第3章 第15話:通り道を塞ぐ夜
仮殿の空気は、鈴の音が消えたあとも冷えたままだった。
囲炉裏の火は確かに燃えている。
綾人が置いた札も、淡い白さを保っている。
それなのに、板壁の内側だけが別の季節に触れているみたいに、肌の奥がじわじわと冷えていく。
千歳はその場から動かなかった。
冬真の中に通り道がある。
怪異がそこを見つけ始めている。
その真実だけでも十分に重いのに、実際に“深い呼び”が近づき始めているとなれば、もう息の仕方すらわからなくなる。
「今夜はここで固定する」
綾人が低く言った。
囲炉裏の左右へ置かれた札の位置を調整しながら、続ける。
「外周を一枚増やす」
「足りる?」
千歳が問うと、綾人は短く答えた。
「足りるようにする」
「それ答えになってない」
「今はそれで十分だ」
いつもの返しなのに、声は少しだけ硬い。
綾人自身、今の状況に余裕がないのだろう。
冬真は壁際に背を預けたまま、目を閉じていた。
眠っているのではない。
呼吸は浅く、喉元の黒ずみがさっきよりわずかに濃く見える。
深い呼びが近づくたび、そこが反応しているのだとしたら、見ているだけで胸が痛かった。
「冬真」
千歳が呼ぶ。
少し遅れて、目が開く。
「何だ」
「今、どこ」
冬真はほんの少しだけ眉を寄せたが、答えた。
「仮殿」
「わたしは」
「千歳」
「うん」
一拍置く。
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこも迷わない。
千歳は小さく息を吐く。
まだ大丈夫だ。
まだ、こちら側にいる。
「……何回やる気だ」
冬真が低く言う。
「何回でも」
千歳が返すと、冬真は小さく息を吐いた。
「面倒」
「知ってる」
「便利に使うな」
「そっちも」
短いやり取り。
でも、そのやり取りができること自体が今はひどく大事だった。
◆
綾人は札を一通り打ち直すと、仮殿の中央へ戻ってきた。
「通り道を塞ぐ」
低い声。
「完全には無理だ」
千歳の胸が少しだけ沈む。
「でも」
「深く通さないようにはできる」
綾人は続ける。
「今夜やるのは二つだ」
指を折る。
「外からの呼びを弱めること」
「もう一つ」
「冬真の中にある“慣れた流れ”を起こしすぎないこと」
「起こしすぎない」
千歳が繰り返す。
「向こうは、通りやすい場所を使おうとする」
綾人が答える。
「なら、その道を刺激しない」
「具体的には?」
「思い出しすぎるな」
今度は冬真へ向けられた言葉だった。
冬真が少しだけ顔をしかめる。
「無茶言うな」
「無茶だが必要だ」
綾人は平然と返す。
「昔の深い呼び、沈めたもの、道が開いた瞬間。そういう“奥”へ意識を寄せると、向こうも寄ってくる」
千歳の背筋が冷える。
つまり、さっきまで話していた“最もまずいところ”そのものが、呼びを近づける危険にもなるということだ。
「……じゃあ」
千歳が小さく言う。
「これ以上、今夜は聞かない方がいい?」
綾人は少しだけ考えてから頷いた。
「今はな」
「でも」
千歳は冬真を見る。
「まだ、全部じゃない」
「知ってる」
冬真が低く言う。
「だから、今夜は通すなって話だろ」
その返答が少しだけ早かった。
千歳はその早さに、かえって不安を覚える。
理解しているからこそ、無理をして飲み込もうとしているようにも見えるからだ。
「冬真」
「何だ」
「今、何考えてる」
「……」
「黙ると嫌」
素直に言うと、冬真は少しだけ目を伏せた。
「何でここまで残ったのか、って」
掠れた声。
「道の話」
千歳の胸がひやりとする。
まさに綾人が刺激するなと言った、その中心だ。
「やめて」
反射で言う。
「わかってる」
冬真は答える。
「でも勝手に浮かぶ」
「なら」
千歳は呼吸を整える。
「別のこと考えて」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは知ってる」
一歩だけ近づく。
「でも今は、そっちに行かないで」
冬真はしばらく黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「……何考えればいい」
その返しに、千歳は一瞬だけ言葉を失う。
こんなふうに、この人が“どう戻ればいい”を外へ求めるのは珍しかった。
「今日のこと」
やっと言う。
「朝、囲炉裏でお湯沸かしてたこと」
「……」
「村長が来て、嫌な話したこと」
「嫌な話、でまとめるなよ」
「だって嫌だったし」
そう返すと、冬真の口元がほんの少しだけ動く。
「それはそうだな」
「あと」
千歳は続ける。
「わたしが、しつこいこと」
「知ってる」
「何回も確認すること」
「知ってる」
「面倒なこと」
「知ってる」
そこで、冬真の声に少しだけいつもの温度が戻る。
千歳は胸の奥が、ほんの少しだけ緩むのを感じた。
◆
だが、その緩みは長く続かなかった。
囲炉裏の火が、ふっと小さくなる。
風はない。
なのに、板戸の隙間から冷気が細く流れ込んだ。
からん。
今度は、はっきり鈴が鳴った。
