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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第18話:戻した先に残るもの


 鈴の音が消えたあともしばらく、誰もすぐには動かなかった。


 仮殿の中には、囲炉裏の火が小さく鳴る音だけが残っている。

 さっきまで、あの気配は確かにここへいた。

 冬真の中の通り道を使って、井戸の底みたいな冷たさで引こうとしていた。

 それを押し返した。

 少なくとも今夜は、三人で。


 千歳は冬真のそばに膝をついたまま、荒くなっていた自分の呼吸を少しずつ整えた。

 手を伸ばしていいのか、一瞬だけ迷う。

 でも今は、触れること自体より、まず目が合っていることの方が大事な気がした。


「……冬真」

 低く呼ぶ。


 冬真は壁へ寄りかかったまま、少し遅れて視線を向けた。

「何だ」

 その二文字だけで、胸の奥が少しだけ緩む。

 ちゃんと、ここにいる。


「今、どこ」

 確認するように言うと、冬真はほんの少しだけ眉を寄せた。

「まだやるのか」

「やる」

「……仮殿」

「わたしは」

「千歳」

 一拍置いて、

「秋月千歳」

 そこまで返ってきて、千歳はようやく深く息を吐いた。


「よかった」

 小さく言う。


 冬真は少しだけ目を細める。

「そんなに信用ない?」

「ある」

 千歳はすぐ答えた。

「でも、今は確認する」

「面倒だな」

「知ってる」

 返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動いた。

 それだけで、さっきまで張りつめていたものが少しずつほどけていく。


     ◆


 綾人は戸口近くの札を見直しながら、低く言った。

「今のうちに整理するぞ」

 千歳が顔を上げる。

「はい」

「呼びは深かった」

 綾人が続ける。

「だが、完全な結びには至っていない」

「……」

「冬真の輪郭を保てば、まだ押し返せる」

 その言葉は救いだった。

 完全ではない。

 でも、まだ間に合う側にいるという意味でもある。


「今のは」

 千歳が問う。

「成功って言っていいんですか」

 綾人は少しだけ考えてから答えた。

「部分的にはな」

「部分的」

「押し返した」

 一拍置く。

「だが、通り道そのものが消えたわけではない」

 千歳の胸が少し沈む。

 やはり、そこだ。

 一回戻せたからといって終わりではない。


「じゃあ」

 冬真が低く言う。

「向こうはまた来る」

「来る」

 綾人は頷いた。

「しかも次は、今夜の押し返しを踏まえた上で」

「最悪」

 千歳が思わず呟くと、綾人は淡々と返した。

「その感想は正しい」


 冬真は壁に背を預けたまま、少しだけ目を伏せた。

「……今の感じ、覚えてる」

 千歳がすぐに顔を向ける。

「何を」

「井戸」

 掠れた声。

「冷たいのと、水の音」

 一拍置く。

「でも、途中からお前の声が混ざった」

 その言葉に、千歳の胸が大きく鳴る。

「混ざった」

「引っ張る方と、戻す方」

 冬真は低く続ける。

「両方聞こえてた」


 綾人がそれを聞いて目を細める。

「なら、戻す線は通っている」

「……」

「まだ“名前だけ”ではなく、状況ごと届いている証拠だ」

 千歳は小さく息を呑む。

 囲炉裏。夜。村長のこと。しつこい会話。

 さっき自分が必死で積んだ現実は、ちゃんと届いていたのだ。


「よかった」

 また同じ言葉が口から出る。

 冬真は少しだけ困ったように眉を寄せた。

「お前、そればっかりだな」

「だって」

 千歳は言う。

「今、ほんとによかったから」


     ◆


 緊張が少しだけ緩んだあと、冬真の方が先に静かになった。


 壁に背を預けたまま、目を閉じる。

 眠ったわけではない。

 呼吸が、さっきより重くなっている。

 押し返せた代わりに、消耗があとから表へ出てきているのだろう。


「冬真」

 千歳が呼ぶ。


「……何だ」

「無理してない?」

「してる」

 あまりにも素直な返答に、千歳は少しだけ目を瞬く。

「今日は正直だね」

「さっき戻されたばっかりだからな」

