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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第11話:次に深く来る前に


 夜は、仮殿の外でじっと息を潜めていた。


 鈴の音はもう鳴っていない。

 札が焼ける音も、風に混じる気配も、今はない。

 それでも、三人ともわかっていた。

 静かなのは、終わったからではない。

 次に来る前の、妙に整いすぎた沈黙なのだと。


 囲炉裏の火は細く赤い。

 千歳はその火の向こう、冬真を見ていた。


 さっき、冬真は言った。

 今じゃない。でも、次に深く来る前に話すと。

 それは完全な約束ではない。

 でも、これまでの冬真が頑なに避けてきた核心へ、初めて自分から足をかけた言葉だった。


 その重さを思うと、千歳は今すぐ続きを聞きたくなる。

 同時に、今無理に開けば、言葉ごと壊れる気もした。


「……千歳」


 低い声に、顔を上げる。

 綾人だった。

 戸口のそばで、外周の札を最後に確かめ終えたらしい。指先に薄く灰がついている。


「何」

「今夜はここまでにしろ」

 千歳は少しだけ眉を寄せた。

「何を」

「追うのをだ」

 綾人は囲炉裏の火を一度見てから言う。

「冬真の呼びも、お前の記憶も、どちらも今は深く掘るな」

「でも」

「今夜これ以上動けば、向こうが入りやすくなる」

 その言い方は冷静だった。

 だからこそ、千歳も反論を飲み込むしかない。


「……わかった」

 小さく頷く。


 綾人はそれ以上何も言わず、仮殿の奥へ目を向けた。

 冬真は壁へ背を預けたまま座っている。

 表情は静かだ。

 でも、その静けさが穏やかなものではないことくらい、千歳にもわかった。


「お前もだ」

 綾人が低く言う。

 冬真が少しだけ目を上げる。

「何が」

「考え込みすぎるな」

「無理だろ」

「知っている」

 綾人は淡々と返した。

「だから言っている」


 短い沈黙。

 それから冬真は小さく息を吐く。

「……お前、最近説教くさいな」

「今さらだ」

「それもそうか」

 その会話が、少しだけいつもに近い。

 でも、やっぱり完全には戻らない。

 戻らないまま、次の段階へ進もうとしている。


     ◆


 綾人が仮眠を取るため奥へ下がったあと、仮殿にはまた千歳と冬真の二人だけが残った。


 囲炉裏の火。

 板壁のきしみ。

 外の雪が沈む気配。


 静かなものばかりなのに、千歳の胸の中だけが落ち着かない。

 次に深く来る前に話す。

 その約束が、むしろ今の時間を不安定にしていた。


「……寝ないの」


 千歳が小さく言うと、冬真は目を閉じたまま答えた。

「お前こそ」

「今日は無理」

「だろうな」

 即答されて、少しだけむっとする。

「何それ」

「その顔してる」

「便利だね」

「事実だからな」


 短いやり取りのあと、千歳は少しだけ息を吐く。

 こういう会話ができる時間が、今はやけに惜しい。

 いつまで普通に続けられるのか、わからないからだ。


「ねえ」

 千歳が呼ぶ。


「何だ」

「さっきの約束」

 一拍置く。

「ほんとに、守る?」


 冬真は目を開けた。

 囲炉裏の赤い光が、その瞳の奥で小さく揺れる。


「何回確認するんだ」

 低い声。

「大事だから」

「……」

「逃げないでって、言った」

 千歳はまっすぐ続ける。

「今度は、ちゃんと聞きたい」

 冬真は少しだけ目を伏せた。

 長い沈黙。

 それから、掠れた声で言う。


「逃げるつもりはない」

 千歳の胸が少しだけ緩む。

 でも、それだけでは終われなかった。


「つもり、じゃなくて」

 冬真が少しだけ眉を寄せる。

「うるさいな」

「うるさくなるよ」

 千歳は言う。

「だって、今まで何回も、そういうふうに言って肝心なとこ濁したから」

「……」

「わたし、もうそこ誤魔化されるの嫌」


 冬真は何も言わなかった。

 それが答えなのか、言葉を探しているのか、千歳には一瞬わからない。

 だがやがて、冬真は小さく息を吐いた。


「……じゃあ、言い方変える」

「何」

「次に深く来る前に、話す」

 そこで一拍置く。

「それでいいか」

 千歳は少しだけ目を見開く。

 さっきより、少しだけはっきりした言い方だった。


「……うん」

 小さく頷く。

「それなら」

「ただし」

 まただ、と千歳は思う。

「今ここで全部聞き出そうとするな」

「今はしない」

「本当に?」

「そこ信用ない?」

「少し」

「ひどい」

「事実」

 思わず、千歳は小さく笑ってしまう。

 その笑いは軽くない。

 でも、重すぎるだけでもない。

 今はたぶん、こういう少しの温度が必要だった。