三人の空気が一瞬で変わる。
綾人が札へ手をかける。
千歳は反射で冬真を見る。
冬真は目を開いていた。
だが、その目の焦点が少しだけ遠い。
「冬真」
呼ぶ。
返事はすぐにはない。
「冬真」
もう一度。
今度は、彼の喉がわずかに動いた。
「……聞こえる」
掠れた声。
「何が」
千歳が問うと、冬真はゆっくりと顔を上げた。
「水」
その一言で、千歳の背筋が冷たくなる。
井戸だ。
またあそこへ繋がっている。
「違う」
千歳はすぐに言う。
「今ここにあるのは囲炉裏」
「……」
「水じゃない」
「……わかってる」
でも、その返答は遅かった。
綾人が低く告げる。
「深くなった」
「どうする」
千歳の声が少しだけ上ずる。
「名前だけでは足りん」
綾人は答える。
「現実を増やせ」
昨日言われたことだ。
名前だけでなく、場所、時間、会話、日常。
「冬真」
千歳は息を整える。
「今、朝じゃない」
冬真の目が少しだけ動く。
「夜」
「そう」
「仮殿」
「そう」
「わたしは」
冬真の唇がかすかに動く。
「……千歳」
「うん」
「綾人さんは」
「月代綾人」
そこも返ってくる。
けれど、何かがまだ引っかかっている。
千歳にはわかった。
戻ってきているのに、まだ引っ張られている。
「今日、お湯飲んだ」
千歳が続ける。
「村長も来た」
「……」
「わたし、あなたに何回もしつこいって言われた」
そこで冬真の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「逆だろ」
低い声。
「お前が、しつこい」
「そう、それ」
千歳は少しだけ息を吐く。
「そこにいて」
鈴が、また鳴る。
からん。
でも今度は少し遠い。
仮殿の外を探るみたいな鳴り方へ戻る。
綾人が札を一枚、戸口へ叩きつけた。
「閉じろ」
白い光が走る。
冷気が少しだけ和らぐ。
「まだ浅いうちに押し返せた」
綾人が言う。
千歳はようやく、強く詰めていた息を吐いた。
膝が少し震えている。
怖かった。
今のほんの短い時間だけでも、冬真の意識が井戸へ半歩寄ったのがわかったからだ。
「……大丈夫」
冬真が言いかける。
「禁止」
千歳が即答した。
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「まだ言い切ってない」
「言おうとした」
「ひどいな」
「知ってる」
その短いやり取りに、綾人が小さく息を吐く。
「今のは正しい」
「どっちが」
千歳が問うと、綾人は答える。
「止め方だ」
千歳は少しだけ目を瞬く。
「名前だけではなく、場所と時間と会話を繋いだ」
「……」
「今のように引き戻せるうちは、まだ切れていない」
その言葉に、千歳の胸の奥が少しだけ熱くなる。
救いではない。
でも、何もできないわけではないと、ようやく実感できた。
◆
夜半が近づくころ、呼びは少しずつ遠のいていった。
完全には消えていない。
それでも、さっきみたいな直接的な引きは、今は収まっている。
綾人は囲炉裏の脇へ座り、札の焼け方を見ながら低く言った。
「今夜はこれ以上、深い話をするな」
冬真が小さく息を吐く。
「助かった」
「本気で言ってるのか」
「半分」
「残り半分は」
「嫌味だ」
その返しに、千歳は少しだけ肩の力を抜く。
でも、完全には緩まなかった。
今の呼びは、本物だった。
しかも、井戸の水の感覚を使って引いてきた。
冬真の中の道は、もう向こうからはっきり見つけられている。
「……綾人さん」
千歳が静かに言う。
「何だ」
「通り道を塞ぐって」
一拍置く。
「本当に、できるんですか」
綾人はすぐには答えなかった。
囲炉裏の火を見つめたまま、短く息を吐く。
「完全に塞ぐのは難しい」
千歳の胸が少し沈む。
「だが」
綾人は続けた。
「道は、開いたままでも“使わせない”ことはできる」
「どうやって」
「結び先を曖昧にする」
千歳が眉を寄せる。
「曖昧に?」
「冬真単体を“器”として確定させない」
綾人は言う。
「札、結界、周囲の現実、千歳の呼び戻し。その全部で、人間側の輪郭を保つ」
冬真が低く言う。
「面倒な管理だな」
「お前が言うな」
綾人は即座に返した。
「元を辿れば、全部お前の抱え込みが原因だ」
冬真は反論しなかった。
その沈黙が、今夜はやけに重かった。
千歳はその横顔を見て、胸の奥でひとつだけはっきりする。
もう次は、“過去を知る”だけでは足りない。
知った上で、どう止めるかまで進まなければならない。
「……冬真」
静かに呼ぶ。
「何だ」
「今夜は、もう聞かない」
冬真が少しだけ目を細める。
「珍しいな」
「その代わり」
一拍置く。
「次は最後まで聞く」
冬真は何も言わない。
だから千歳は、そのまま続けた。
「通り道の話まで出たら、もう途中で止まれない」
「……」
「わたし、逃げないから」
その言葉に、冬真はしばらく黙っていた。
やがて、ひどく小さく息を吐く。
「……知ってる」
それだけだった。
でも、その一言は、どんな綺麗な約束よりも重く聞こえた。




