第3章 第14話:一番まずいところ
夜は、昼間よりもはっきり冷えていた。
村長たちが去ったあと、仮殿のまわりは妙に静かだった。
雪を踏む音ももうない。
戸口の向こうに残っていた人の気配も薄れ、今は囲炉裏の火が小さく鳴る音だけが、仮殿の中でやけに大きく響いていた。
千歳は囲炉裏のそばへ座ったまま、膝の上で手を組んでいた。
冷えているのか、熱いのか、自分でもよくわからない。
胸の奥だけがずっと落ち着かない。
今夜。
冬真は、一番まずいところから話すと言った。
それが何を意味するのか、千歳はまだ正確には知らない。
でも、今まで何度も避けられてきた核心に近いことだけはわかる。
長く守られてきたこと。
少しずつ削られてきたこと。
怪異が今度は冬真を器として見始めていること。
その全部をつなぐ、最後の核。
「……千歳」
低い声に顔を上げる。
冬真が仮殿の壁際からこちらを見ていた。
顔色は相変わらず悪い。
けれど目だけは、逃げずにこちらを向いている。
「何」
千歳が返すと、冬真は少しだけ視線を囲炉裏へ落とした。
「綾人は」
「外、見てる」
「……そうか」
綾人は仮殿の外周を一回りしに出ている。
たぶん、わざとだ。
今夜の話は、自分が立ち会うべきかどうかを判断した上で、あえて二人きりの時間を作ったのだろう。
「ねえ」
千歳が静かに呼ぶ。
「何だ」
「逃げないでって、もう言わない」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「何だそれ」
「その代わり」
一拍置く。
「ちゃんと聞く」
千歳はまっすぐ言った。
「途中で怖くても、やめない」
冬真はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。
「……面倒だな」
「知ってる」
「そこ、最近便利に使いすぎだろ」
「そっちも」
少しだけ、空気がやわらぐ。
ほんの少しだけ。
でも、その少しがあるから、まだここで座っていられる。
「一番まずいところ」
千歳は言う。
「何」
冬真は答えるまでに、長く時間をかけた。
それは誤魔化すための沈黙ではなく、言葉にするだけで現実になってしまうものを、どう並べるか迷う沈黙だった。
「……俺」
やがて、掠れた声が落ちる。
「最初から、全部を外へ逃がしてたわけじゃない」
千歳は黙って聞く。
「雪の日のあとから」
冬真は続ける。
「少しずつ引いてた」
「うん」
「でも、引いたもの全部を、その都度祓えてたわけじゃない」
千歳の胸が、静かに冷える。
そこはまだ聞いていなかった。
「じゃあ」
小さく問う。
「どうしてたの」
冬真は目を伏せる。
「抱えてた」
その二文字が、ひどく重かった。
「……抱えるって」
「そのままだ」
低い声。
「祓いきれない分を、体の中へ沈めてた」
千歳の指先が冷たくなる。
痣。
黒ずみ。
記憶の抜け。
全部がそこへ繋がっていく。
「そんなの」
やっと声が出る。
「そんなの、ずっと?」
「ああ」
「何で」
また同じ問いが出る。
でも今度のそれは、理由を知りたいというより、あまりにも異常な現実をそのまま飲み込めないための言葉だった。
「外へ漏らしたら」
冬真は言う。
「次はお前か、家か、村の誰かに寄る」
短い答え。
でも、その一言で十分だった。
この人は本当に、選んでいたのだ。
自分の中へ沈めることを。
ずっと。
「……いつから」
喉が少し詰まる。
「中学の頃には、もう時々やってた」
千歳は目を見開く。
「そんな前から」
「お前が熱出さなくなった頃だ」
冬真は言う。
「代わりに俺の方が、理由なく寝込んだり、朝起きたとき腕が痺れてたり」
一拍置く。
「たまに、前日の夜が抜けたりした」
それはもう、“少し変だ”で済ませていい話ではなかった。
千歳は囲炉裏の火を見つめる。
揺れる赤が、ひどく遠い。
「……誰が知ってたの」
問うと、冬真は答えた。
「最初は先代」
「……」
「綾人も途中から」
「お母さんは」
「細かくは知らない」
「……」
「でも、何かあるとは気づいてたかもしれない」
千歳は息を吸う。
苦しい。
怒りたい。
でも、その向き先が多すぎて、どこにも定まらない。
「それで」
千歳はゆっくり言う。
「抱えたものって、消えなかったの」
冬真は少しだけ顔を上げた。
その目にあるものを見た瞬間、千歳は嫌な予感を覚える。
たぶん、ここから先が本題なのだ。
「消えるものもあった」
冬真が言う。
「時間をかけて薄くなる分も」
「でも」
「残るものもあった」
千歳の呼吸が浅くなる。
「残るって」
冬真は一瞬だけ目を閉じた。
そして、開く。
「沈殿する」
低い声。
「体の奥に」
「……」
「一回ごとの量は多くなくても、年単位で溜まれば、ただの肩代わりじゃなくなる」
それが、第3章第5話で綾人が言っていた“形”なのだと、千歳はやっと本当の意味で理解した。
