第3章 第16話:最後まで聞く夜
夜は、ひどく静かだった。
静かすぎて、逆に怖い。
鈴の音は今は鳴っていない。板戸の外の雪も、風に擦れる枝の音も、今夜は妙に遠い。
だからこそ千歳は、囲炉裏の火の音に意識を繋いでいた。
ぱち。
ぱち。
小さな音が、ここがまだ現実の側にあることを教えてくれる。
綾人は外周の札を見てくると言って、さっき一度仮殿を出た。
今は千歳と冬真の二人だけだ。
向かい合っているわけではない。
囲炉裏を挟んで、少し斜めに、互いの横顔が見える位置。
前なら、この距離の沈黙は苦しかった。
今は違う。
苦しいのは苦しいままだけれど、その苦しさの中身がはっきりしている。
まだ、足りない。
通り道の話まで聞いた。
でもそれは、仕組みの話だ。
千歳が本当に知りたいのは、そこまで至るあいだに冬真が何を失ってきたのか、その輪郭だった。
「……冬真」
静かに呼ぶ。
冬真は目を閉じたまま答えた。
「何だ」
「約束」
その一言で、冬真の肩がほんのわずかに動く。
「……」
「今夜はもう聞かないって言った」
一拍置く。
「でも、次は最後まで聞くって言った」
囲炉裏の火が小さく鳴る。
返事はすぐには返ってこない。
「……今か」
やがて落ちた声は低かった。
「今」
千歳ははっきり言う。
「深い呼びは今は引いてる」
「……」
「綾人さんも外にいる」
「……」
「だから、今」
冬真はゆっくり目を開けた。
その目は、逃げたいのを隠していない。
でも、完全に背を向けもしない。
「全部は」
掠れた声。
「まだ無理だ」
千歳は頷いた。
「全部じゃなくていい」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「またそれか」
「でも」
千歳は続ける。
「今夜聞きたいのは、“最後に何が残らなくなるのか”」
その言葉で、冬真の表情がはっきり止まった。
千歳は確信する。
やっぱりそこだ。
そこが、この人が一番言いたくないところだ。
「通り道の話まで出た」
千歳は静かに言う。
「呼びも深くなってる」
「……」
「なら、次に怖いのが何か、わたしだけ知らないままでいるの、もう無理」
一拍置く。
「冬真、最後に何が抜けるの」
長い沈黙が落ちる。
火の音だけがする。
外の雪が少しだけ落ちる音もした。
その全部が遠い。
今この仮殿の中では、冬真が次に何を言うかだけが、異様に重かった。
「……人による」
やがて、冬真が言った。
千歳は黙って聞く。
「でも」
冬真は続ける。
「道が深くなったとき、先に削れやすいのは、どうでもいい記憶とか、細かい繋がりだ」
「うん」
「次に、自分の輪郭」
千歳の背筋が冷える。
「輪郭」
「自分が何をしたいか、とか」
冬真は少しだけ視線を落とす。
「何を嫌だと思うか、とか」
千歳は呼吸を止めそうになる。
それはただ記憶が抜けるのとは違う。
人としての芯そのものが曖昧になるということだ。
「……その先は」
喉が乾く。
でも、聞かなければならない。
冬真はすぐには答えなかった。
それから、低く、ひどく静かな声で言った。
「名前」
千歳の胸が大きく鳴る。
「名前が、自分のものとして残るかどうか」
囲炉裏の火が、ぱち、と鳴る。
それがやけに大きく聞こえた。
「自分の、ものとして」
千歳はかすれた声で繰り返す。
「どういうこと」
冬真は少しだけ目を閉じる。
「呼ばれても、自分だと思えなくなる」
その一文が、千歳の胸の奥へまっすぐ落ちた。
「そんなの」
思わず零れる。
「そんなの、もう」
言葉が続かない。
名前が抜けるだけじゃない。
名前を呼ばれても、それを自分として受け取れなくなる。
それはもう、ただの記憶喪失ではなかった。
「……だから」
冬真が低く続ける。
「お前の名前だけ残るの、危ないんだよ」
千歳は顔を上げる。
「え」
「俺の方が削れても」
一拍置く。
「お前への線だけが残ると、そこだけで繋がる」
「……」
「それは人間の側に戻る線にもなる」
「うん」
「でも、逆に言えば」
冬真は少しだけ目を伏せる。
「それ以外が落ちたまま、お前だけに寄る形にもなる」
千歳の指先が冷たくなる。
わかっていた。
でも、はっきり言葉にされると違う。
「わたしだけが」
小さく言う。
「最後に残るかもしれないんだ」
冬真は否定しなかった。
「……嫌」
千歳はそう言った。
泣き声みたいにはしたくなかった。
でも、うまく抑えたつもりでも、声は少し震えた。
「そんなの嫌だ」
冬真は静かに見ている。
「わたしだけ残って」
一拍置く。
「他が全部削れていくの、嫌」
「知ってる」
冬真が返す。
「知ってるなら」
「でも」
冬真は言葉を継ぐ。
「最後に残したいのがそこなのも、本当だ」
千歳は息を呑む。
