第3章 第17話:知ったあとで、戦う形
綾人の「もう、話を聞くだけの段階は終わった」という言葉は、仮殿の中へ重く落ちた。
囲炉裏の火が小さく鳴る。
その音だけが、今ここがまだ現実の側だと教えてくれる。
千歳はゆっくり呼吸を整えた。
さっき、自分は聞いてしまった。
最後に失われるのは、名前と、自分を自分として受け取る輪郭かもしれないこと。
呼ばれても、それを自分のものと思えなくなるかもしれないこと。
そして冬真の中には、もう怪異の通り道があること。
苦しい。
でも、聞いた以上、もうそこから戻る気はなかった。
「どうするんですか」
千歳が先に言った。
綾人が視線を向ける。
「何を」
「通り道」
一拍置く。
「塞ぐんじゃなくて、“使わせない”って話」
綾人は小さく頷いた。
「方法はある」
「あるんだ」
「完全ではない」
その言い方に、冬真が小さく息を吐く。
「毎回それだな」
「今さらだ」
綾人は即答し、そのまま囲炉裏の脇へ膝をついた。
指先で灰の線を引く。
円ではない。
人と人を結ぶような、短い線がいくつか。
「今までは、怪異から千歳へ向かう流れを遮るための封を使ってきた」
「うん」
「だが今回は逆だ」
綾人は言う。
「冬真の中にある道を、向こうから一息に通らせないようにする」
千歳は黙って聞く。
「どうやって」
問うと、綾人は答えた。
「三つ重ねる」
指を折る。
「ひとつ。外からの呼びを弱める札」
「……」
「ふたつ。冬真自身の輪郭を保つための固定」
「固定」
「名、場所、時間、日常、記憶」
綾人の声は静かだった。
「それらを、その場で何度でも結び直す」
千歳は小さく息を呑む。
さっきまで自分がやっていたことを、もっと意識的にやるということだ。
「みっつ目」
千歳が促す。
綾人は一瞬だけ黙った。
「通り道の“出口”をずらす」
冬真が眉を寄せる。
「ずらす?」
「深い呼びが来たとき、向こうは冬真の中の慣れた場所を通ろうとする」
綾人が言う。
「なら、その行き先を別の封へ逃がす」
「そんなことできるのか」
冬真の声は低い。
「短時間ならな」
「失敗したら」
「通る」
綾人ははっきり答えた。
仮殿の空気が少しだけ冷える。
千歳は膝の上で手を握りしめる。
やはり、綱渡りだ。
でも何もないわけじゃない。
今までみたいに“受けるしかない”だけではない。
「何が要るんですか」
千歳が聞くと、綾人は答えた。
「冬真の固定に使える、本人の側のもの」
「本人の側」
「昔から変わらず繋がっているものほどいい」
その一言で、千歳の胸が小さく鳴る。
昔から変わらず繋がっているもの。
そんなもの、この二人のあいだには多すぎるほどある。
「札とか?」
千歳が問う。
「それだけでは弱い」
綾人は首を振る。
「物でもいいが、“意味”が乗っている方がいい」
冬真が低く言う。
「面倒な条件だな」
「お前に必要なものは大抵そうだ」
綾人が返すと、冬真は小さく顔をしかめた。
◆
少しの沈黙のあと、千歳はゆっくり顔を上げた。
「……じゃあ」
綾人が視線を向ける。
「わたし、使えますか」
冬真の表情が一瞬で変わる。
「千歳」
低い声。
止めたいのが、はっきりわかる。
「聞いて」
千歳は遮った。
「名前だけ残るかもしれないなら」
一拍置く。
「それって、わたしがあなたを人間の側へ繋ぐ線になるってことでしょ」
綾人はすぐには答えなかった。
でも否定もしない。
それだけで十分だった。
「なら」
千歳は続ける。
「それをちゃんと使う」
「使うって」
冬真が眉を寄せる。
「物みたいに言うな」
「今さら?」
思わず少しだけ強い声になる。
「そっちこそ、自分を通り道にしてた人が」
冬真が言葉に詰まる。
図星だ。
「……わたしは」