量ではない。
積もり方だ。
長く体内へ沈めたことで、冬真そのものが怪異の流れに馴染み始めてしまった。
「じゃあ」
千歳の声が掠れる。
「今、向こうがあなたを器でいいって言うのは」
「俺の中に、もう道があるからだ」
冬真は言った。
その一言で、仮殿の空気が止まった気がした。
千歳は何も言えなかった。
言葉にしたくなかった。
でも、もう聞いてしまった。
道がある。
怪異が通ってきた道が、冬真の中に。
長年の肩代わりで開いた道が。
「……何それ」
ようやく出た声は、ほとんど掠れていた。
「そんなの」
喉の奥が熱い。
「そんなの、もう守るとかじゃないじゃん」
冬真は答えない。
だから千歳は続ける。
「あなた、自分の中に通り道作ってまで」
視界の端が少し滲む。
「それで、今まで平気な顔してたの」
「平気じゃなかった」
冬真が低く返す。
千歳は顔を上げる。
「でも、言わなかった」
「……」
「言ったら、お前が止めるから」
一拍置く。
「あるいは、自分が行くって言うから」
それが本音なのだと、もうわかる。
ずっと、この人の選択はそこにあった。
自分より先に千歳が行く可能性を消すためなら、自分の中に道を作ることすら選んだ。
「最低」
思わず零れる。
でも、その言葉に責める力はあまりなかった。
責めるより先に、苦しさの方が大きい。
「知ってる」
冬真が返す。
「知ってるじゃない」
千歳は言う。
「そういうの、ほんとにやめて」
声が少しだけ震える。
「やめられるなら、もっと前にやめてた」
冬真の声も低く掠れていた。
「でも、もうそういう問題じゃない」
千歳は唇を噛む。
そうだ。
もう“やめるかどうか”の話ではない。
すでに起きてしまったことの総量が、今目の前にある。
「……どこまで」
千歳はゆっくり問う。
「どこまで、通り道になってるの」
冬真は答えるまでに、また長く時間をかけた。
言いたくないのだろう。
でも、今夜は逃げないと決めたのだ。
「深い呼びが来ると」
やがて、低い声。
「たまに、先に気配がわかる」
「うん」
「人の背中に残滓が見える」
「……」
「名前だけ残ることがある」
一つずつ、静かに置かれる。
「それと」
そこで少しだけ言葉が詰まる。
「何」
千歳が促すと、冬真は目を伏せたまま言った。
「たまに」
掠れた声。
「向こうから見えてる感じがする」
千歳の背筋に冷たいものが走る。
「見えてる」
「こっちが覗いてるだけじゃなくて」
冬真は続ける。
「向こうも、俺を“器の形”として見てる」
その言葉が、ひどく生々しくて嫌だった。
ただ狙われている、ではない。
向こうから、もう形として認識され始めている。
「……それ」
千歳は喉を鳴らす。
「いつから」
「はっきりしたのは」
一拍置く。
「契約を切った夜のあと」
「じゃあ」
「でも、その前から片鱗はあった」
もう十分だった。
十分すぎる。
千歳は膝の上で指を強く握りしめる。
爪が食い込む痛みがないと、今聞いていることがそのまま自分を崩してしまいそうだった。
◆
そのとき、不意に仮殿の奥の空気が揺れた。
からん。
鈴の音が、たった一度だけ鳴る。
二人とも同時に顔を上げる。
外ではない。
もっと近い。
仮殿の中の空気が、ほんの薄く冷えた。
「……来た」
冬真が低く言う。
その声の変化で、千歳の心臓が跳ねる。
昼間までとは違う。
もっと直接、もっと近い。
「冬真」
すぐに名を呼ぶ。
冬真の視線がこちらへ向く。
まだ焦点は合っている。
でも、その奥に何か別のものが揺れ始めていた。
「今、どこ」
千歳が言う。
「仮殿」
「わたしは」
「千歳」
「冬真」
「……」
「わたし見て」
冬真は少し遅れて、ちゃんと千歳を見る。
まだ大丈夫。
でも、長くは持たない気がした。
戸が開き、綾人が戻ってくる。
二人の空気を見るなり、顔色が変わる。
「深いか」
綾人が低く問う。
「前よりは」
冬真が答える。
「来てる」
綾人はすぐに札を二枚切り、囲炉裏の左右へ置く。
白い紙が淡く光る。
「今夜はここで固定する」
「……」
「冬真、外を見るな」
「わかってる」
そう返しながらも、冬真の指先は少しだけ強張っていた。
千歳はそこで、胸の奥でひとつだけはっきりした。
もう次は、話の続きだけでは終わらない。
この“道”をどう断つかという段階に入ってしまう。
「……綾人さん」
低く呼ぶ。
「何だ」
「今の話」
一拍置く。
「道があるって」
綾人は少しだけ目を閉じ、それから頷いた。
「聞いたか」
「うん」
「なら、もう次の段だ」
綾人の声は静かだった。
「通り道になったものを、どう遮るか考える」
千歳は息を呑む。
遮る。
つまり、まだ完全に終わりではないが、手のない話でもないということだ。
けれど冬真は、少しだけ苦い顔をした。
「簡単に言うな」
「簡単ではない」
綾人は答える。
「だが、もうそこを避ける方が危ない」




