第3章 第19話:戻したあとに残る痛み
朝は、少しだけ遅れて来た気がした。
眠ったのかどうかも曖昧なまま、千歳は目を開けた。
囲炉裏の火はすでに弱くなっていて、板戸の隙間から差す朝の光が、仮殿の床へ細く伸びている。外は白い。雪はまだ残っているらしい。
夜のあいだ、何度も目が覚めた気がする。
でも、そのたびに確かめたのは一つだけだった。
冬真が、まだここにいるかどうか。
囲炉裏の向こうへ視線を向ける。
冬真は壁際に座ったまま、浅く目を閉じていた。
完全に横にはなっていない。
途中で眠りに落ちたのか、それともずっと半ば起きていたのか、そのどちらともつかない姿勢だった。
千歳は布団の中からゆっくり体を起こす。
喉が少し乾いていた。
でも、それ以上に、昨夜の押し返しのあとに残った感覚の方が気になった。
戻せた。
確かに戻せた。
でも、そのあとに残る痛みまで消えたわけじゃない。
「……冬真」
小さく呼ぶ。
少し間があって、冬真が目を開けた。
「何だ」
掠れた声。
その二文字だけで、千歳の胸が少しだけほどける。
まだ、ちゃんと返ってくる。
「朝」
「見ればわかる」
「そういうことじゃなくて」
「知ってる」
短いやり取り。
それだけなのに、妙に安心する。
でも今日は、その安心の奥に別のものもあった。
昨夜の押し返しが本当にどれくらい効いたのか、まだわからないという不安だ。
「今、どこ」
千歳が聞く。
冬真は少しだけ眉を寄せた。
「またか」
「また」
「……仮殿」
「わたしは」
「千歳」
一拍置いて、
「秋月千歳」
そこまで返ってきて、千歳は小さく頷いた。
「うん」
「満足か」
「少し」
「少しかよ」
「全部は無理」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
◆
綾人が戻ってきたのは、その少しあとだった。
仮殿の戸が開き、冷たい朝の空気が流れ込む。
綾人は二人の顔を見るなり、小さく目を細めた。
「生きてるな」
「挨拶が雑」
千歳が言うと、綾人は肩を竦めた。
「事実確認だ」
それから冬真へ視線を向ける。
「どうだ」
冬真は少しだけ息を吐く。
「最悪ではない」
「それ、かなり悪い言い方」
千歳が反応すると、冬真は少しだけ顔をしかめた。
「じゃあ何て言えと」
「もう少しましな」
「そこまで余裕ない」
その返答が、妙に正直で、千歳は言葉を失う。
「症状は」
綾人が低く問う。
冬真は壁に背を預けたまま、少しだけ考えるように目を伏せた。
「頭が重い」
「記憶は」
「今のところ、大きい抜けはない」
「“今のところ”か」
綾人が言う。
「そうだ」
「他は」
冬真は一拍だけ黙った。
「……少し」
「何」
千歳が問うと、冬真はこめかみを押さえた。
「昨夜、お前が最後に何て言ったか」
千歳の胸が小さくひやりとする。
「全部は残ってない」
それはもう、十分につらい答えだった。
「……どこまで」
千歳が聞く。
冬真は目を伏せたまま答える。
「戻すって」
一拍置く。
「そこは残ってる」
千歳は息を止める。
戻す。
昨夜、自分が言った言葉だ。
名前だけで終わらせない。
何回でも呼び戻す、と。
「よかった」
また口から零れる。
それを聞いて、冬真は少しだけ困ったように眉を寄せる。
「お前、それ好きだな」
「好きで言ってるわけじゃない」
「知ってる」
綾人は二人のやり取りを聞きながら、仮殿の中央へ視線を落とす。
「なら、昨夜の方法は意味があった」
「押し返した、だけじゃなくて?」
千歳が問う。
「呼びの最中に結び直した現実が、少なくとも一部は定着している」
綾人が答える。
「つまり、“戻した先”がきちんと残っている」
千歳は小さく息を呑んだ。
それは少しだけ希望だった。
呼びの最中にかけた言葉が、ただその場しのぎで消えるのではなく、ちゃんと留まることもあるのだ。
「でも」
冬真が低く言う。
「痛みは残る」
千歳はそちらを見る。
冬真は喉元を指先で軽く押さえていた。
「どんな」
「……深いとこが擦れた感じ」
言い方が曖昧だ。
でも、それしか言えないのだろう。
「通り道、か」
綾人が言う。
「たぶんな」
冬真は答えた。
「使われかけて、でも途中で引き戻された」
一拍置く。
「だから余計に、中途半端に痛い」
千歳はその言葉を聞きながら、胸の奥でじわじわと理解していく。
戻せた。
でも、それは何もなかったことにはならない。
向こうへ引かれかけた痕は、ちゃんと残るのだ。
そして冬真は、その痕を自分の中へ持ったまま、また次に備えなければならない。
◆
午前のうち、綾人は昨夜の札を外して焼き直した。