千歳は少し呼吸を整える。
「供物にはならない」
「……」
「でも、だからって何もしないわけじゃない」
その言葉は、もう感情だけではなかった。
知った上で、選んでいる。
「千歳を固定に使う案はある」
綾人が静かに言った。
冬真がそちらを睨むみたいに見る。
「綾人」
「隠しても仕方ない」
綾人は切り捨てるように返した。
「ただし」
今度は千歳を見る。
「お前自身が揺れていれば逆効果だ」
「揺れてる」
千歳は正直に言う。
「怖いし、たぶん今も半分くらい震えてる」
「そういうことではない」
綾人は続ける。
「“引きずられても行かない”と、自分で決め切れているかだ」
千歳は少しだけ目を閉じた。
答えは簡単ではない。
でも、今なら言える。
「決めてる」
目を開ける。
「前みたいに、何も知らないまま引かれるのはもう嫌」
「……」
「今度は、知った上で戻す」
綾人はそれを数秒見つめ、それから小さく頷いた。
「なら候補にはなる」
冬真が低く言う。
「候補で止めろ」
「気持ちはわかる」
綾人は返す。
「だが、お前一人の気分で済む段階ではない」
「……」
「もう、お前自身が単独で踏ん張る構図を捨てろ」
その言葉は鋭かった。
でも、必要だった。
◆
準備はすぐに始まった。
綾人は仮殿の中央へ新しい灰の線を引く。
これまでの守りの円とは少し違う。中心に冬真、その斜め前に千歳が立つ位置が作られていく。
囲炉裏の火は落とさない。
日常の熱を残すためだと綾人は言った。
「冬真、そこ」
綾人が示す場所へ、冬真がゆっくり移動する。
立ち上がる動作ひとつにもまだ疲労が残っていた。
それを見ているだけで千歳の胸は痛む。
でも今は、そこへ駆け寄るより先に覚えることがある。
「千歳はここ」
綾人が、冬真の正面より少しだけ横へ位置を指す。
「真正面じゃないんですね」
「向き合いすぎると、引き込みと結びが重なる」
綾人が答える。
「少しずらせ」
「……難しい」
「慣れろ」
「雑」
「時間がない」
そのやり取りのあいだに、冬真が小さく息を吐いた。
「お前ら」
「何」
千歳が見ると、冬真はほんの少しだけ困ったみたいな顔をしている。
「こういう時だけ、妙に息合うな」
「嬉しくない」
千歳が即答すると、冬真の口元がわずかに動いた。
「だろうな」
その小さな会話が、千歳の緊張を少しだけ和らげる。
「いいか」
綾人が低く言う。
「呼びが来たら、千歳は名前だけを呼ぶな」
「うん」
「そのたびに、必ず具体を足せ」
「場所、時間、会話、日常」
千歳が復唱すると、綾人は頷く。
「そうだ」
「もし返事がなかったら」
「返事を求めず、こちらから事実を積め」
「……」
「“今ここにいる”を、向こうの声より多くする」
千歳は小さく深呼吸した。
わかる。
難しいけれど、わかる。
「冬真」
今度は綾人が呼ぶ。
「お前は、来たものを中で抱え込むな」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「癖でやる」
「知っている」
「止められないかも」
「止めろ」
綾人は容赦なく言う。
「少しでも“外へ逃がす”意識を持て」
「どこに」
「札と結界」
一拍置く。
「あと、人間の側だ」
その言い方に、千歳はほんの少しだけ息を呑む。
人間の側。
つまり、自分たちの側だ。
◆
夜半を少し過ぎた頃、最初の揺れが来た。
風はない。
それなのに、仮殿の板戸がかすかに鳴る。
囲炉裏の火が一瞬だけ細くなり、札の端が白く光った。
からん。
鈴の音。
遠くない。
でもまだ戸の外だ。
「来る」
冬真が低く言う。
その声は落ち着いている。
だが、喉元の黒ずみがわずかに濃くなった。
「位置」
綾人の声。
千歳はすぐに、自分の場所へ立つ。
