第3章 第12話:まだ間に合ううちに
朝は、来てしまえばあまりにも普通だった。
仮殿の板戸の隙間から差し込む光は白く、囲炉裏の火は小さく、外では雪の上を鳥が跳ねる気配までした。
そんなふうに朝が普通であればあるほど、千歳は胸の奥の不安を持て余した。
明るいのに、何も軽くならない。
昨夜、村の青年が来た。
村長がもう一度話したいと言った。
しかも冬真は、その青年の顔を知っているのに名前が出てこなかった。
そして何より、
**次に深く来る前に話す**
と、冬真は言った。
千歳は囲炉裏のそばで膝を抱えそうになって、途中でやめる。
弱くなりたくないわけではない。
ただ、今その格好をしたら、本当に昨日までの“守られるだけの自分”へ戻ってしまいそうだった。
仮殿の奥では、冬真がまだ目を閉じていた。
眠っているように見える。
でも、深く眠れている顔ではない。
眉間に残る薄い皺と、時々かすかに乱れる呼吸が、眠りの浅さをそのまま表している。
千歳は少しだけ視線を落とす。
名前が残る。
他が抜けていく。
その偏りが壊れ方の一種なのだと、昨夜はっきり言葉にされたばかりだった。
「……最悪」
小さく呟く。
でも、そこで終わりたくない。
そのとき、板戸が静かに開いた。
綾人だった。
「起きているな」
「寝てないだけ」
千歳が返すと、綾人は小さく頷く。
「そうだろうな」
そのまま囲炉裏の向こうへ座る。
「冬真はまだか」
「たぶん浅いです」
「だろうな」
綾人はそれ以上、朝の挨拶みたいなことは言わなかった。
代わりに、すぐに本題を置く。
「村長たちは昼前に来る」
千歳の胸が少しだけ固くなる。
「やっぱり」
「供物のことを蒸し返すつもりではない」
綾人は言う。
「だが、“村としてどう収めるか”を決めたがっている」
「収める」
「不安の行き先を欲しがっているだけだ」
冷たい言い方だった。
でも、たぶんその通りなのだろう。
千歳は小さく息を吐く。
怪異だけではない。
人の側もまた、何かを決着させたがっている。
それが今のこの村なのだ。
「その前に」
綾人が静かに言う。
「話させる」
千歳は顔を上げる。
「冬真に」
「……」
「約束したんだろう」
その言い方に、千歳の胸が少しだけ詰まる。
綾人も、もう猶予がないと思っているのだ。
「はい」
小さく頷く。
「聞きます」
「聞け」
綾人は短く言った。
「ここまで来て、また半端に止める方が危ない」
◆
冬真が目を覚ましたのは、その少しあとだった。
千歳が薬缶の湯気を見ていたとき、不意に衣擦れの音がする。
顔を向けると、冬真がゆっくり目を開いていた。
「……朝か」
掠れた声。
「うん」
千歳はすぐ答えた。
「おはよう」
冬真は少しだけ目を細める。
「何だその顔」
「何でもない」
「嘘」
「そっちこそ」
いつもの返し。
でも今日の千歳は、そのまま流さなかった。
「冬真」
低く呼ぶ。
冬真の表情が、ほんの少しだけ止まる。
わかっているのだろう。
何の話をするのか。
「……今か」
「今」
千歳ははっきり言った。
「昼前に村長たちが来るんでしょ」
「綾人」
冬真が少しだけ顔をしかめる。
「だいたい余計なこと言う」
「でも必要」
綾人が淡々と返す。
「もう先延ばしにする段階ではない」
仮殿の空気が、少しずつ張っていく。
囲炉裏の火だけが、場違いみたいに小さく鳴っていた。
「……全部は無理だ」
冬真が最初に言った。
「知ってる」
千歳は答える。
「でも、今聞きたいのはそこ」
「どこだよ」
「どれだけ失くしてきたのか」
一拍置く。
「何を引き換えに、ここまで守ってきたのか」
その一言に、冬真の目の色が変わる。
逃げたいのだとわかる。
でも、もう逃がしたくなかった。
「千歳」
低い声。
「聞く」
千歳は遮った。
「今ここで聞かないと、また次に何かが抜ける」
「……」
「それが怖い」
声は少しだけ震えた。
「怖いから、ちゃんと聞きたい」
冬真はしばらく黙っていた。
長い沈黙。
でも、その沈黙は以前ほど閉ざしたものではない。
言うしかないとわかっていて、その順番を自分の中で探している沈黙だ。
「最初は」
やがて、掠れた声が落ちる。
「本当に、少しだけだった」
千歳は黙って聞く。
「熱とか、夢とか、そういうので済んでた」
「うん」
「でも回数が増えた」
一拍置く。
「お前が呼ばれるたび、全部じゃなくても流れを割る」
「……」
「そうすると、次は俺の方が呼びやすくなる」
千歳の指先が冷たくなる。
「それでもやめなかった」
言葉は平坦だった。
