第3章 第13話:村の答えと、まだ足りない真実
戸が開く前から、誰が来たのかはわかっていた。
雪を踏む足音の重さ。
遠慮を装った間の取り方。
それでも内側へ踏み込む気配を隠しきれていない歩き方。
村長と、老神職。
それに、世話役の男が一人。
綾人が戸を開けると、冬の白い光と一緒に三人の影が仮殿の前へ差し込んだ。
千歳は囲炉裏の前に座ったまま、その気配をじっと受け止める。
少し前までなら、こういう場では自分の方が小さくなっていたかもしれない。
でも今は違う。
怖い。
それでも、ここで黙ったまま座っているだけの自分には戻りたくなかった。
「お時間を取らせますな」
村長が柔らかい声で言う。
「そう思うなら短くしろ」
冬真が低く返した。
老神職の眉がぴくりと動く。
それを綾人が一歩前に出る形で遮った。
「要件を」
淡々とした声。
村長は少しだけ苦笑する。
「供物の件で来たのではありません」
「なら何だ」
冬真の声は短い。
「村として」
村長は言葉を選ぶように間を置いた。
「この一件を、どう収めるかを話したいのです」
千歳の胸がひやりとする。
収める。
またその言葉だ。
人の怖さも、痛みも、曖昧なまま包み込んで見えなくするための言葉みたいで嫌だった。
「収める、ですか」
千歳が静かに口を開く。
三人の視線が向く。
村長は少しだけ目を細めた。
「そうです、千歳さん。もう儀は行われない」
「……」
「ならば今後は、村の不安を広げぬ形で」
そこまで聞いて、千歳は小さく息を吸う。
「つまり」
低く言う。
「なかったことみたいにしたいってことですか」
空気がわずかに止まる。
村長の笑みが、少しだけ薄くなる。
「そういう言い方は」
「でも近いですよね」
千歳は続けた。
「供物の話は止まった」
「……」
「怪異のことも、村のことも、今はもう皆さん言葉を選んでる」
一拍置く。
「でも、本当は怖いんですよね」
老神職が低く言う。
「怖いのはそちらだけではない」
「知ってます」
千歳はすぐに返した。
「でも、だからって、わたしの方だけが飲み込めばいい話じゃない」
その一言に、村長の目が少しだけ険しくなる。
「千歳さん」
「村の不安を消したいなら」
千歳は止まらなかった。
「“供物がいなくなって困る”みたいな目でわたしを見るの、まずやめてください」
世話役の男が居心地悪そうに視線を逸らす。
老神職は露骨に顔をしかめた。
「誰もそんな」
村長が言いかける。
「見てました」
千歳は言い切った。
「わたし、昨日村に出ました」
一拍置く。
「前みたいに遠巻きじゃなくて、今度は“止めた側”を見る目でした」
仮殿の中が静かになる。
誰もすぐには否定しない。
それが答えみたいだった。
「……千歳」
冬真が低く呼ぶ。
落ち着け、ではない。
でも、一人で全部を受けるな、という声に近かった。
千歳は小さく息を整える。
「儀をなかったことにはできない」
今度は綾人が言った。
「契約を切ったことも、供物の証が壊れたことも、村の因習がそこまで追い込んだことも」
村長が顔を上げる。
「綾人さま、それは」
「事実だ」
綾人は冷たく返した。
「収めるというなら、まずそこを曖昧にするな」
村長はしばらく黙っていた。
やがて、長い息を吐く。
「……では、言い直しましょう」
声が少しだけ重くなる。
「村は今、不安定です」
そこは隠さなかった。
「供物の儀を前提にしてきたものが崩れた」
「……」
「この先どうするのか、村人に示さねばならない」
千歳はその言葉を聞きながら、嫌な納得を覚える。
この人たちは、千歳を傷つけたいだけではない。
自分たちが拠ってきた秩序が壊れて、どう立て直せばいいかわからないのだ。
だからこそ、なおさら厄介だった。
「で」
冬真が低く言う。
「何が言いたい」
村長は少しだけ冬真を見た。
「しばらくのあいだ」
一拍置く。
「千歳さんには社の監督下にいてもらいたい」
その瞬間、千歳の胸が強く冷える。
志乃が息を呑む気配がした。
老神職は当然のように黙っている。
「……何それ」
千歳が掠れた声で言う。
「監督下?」
「誤解しないでいただきたい」
