ」
冬真は目を閉じかけて、でもちゃんと答えた。
「……仮殿」
「わたしは」
「秋月千歳」
「うん」
「……うるさい」
その返しに、千歳は本当に少しだけ笑ってしまった。
「知ってる」
◆
静けさが戻ったあとも、昨夜と同じように、痛みはすぐには消えなかった。
冬真は壁へ背を預けたまま、しばらく目を閉じている。
呼吸は荒くない。
でも、深く消耗しているのは見ればわかる。
「どうだ」
綾人が問う。
冬真は少し間を置いてから答えた。
「昨夜より、まし」
千歳がすぐに顔を向ける。
「ほんとに?」
「今のところ」
またその言い方だと思う。
でも、今夜はその“今のところ”にも少しだけ希望があった。
昨夜より早く戻せた。
そして、昨夜の戻し方がちゃんと残っていた。
「慣れてきてる」
綾人が低く言う。
「向こうも、こちらも」
「嫌な言い方」
千歳が呟くと、綾人は小さく肩を竦めた。
「事実だ」
「でも」
一拍置く。
「悪いことだけじゃない」
千歳は冬真を見た。
「昨夜より、戻り方がちゃんと残ってた」
冬真は少しだけ目を開ける。
「……ああ」
「だったら」
千歳は静かに言う。
「まだ戦える」
その言葉に、綾人は何も言わなかった。
否定しない。
それだけで十分だった。