冬真の正面から少しずれた場所。
囲炉裏の熱が背中の方へわずかに残る位置だ。
鈴がもう一度鳴る。
からん。
今度は少し近い。
冬真の視線が、ほんのわずかに戸の方へ寄る。
千歳はすぐに声を出した。
「冬真」
彼の目が少しだけ動く。
「今どこ」
「……仮殿」
「そう」
千歳は続ける。
「夜」
「……」
「囲炉裏ついてる」
「……」
「今日、村長来た」
冬真の喉が小さく動く。
「嫌な話した」
そこへ、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「……嫌だったな」
返事が返る。
千歳は胸の奥で小さく息を吐く。
まだいける。
まだ戻れる。
しかし次の瞬間、鈴の音が一気に近づいた。
からん、からん、からん。
今度は仮殿のすぐ外を回るように鳴る。
板壁の向こうを、何かが静かに歩いている気配。
「っ……」
冬真の呼吸が乱れる。
視線がまた、わずかに外へ引かれる。
「水じゃない」
千歳はすぐに言う。
「今ここにあるのは火」
「……」
「井戸じゃない」
「……わかってる」
でも、その返答は今度は少し遠かった。
綾人が札を一枚切る。
白い光。
だが鈴は止まらない。
「深い」
綾人が低く言う。
「千歳、続けろ」
千歳は息を整える。
怖い。
でも、今は止まれない。
「冬真」
名を呼ぶ。
「わたし誰」
数秒の沈黙。
それから、低く掠れた声。
「……千歳」
「フルネーム」
「秋月……」
そこで少しだけ止まる。
千歳の心臓が跳ねる。
「千歳!」
思わず強く呼ぶ。
「違う、わたしは秋月千歳」
一拍置く。
「あなたが何回もしつこいって言ったやつ」
冬真の眉が少しだけ寄る。
そこに、戻ろうとする動きがある。
「……面倒な」
掠れた声。
「やつ」
千歳の目の奥が熱くなる。
「そう」
「知ってる」
冬真が、少しだけいつもの言い方で返す。
その瞬間、鈴の音が一段遠のく。
板戸の向こうの気配が、わずかに揺らぐ。
「押せる」
綾人が言う。
「今だ」
千歳は一歩だけ踏み込む。
でも真正面には行かない。
教えられた通り、少しずらしたまま。
「冬真」
低く、はっきり言う。
「わたしはここ」
「……」
「仮殿」
「……」
「囲炉裏」
「……」
「今日、あなたが最後まで聞かせた」
冬真の目が少しだけ動く。
「聞いて」
一拍置く。
「だから今度は、わたしが最後まで戻す」
その言葉の直後、板戸の外で風もないのに雪がさっと舞う音がした。
鈴が一度、高く鳴り、次の瞬間には静まる。
白い気配が、仮殿の外から離れていく。
静寂。
冬真の肩から、はっきり力が抜けた。
「っ、ぁ……」
小さく息が漏れる。
膝が揺れ、壁へ手をつく。
千歳は反射で近づきかける。
だが今度は綾人が止めなかった。
もう流れは切れているのだろう。
「冬真!」
千歳はそのままそばへ行く。
顔色は悪い。
でも、さっきまでの焦点の揺れは少し戻っていた。
「……何」
掠れた声。
「戻った?」
千歳が聞くと、冬真は目を細めた。
「お前」
「何」
「ほんとに、しつこいな」
その返事に、千歳は胸の奥が一気に熱くなる。
「よかった」
小さく言う。
「それ言えるなら、まだ大丈夫」
「だから」
冬真が息を整えながら言う。
「大丈夫とは」
「禁止」
千歳が即答すると、綾人が小さく息を吐いた。
「……成功だな」
低い声。
「完全ではないが」
「押し返せた」
千歳が言うと、綾人は頷く。
「ああ」
「じゃあ」
「戦い方は合っている」
綾人は言い切った。
「少なくとも、“使わせない”ことはできる」
千歳は冬真を見る。
冬真もこちらを見ている。
苦しそうだ。
でも、ここにいる。
まだ人間の側にいる。
それだけで、今は十分だった。