村長は穏やかな調子を崩さない。
「拘束ではない。ただ、残滓もまだある。村としても経過を見る必要が」
「ふざけるな」
冬真の声が、はっきり低く落ちる。
その一言で、空気がぴんと張る。
村長が視線を向ける。
冬真は仮殿の壁から身体を起こし、真っ直ぐ村長を見る。
「供物は要らない」
一語ずつ押し出すように言う。
「でも村の管理下には置く、ってか」
「そういう話では」
「同じだ」
冬真は切って捨てる。
「名前を変えただけだろ」
老神職が低く言う。
「君は感情で話しすぎる」
「結構だ」
冬真は即答した。
「そもそも、ここまで千歳一人に押しつけてきた連中が、今さら“村として”とか言うな」
千歳はその横顔を見る。
やっぱり、この人はそういうところだけは迷わない。
でも今は、その迷わなさが少し怖い。
感情が強くなるほど、呼びが入りやすくなるかもしれないと思ってしまうからだ。
「冬真」
千歳が小さく呼ぶ。
冬真はわずかに目を向けた。
その瞬間、千歳は気づく。
焦点は合っている。
でも、その奥に妙な熱がある。
少しだけ、危うい。
「……大丈夫」
冬真が言う。
千歳は反射で首を振りかけて、でも今はそこを押し返すより先に、別の言葉を選んだ。
「今、どこ」
冬真の目が少しだけ動く。
「何だ急に」
「いいから」
千歳は静かに言う。
「どこにいる」
村長たちが怪訝そうな顔をする。
でも千歳は構わなかった。
冬真は一拍だけ黙り、それから答える。
「……仮殿」
「わたしは」
「千歳」
そこは迷わない。
千歳は胸の奥で小さく息を吐く。
まだ戻せる。
まだ、深くは行っていない。
綾人もそれを見ていたらしい。
ごくわずかに目を細めると、そのまま村長へ向き直った。
「監督下の話は却下する」
低い声。
「残滓を見るのはこちらでやる」
「しかし」
「村の不安の処理まで、千歳に背負わせるな」
その一言は重かった。
村長も、今度は簡単には返せない。
長い沈黙。
やがて村長は、静かに言う。
「では、経過の報告だけでも」
「必要な範囲で伝える」
綾人が答えた。
「それ以上は踏み込むな」
老神職はまだ納得していない顔だったが、村長は小さく頷いた。
今ここで押し切れないことを悟ったのだろう。
やがて三人は去っていく。
雪を踏む音が遠ざかる。
板戸が閉まる。
その瞬間、仮殿の空気が少しだけ揺れた。
「っ……」
冬真が喉元を押さえる。
千歳の心臓が跳ねる。
「冬真!」
綾人がすぐに近づく。
千歳も一歩踏み出しかけて、でも綾人の視線でぎりぎり止まる。
「呼びか」
綾人が低く問う。
冬真は呼吸を整えようとしながら、小さく首を振る。
「……違う」
「残滓?」
「たぶん」
一拍置く。
「村長の後ろ」
千歳の背筋が冷える。
「何」
「ついてた」
掠れた声。
「薄いのが」
綾人の表情が険しくなる。
「やはり村に残っているか」
「残ってるどころじゃない」
冬真が低く言う。
「寄りやすいの探してる」
その言葉に、仮殿の中がまた静まり返る。
村だけの問題ではない。
怪異はまだ、切れた契約の残骸の中で、新しい結び先を探している。
しかも、それを冬真は拾えてしまう。
「……ほら」
千歳が小さく言う。
「やっぱり時間ない」
冬真は答えない。
でも、その顔にはもうさっきまでの強がりの余地が少なかった。
「続き」
千歳は静かに言う。
「まだ足りない話」
冬真が目を向ける。
「今、聞く」
「……」
「次に深く来る前に、って言った」
一拍置く。
「もう、前に来てる」
綾人が横から低く言った。
「千歳の言う通りだ」
冬真は少しだけ目を閉じる。
その仕草は、観念にも見えた。
「……わかった」
掠れた声。
「今夜」
千歳が息を止める。
「今夜、全部じゃなくても」
冬真は続ける。
「一番まずいところから話す」
その言い方に、胸の奥がざわつく。
一番まずいところ。
つまり、これまで意識的に外してきた核だ。
「逃げない?」
千歳が問うと、冬真は少しだけ眉を寄せた。
「しつこいな」
「大事だから」
冬真は小さく息を吐く。
「……逃げない」
その言葉は、今までのどれより重かった。