     ◆


 夜がさらに深くなるにつれて、仮殿の中の空気が少しずつ変わっていった。


 怪異の気配ではない。

 もっと内側からくる変化だ。


 最初に気づいたのは、冬真の視線だった。

 囲炉裏の火を見ているようでいて、時々ほんの少しだけ遠くへ行く。

 何かを思い出そうとしているのか、逆に何かがほどけているのか、千歳にはわからない。


「冬真」

 静かに呼ぶ。

 冬真は少し遅れて顔を上げた。

「何だ」

「今、どこ見てた」

「……火」

「ほんとに?」

「ほんとに」

 でもその返答に、わずかな間があった。


 千歳は膝の上で手を握る。

 昨日、綾人に教わったことを思い出す。

 残滓なら、その場を離せば薄れる。

 呼びなら、離れても追う。

 そして、本人に自覚があるうちはまだ引き戻しやすい。


「火、何色」

 冬真が少しだけ眉を寄せる。

「何だよ急に」

「いいから」

「……赤」

「わたしは」

「千歳」

「場所は」

「仮殿」

 返答はちゃんと返ってきた。

 千歳は小さく息を吐く。

 大丈夫。まだ戻せる。


 だが次の瞬間、冬真の表情がわずかに変わった。


「……何だ」

 自分へ言うみたいな声。


「どうしたの」

 千歳が問うと、冬真はこめかみを押さえる。

「今」

「うん」

「……何で、お前が泣きそうな顔してるのか、一瞬わからなかった」

 胸が、ぎゅっと縮む。

 記憶が飛ぶのとは少し違う。

 感情の繋がりが、一瞬だけ切れかけたみたいな言い方だった。


「泣いてない」

 千歳はとっさに返す。

「泣きそうではあったけど」

 そう言うと、冬真は少しだけ目を細める。

「だろうな」

 その返しに、少しだけ救われる。

 まだ自分を見失ってはいない。


 でも、その“まだ”がどれだけ続くのか、もうわからなかった。


     ◆


 そのとき、戸口の外で、雪を踏む音がした。


 三人とも同時に反応する。

 綾人が奥からすぐに戻ってきた。

 仮殿の空気が、一瞬で張りつめる。


「誰」

 千歳が小さく言う。


 返事の代わりに、戸の向こうから低い声がした。


「俺だ」


 男の声。

 村長ではない。

 綾人が一歩前へ出て、札へ手をかけたまま戸を少し開ける。


 立っていたのは、村の青年だった。

 千歳とも冬真とも同じくらいの年頃で、昔は祭りの準備で顔を合わせることもあった男だ。

 だが今は、妙に固い顔をしている。


「何だ」

 綾人が問う。


「村長が」

 青年は言う。

「明日、もう一度話したいと」

 千歳の胸がひやりとする。

「何の」

 綾人の声は冷たい。


「供物のことじゃない」

 青年は少しだけ言い淀む。

「でも……このまま、何もなかったことにはできないって」

 その言い方だけで十分だった。

 供物の儀が止まっても、村はまだ終わっていない。

 何かしらの落とし前を求めている。

 あるいは、不安の行き場を探している。


「伝言はそれだけか」

 綾人が言うと、青年は頷いた。

 だが去る前に、一度だけ冬真の方を見た。

 その視線に、千歳は妙な引っかかりを覚える。

 ただの様子見ではない。

 もっと探るような目だ。


 戸が閉まる。

 雪を踏む音が遠ざかる。


「……面倒だな」

 冬真が低く言う。

 けれど、その声にはいつもと違う、ほんの少しの遅れがあった。


「冬真?」

 千歳が振り向く。


 冬真は戸口の方を見たまま、少しだけ眉を寄せる。

「今のやつ」

「うん」

「……顔、知ってるのに」

 一拍置く。

「名前が出てこない」

 千歳の胸が冷える。

 まただ。

 しかも今度は、村の顔見知り。

 日常の輪郭が、少しずつ確実に削られている。


 綾人が低く言った。

「進んでいるな」

「……」

「だから言った」

 綾人の視線が冬真へ向く。

「次に深く来る前に、時間はもう長くない」


 仮殿の中へ、その言葉が重く落ちる。


 千歳は冬真を見た。

 冬真もまた、視線をこちらへ向ける。

 いつもなら、この瞬間に何か軽口を挟むか、話を逸らすかしただろう。

 でも今はしない。

 できないのだ。


「……明日」

 千歳が静かに言う。


 綾人が顔を向ける。

「何だ」

「村長たちと話す前に」

 一拍置く。

「聞きます」

 冬真の目がほんの少しだけ動く。

「約束どおり」

 千歳は続ける。

「次に深く来る前に」

 冬真は長く、長く黙っていた。

 やがて、ほんの少しだけ目を閉じる。


「……ああ」

 掠れた声。

「その前に話す」


 今度は、もう千歳もそれ以上は確認しなかった。

 確認するより先に、時間そのものがなくなり始めているとわかったからだ。

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