 掠れた声。

「変に誤魔化す余裕がない」

 その言い方が少しだけおかしくて、でも笑えない。


「どこが一番つらい」

 千歳が問うと、冬真は目を閉じたまま答える。

「頭」

「記憶?」

「……というか、継ぎ目」

 一拍置く。

「今の呼びの感覚と、ここがまだ重なってる」

 千歳は唇を噛む。

 押し返した。

 でも、完全に切れてはいないのだ。


「だったら」

 綾人が低く言う。

「今夜は話を進めるな」

 千歳が反射でそちらを見る。

 綾人は札を直し終えて、囲炉裏の向こうへ腰を下ろしたところだった。


「でも」

 千歳が言いかける。


「今、さらに深い話を足せば」

 綾人は続ける。

「冬真の中で“道”と“記憶”が余計に絡む」

「……」

「聞くべきことはまだある。だが今夜は違う」


 千歳は黙る。

 悔しい。

 けれど、さっきの呼びを見たあとでは、反論しきれない。


「……わかった」

 小さく頷く。


 冬真が目を閉じたまま、低く言った。

「珍しいな」

「何が」

「ちゃんと止まる」

「止め時を覚えたので」

「成長したな」

「そっちは」

「してない」

 即答されて、千歳は少しだけ眉を寄せる。

「そこは否定しようよ」

「事実だろ」

 横から綾人が平然と挟む。

「そこだけはな」

「お前ら」

 冬真が小さく息を吐く。

 その短いやり取りが、ほんの少しだけ仮殿の空気をやわらげた。


     ◆


 夜半を過ぎたころ、綾人は簡単な固定の札を追加で切った。


 仮殿の四隅。

 囲炉裏の脇。

 そして、冬真の座る位置の背後。

 白い紙は小さく揺れながら、薄い光を帯びる。


「これで少しは保つ」

 綾人が言う。

「朝までは?」

 千歳が問う。

「朝までは持たせる」

「また、“持たせる”」

「気に入らないか」

「ほんとは“もう大丈夫”って言ってほしい」

 正直に言うと、綾人は少しだけ目を細めた。

「言えないことは言わん」

 それがこの人の誠実さであり、冷たさでもある。

 でも今は、その正直さがありがたかった。


「千歳」

 綾人が低く呼ぶ。

「今夜は、お前が先に寝ろ」

「え」

「冬真の側は私が見る」

 千歳はすぐに首を振りかけた。

 でも、その前に冬真が低く言う。


「寝ろ」

 千歳が見る。

 冬真は目を開けていた。

「でも」

「今、顔色悪いの、お前もだぞ」

 その一言に、自分でも少し驚く。

 そんなことを言われるほど、自分の顔にも出ていたのか。


「……嫌」

 小さく言う。

「何で」

「目、離したくない」

 思ったより素直な本音が、そのまま零れた。


 冬真は少しだけ黙ってから、小さく息を吐いた。

「知ってる」

「じゃあ」

「でも」

 冬真は続ける。

「お前が潰れたら、戻す線も細くなる」

 その理屈は、悔しいくらい正しかった。

 千歳は何も言えなくなる。


「少しでいい」

 今度は綾人が言う。

「囲炉裏のそばで横になれ」

「……」

「完全に離せとは言っていない」


 千歳は迷った末、ようやく小さく頷いた。

「……わかりました」

 囲炉裏のすぐ脇へ布団を寄せる。

 冬真から見える位置。

 呼ばれたらすぐ起きられる位置。


「それでいい」

 綾人が言う。


     ◆


 布団へ入っても、すぐには眠れなかった。


 囲炉裏の熱。

 札の微かな匂い。

 板壁の向こうの雪の冷たさ。

 そして、少し離れたところにある冬真の呼吸。


 さっき、戻せた。

 今夜は押し返せた。

 でも、それは勝利というより、延命に近いのかもしれない。

 通り道はまだある。

 最後に削れるものの話も、まだ全部ではない。

 それでも、自分たちは初めて、知った上で押し返したのだ。


「……ねえ」

 布団の中から、小さく呼ぶ。


 少し間があってから、冬真の声が返る。

「何だ」

「今、いる?」

 数秒の沈黙。

 それから、少しだけ呆れたような声。

「いる」

「よかった」

「それも、さっき言った」

「何回でも言う」

「面倒」

「知ってる」

 その短いやり取りのあと、千歳はようやく少しだけ目を閉じた。

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