またそこへ戻る。
ずるいと思う。
でも、そのずるさごと本音だとわかってしまうから、余計につらい。
「……何で」
千歳はやっとのことで声を出す。
「そこまで、わたしなの」
冬真は少しだけ困るみたいに眉を寄せた。
「今さら、それ聞くか」
「聞くよ」
千歳は言う。
「だって、最後に残るかもしれないものの話してるんだよ」
一拍置く。
「そこ、ちゃんと聞かないと無理」
冬真は長く黙った。
けれど今夜は、逃げなかった。
やがて、ひどく掠れた声で言う。
「最初に引いた理由が、お前だった」
「……」
「それから、やめなかった理由も、お前だった」
千歳の胸が強く締まる。
「で、残したいのも」
そこで少しだけ声が揺れる。
「たぶん、お前なんだろ」
それは告白みたいな言葉だった。
でもきれいな形ではない。
もっと不器用で、もっと削れた末に残った本音だった。
千歳は何も言えなかった。
言おうとすると、喉の奥が熱くなってしまう。
「……そんなの」
やっと絞り出す。
「そんなの、ずるい」
冬真は少しだけ息を吐く。
「さっきも言ったな」
「何回でも言う」
「面倒」
「知ってる」
その短いやり取りのあと、沈黙が落ちる。
でも、さっきまでの沈黙とは違った。
痛い。
でも、もう触れてしまった。
そこから目を逸らす方が無理な沈黙だった。
◆
「もう一つある」
不意に、冬真が言った。
千歳は顔を上げる。
「何」
冬真は囲炉裏の火を見たまま、低く続ける。
「一番まずいのは」
一拍置く。
「名前だけじゃない」
千歳の背中がひやりとする。
まだある。
それはわかっていた。
でも、ここまで来てなお“もう一つ”があることが怖かった。
「道が深くなると」
冬真は言う。
「呼びに応じた覚えがなくても、向こうへ寄った形だけ残ることがある」
千歳は眉を寄せる。
「形だけ」
「朝起きたら、札がなくなってたり」
「……」
「社の方に雪の足跡がついてたり」
千歳の呼吸が止まる。
「まさか」
そこで、今までのいくつもの違和感が繋がる。
昔、理由なく札が減っていたこと。
冬真が起きたとき泥だらけだったこと。
夜の記憶が曖昧だったこと。
「……勝手に行ってたの」
声が掠れる。
「全部じゃない」
冬真が答える。
「でも、何回かは」
千歳は膝の上で握った手に力を入れる。
そんなの、ほとんど半分向こうへ連れていかれているのと同じだ。
「何で」
また問いが出る。
でも今度のそれは、理由を求めるというより、現実をそのまま認めたくないための抵抗だった。
「何で、そこまで来て」
「戻れてたからだろ」
冬真は言う。
「千歳」
名を呼ばれて、顔を上げる。
「まだ俺が戻れてたのは」
一拍置く。
「朝に、お前の顔見てたからかもしれない」
その一言に、千歳の視界が少し滲む。
嬉しくなんてない。
ただ、苦しい。
この人はどこまでいっても、自分を基準にしか戻れなかったのかもしれない。
それは救いであり、呪いでもある。
「……わたし」
千歳はゆっくり言う。
「そんなに大事にされたいわけじゃなかった」
冬真が少しだけ目を見開く。
「もっと普通でよかった」
一拍置く。
「普通に幼馴染で」
喉が熱い。
「普通に喧嘩して、普通に笑って」
「……」
「そういうのがよかった」
冬真は何も言わなかった。
その沈黙が、逆に全部を物語っていた。
もうとっくに、普通ではいられなかったのだ。
「でも」
千歳は目元を拭わずに言う。
「今さらそこへ戻れないのも知ってる」
冬真の視線が、少しだけ揺れる。
「だから」
一歩、囲炉裏の向こうへ踏み出す。
「最後に残るのがわたしの名前なら」
一拍置く。
「そこから絶対に戻す」
冬真は答えない。
だから千歳は、そのまま続けた。
「名前だけで終わらせない」
「……」
「場所も、時間も、あなた自身も」
喉が震える。
「全部、何回でも呼び戻す」
その言葉は誓いだった。
きれいな愛の言葉ではない。
もっと切実で、もっと必死なもの。
でも今の二人には、それが一番ふさわしかった。
◆
そのとき、戸の外で足音がした。
綾人が戻ってくる。
戸が開き、二人の空気をひと目見た瞬間、何かを察したらしく目を細めた。
「……進んだな」
低い声。
千歳は振り向かずに言う。
「聞きました」
「どこまで」
「一番まずいところ」
一拍置く。
「まだ全部じゃないけど」
綾人は冬真を見る。
冬真は小さく目を閉じ、それから開く。
「……ああ」
「なら、次だ」
綾人は迷いなく言った。
「通り道を塞ぐ具体を組む」
千歳が顔を向ける。
「今夜?」
「今夜だ」
綾人は答える。
「もう、話を聞くだけの段階は終わった」
その言葉に、千歳は小さく息を吸う。
怖い。
でも、もうわかる。
これは必要な怖さだ。
逃げるためではなく、進むための。