でも平坦だからこそ、そこに積み重なった時間の長さがにじむ。
「何を失くしたの」
千歳が静かに問う。
「最初は、体力」
冬真が答える。
「よく寝込んだ」
「……」
「次に、夜の記憶」
「夜の?」
「呼ばれた夢と、起きてからの境が曖昧になった」
千歳は息を呑む。
それはつまり、普通の睡眠の時間すら削られていったということだ。
「それから」
冬真は少しだけ目を伏せた。
「細かいこと」
「細かいことって」
「その日の話とか」
低い声。
「誰と何話したとか、そういうの」
千歳の胸が少しずつ重く沈む。
今起きている“抜け”は、突然のものではなかったのだ。
もっとずっと前から、少しずつ、同じ形で削れてきた。
「……じゃあ」
千歳は喉を鳴らす。
「今のは、その続きなんだ」
「ああ」
冬真は否定しなかった。
「契約を切る最後の返りで、一気に進んだだけだ」
その一言が、やけに残酷だった。
一気に進んだ。
つまり、もうだいぶ前から始まっていたものが、あの夜で表に出てしまったのだ。
「どれくらい」
千歳は続ける。
「どれくらい前から、覚えづらかったの」
冬真は少しだけ笑うみたいに息を吐く。
「正確には覚えてない」
「それ、そういう意味で言わないで」
思わず返すと、冬真は小さく黙った。
「……悪い」
「謝ってほしいわけじゃない」
「知ってる」
「なら」
「でも」
冬真は言葉を継ぐ。
「中学くらいから、変だとは思ってた」
千歳は目を見開く。
「そんな前」
「お前が熱出す夜が減った頃」
一拍置く。
「代わりに、俺が朝だるかったり、授業のこと飛ばしたり」
千歳は何も言えなかった。
中学。
それはもう、“子どもの頃のぼんやりした話”ではない。
自分と同じ時間を過ごし、同じ教室にいて、同じ日々を送っていたはずの時期だ。
その裏で、こんなふうに削れていたなんて。
「……何で」
また同じ問いが出る。
「だから」
冬真が少しだけ眉を寄せる。
「お前が嫌だったからだろ」
「そうじゃなくて」
千歳は声を落とす。
「そこまで削れて、自分でも変だって思ってたのに」
一拍置く。
「何で、それでも続けたの」
冬真は答えなかった。
千歳はその沈黙が少しだけ怖かった。
でも、逃がしたくない。
「冬真」
「……やめたら」
やがて、低い声が落ちる。
「次はお前に戻る」
それだけだった。
たったそれだけ。
でも、その一言で十分だった。
やめられなかったのだ。
優しいからとか、自己犠牲的だからとか、そんなきれいな言葉ではなく。
やめた先に、自分へ戻る未来が見えていたから。
千歳は目を閉じたくなる。
苦しい。
でも、目は逸らせなかった。
「……じゃあ」
やっとのことで声を出す。
「わたしが知らないうちに、そうやって何回も」
「ああ」
「何年も」
「ああ」
「ずっと?」
冬真は少しだけ間を置いて、低く答えた。
「たぶんな」
そこで、千歳の中で何かが静かにきしむ。
最初から、少しずつ。
雪の日のあとも。
中学の頃も。
たぶん、その先も。
この人は、ずっと。
「……っ」
喉がうまく動かない。
泣きたくない。
でも、息をするのが少し苦しい。
「千歳」
冬真が呼ぶ。
その声だけは、まだはっきりしている。
「今の顔」
「何」
「責めてる顔じゃないな」
千歳は思わず目を上げる。
「責められないよ」
やっと出た声は、少し掠れていた。
「こんなの聞かされたら」
一拍置く。
「怒りたいのに、怒る前に苦しくなる」
冬真は何も言わなかった。
でも、少しだけ視線が揺れる。
たぶん、そこまで言わせるつもりではなかったのだろう。
◆
そのとき、板戸の向こうで、かすかに雪を踏む音がした。
三人の空気が一瞬で引き締まる。
綾人がすぐに立ち上がる。
「村長たちだ」
低い声。
千歳は反射で息を整える。
まだ全部は聞けていない。
でも今の話だけでも、胸の中はもう十分に重かった。
「続きは」
千歳が冬真を見る。
冬真はほんの少しだけ目を閉じ、それから開いた。
「……まだある」
掠れた声。
「でも、今はこれ以上無理だ」
その顔を見れば、嘘ではないとわかる。
言葉そのものが、もう体力みたいに削れているのだ。
「……うん」
千歳は小さく頷いた。
「でも、ここで終わらせない」
「知ってる」
冬真が返す。
戸口で綾人が低く言う。
「来るぞ」
仮殿の外から、遠慮を装った咳払いが聞こえる。
村長の声も、老神職の気配も混じっていた。
内側では真実が少しずつ崩れ、外側では村が答えを求めて来る。
その両方が、もう同時に押し寄せていた。