千歳も手伝う。
外周の札、囲炉裏の脇の札、冬真の背後へ置いた固定の札。
どれも端が少し黒くなっていた。
それを見るだけで、昨夜の引きがどれだけ近かったのかがわかる。
「こんなに焼けるんだ」
千歳が小さく言うと、綾人は頷いた。
「深い呼びは、直接人を引くだけじゃない」
「……」
「人間側で結び直そうとする力そのものを削る」
千歳は札の焦げを見つめる。
昨日、自分が何度も名前や場所を重ねたことも、向こうからすれば邪魔だったのだろう。
「じゃあ」
千歳が問う。
「次も同じように戻せるとは限らない?」
綾人は少しだけ目を細めた。
「その通りだ」
冷たいが、正直な答えだった。
「呼びが深くなれば、もっと削られる」
「……」
「だから昨夜の成功をそのまま安心にするな」
千歳は小さく頷く。
「わかってる」
口ではそう言う。
でも、胸のどこかはやっぱり昨夜の成功に縋りかけていた。
だからこそ、その釘は必要だった。
その間、冬真は壁際で静かに座っていた。
眠っているわけではない。
でも、会話へ入るタイミングがほんの少し遅い。
それが、昨夜の残りをそのまま見せている気がした。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
少し遅れて、視線が向く。
「何だ」
「今、わたし何してる」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「……札見てる」
「うん」
「焦げ、気にしてる」
そこまで返ってきて、千歳は小さく息を吐く。
まだ大丈夫だ。
大丈夫、と言い切れはしない。
でも、まだ繋がっている。
「お前」
冬真が少しだけ口元を動かす。
「最近それ、問題出すみたいになってるな」
「訓練」
「厳しい」
「知ってる」
その短いやり取りのあと、冬真がほんの少しだけ目を伏せた。
「……でも」
「何」
「助かった」
千歳は一瞬、言葉を失った。
「昨夜」
冬真は低く続ける。
「戻された感じ、ちゃんとあった」
その言葉は、何でもないふうに置かれた。
でも、千歳にとっては何より重かった。
「……そっか」
やっとそれだけ言う。
本当はもっと何か言いたい。
でもうまく言葉にならない。
嬉しい、だけではないからだ。
戻せたことは救いだ。
でも、それだけ深く向こうへ行きかけた証拠でもある。
◆
昼過ぎ、仮殿の外へ少しだけ出ることになった。
綾人が残滓の濃さを見るために、仮殿の周囲を確かめる必要があると言ったのだ。
ただし冬真は外へ出しすぎない。
戸口の内側から、空気を見る程度。
千歳はその隣に立つ。
外は白く眩しい。
夜の冷たさとは違う、昼の乾いた寒さがある。
「何かある?」
千歳が小さく問う。
冬真は雪の反射へ目を細めたまま答える。
「……薄い」
「残滓?」
「ああ」
「呼びじゃない?」
「今は」
その返答に、少しだけ安堵する。
けれど、その“今は”がまた重い。
そのとき、不意に冬真がわずかに眉を寄せた。
「どうした」
千歳がすぐに言う。
「いや」
「いや、じゃなくて」
「……」
「今、何見てた」
冬真は数秒黙ってから答える。
「門柱」
「うん」
「何で見てたのか、一瞬飛んだ」
千歳の胸がまたひやりと冷える。
昨夜の深い呼びのあと、やはり日常の継ぎ目はさらに脆くなっている。
「門柱」
千歳はすぐに言う。
「札がまだ残ってる」
「……ああ」
「雪、白い」
「……」
「昼」
冬真が少しだけ息を吐く。
「仮殿」
「そう」
「戻った?」
千歳が問うと、冬真はほんの少しだけ目を細めた。
「お前」
「何」
「そういうの、慣れてきたな」
その言葉に、千歳は少しだけ苦く笑う。
「慣れたくなかった」
「……」
「でも、慣れないと戻せないから」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙が、今は前よりやわらかかった。
◆
夕方が近づくころ、千歳は仮殿の囲炉裏の前で一人、静かに手を組んでいた。
昨夜の呼びは押し返せた。
冬真の中に、自分の声は届いた。
戻した先の言葉も、少しは残った。
でも、その代わりに残った痛みも、今日一日では消えなかった。
名前の確認。
場所の確認。
日常の断片の積み直し。
それはただの優しさではなく、これから先ずっと必要になる“戦い方”なのかもしれない。
「……もう」
小さく呟く。
「普通には戻れないな」
それは悲しい言葉のはずだった。
でも、どこかで少しだけ静かな覚悟にも聞こえた。
戻れないなら、ここから進むしかない。




