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冬の底で君を呼ぶ  作者: 最後に残った形


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第3章 第10話:それでも、まだ言えない


 鈴の音は、それきり鳴らなかった。


 けれど仮殿の中には、たった一度の音だけで十分すぎるほどの緊張が残っていた。

 供物が無理なら器でいい。

 今度は冬真へ向かっている。

 その事実を、もう誰も否定できない。


 囲炉裏の火は小さい。

 でも、その小さな火のまわりにいる三人の空気は、昨日までとは明らかに違っていた。


「次の対策を組む」

 綾人が低く言う。

「今夜のうちに、少なくとも“呼びをそのまま通さない形”を作る」

「どうやって」

 千歳が問う。


 綾人は仮殿の床へ視線を落とし、指先で灰の線をなぞる。

「千歳へ向けていた時と違い、今回は核が定まっていない」

「……」

「つまり、完全に結びきる前なら遮れる」

 冬真が壁に背を預けたまま言う。

「結びきったら」

「面倒では済まん」

 綾人は即答した。

「呼びではなく、定着になる」

 千歳は喉の奥が冷えるのを感じた。

 定着。

 つまり、器として決まってしまうということだ。


「だから」

 綾人は続ける。

「今夜から数日のあいだ、お前を単独にしない」

 冬真がすぐに顔をしかめる。

「面倒だな」

「まだ言うか」

「本音だ」

「知っている」

 綾人は淡々と返し、さらに言葉を重ねる。

「夜は必ず仮殿か社内。札を切らすな。記憶が飛んだらその場で言え」

「……」

「千歳」

「はい」

「お前は昨日までより、さらに近くで見ろ」

 千歳は頷いた。

「わかりました」

「ただし」

 綾人は視線を向ける。

「引き止めることと、感情だけで飛び込むことは別だ」

「……うん」

「そこを間違えるな」

「間違えない」

 そう答えたが、胸の奥ではまったく自信がなかった。


 もし本当に冬真が向こうへ引かれたら。

 もし目の前で、名前も場所も曖昧になっていったら。

 そのとき冷静でいられるのか、自分でもわからない。


「じゃあ」

 冬真が低く言う。

「今夜から俺は仮殿に固定か」

「そうだ」

 綾人が頷く。

「お前が嫌でもな」

「嫌だ」

「知っている」

 千歳は思わず少しだけ息を吐いた。

 こういうやり取りができているうちは、まだ完全に呑まれてはいない。

 そのことだけが、今は救いだった。


     ◆


 話が一段落したあと、綾人は外周の札を調整するため、再び戸口の方へ下がった。


 仮殿には、囲炉裏を挟んで千歳と冬真が残る。

 静かだった。

 でも、この静けさはもう、穏やかではない。

 その下に、怪異の次の手がじっと息を潜めている。


「……ねえ」

 千歳が静かに呼ぶ。


 冬真が視線だけを向ける。

「何だ」

「さっきの話」

「どれ」

「定着とか、器になるとか」

 一拍置く。

「それ、前から少しずつ近づいてたんだよね」


 冬真はすぐには答えなかった。

 囲炉裏の火が、かすかに揺れる。

 沈黙の長さだけで、千歳にはわかる。

 図星なのだ。


「……ああ」

 やがて、低い声が落ちる。


 千歳の胸がまた少しだけ冷える。

 認めた。

 全部ではなくても、認めた。


「どこから」

 問うと、冬真は少しだけ目を伏せた。

「わからない」

「嘘」

「細かい線引きは、本当にわからない」

 その答えはたぶん本当だろう。

 長く曖昧な肩代わりを繰り返してきたのだ。どこから“異常”になったかなんて、本人にだって正確には掴めないのかもしれない。


「でも」

 千歳は続ける。

「前から、自分でも変だったんでしょ」

「……」

「じゃなきゃ、あんなに平気な顔でいられない」


 冬真は少しだけ眉を寄せた。

「褒めてないよ」

 千歳が先に言う。

「知ってる」

「よかった」

 その短いやり取りのあと、冬真は小さく息を吐いた。


「気づいたのは」

 低い声。

「たぶん、覚えづらくなってからだ」

 千歳の喉が少しだけ詰まる。

「覚えづらく」

「どうでもいいことから抜ける」

「……」

「でも、お前のことだけは妙に残る」

 その言葉は、第3章第8話で聞いたものと同じだった。

 でも今は、少し違う意味で刺さる。

 これはただの“特別”じゃない。

 歪みの兆候なのだ。


「……どうでもよくないよ」

 千歳が小さく言う。


 冬真が少しだけ目を細める。

「何が」

「抜ける方」

 一拍置く。

「どうでもいいことなんて、たぶんない」

 冬真は何も言わない。

 でも、その目にわずかに何かが揺れた。

 意外そうでもあり、少し困ったようでもあった。


「井戸の前のことも」

 千歳は続ける。

「さっきの会話の端も」

 拳を少しだけ握る。

「全部、わたしにはどうでもよくない」


 仮殿の空気が静かに張る。

 冬真は視線を逸らさなかった。

 けれど、返す言葉を探しているようだった。


「……面倒だな」

 やっと出たのは、そんな言葉だった。


「知ってる」

 千歳は即座に返す。

「でも、それでも言う」


 冬真は少しだけ困ったように口元を歪め、それから低く言った。

「だから」

「何」

「お前の名前だけ残るの、嫌なんだろ」

「嫌」

「でも」

 冬真は続ける。

「残したいのがそこなのも、本当だ」

 千歳は胸の奥を強く掴まれたみたいになる。

 やっぱり、そこへ戻る。

 この人は、どれだけ削れても、その一点だけはきっと手放さない。


「……ずるい」

 小さく零れる。


「何が」

「そういうの」

 視線を落とす。

「ちゃんと言うくせに、肝心なとこはまだ言わない」


 冬真の呼吸が、ほんの少しだけ止まる。

 図星だった。


     ◆


 千歳は顔を上げる。

 今度は逃がしたくなかった。


「全部話して」

 静かに言う。


 冬真の目が細くなる。

「今さらか」

「今さらでも」

 千歳は続ける。

「子どもの頃からのこと」

「……」

「どれだけ引いたのか」

「……」

「何を失くしたのか」

 その一言で、冬真の表情がはっきり止まった。


 千歳はそこで確信する。

 やっぱりそこだ。

 そこが最後の核だ。


「冬真」

 低く呼ぶ。

「もう、“昔から守ってた”だけじゃ足りない」

 喉の奥が少し震える。

「今、次の器にされるかもしれないなら」

 一拍置く。

「どれだけ削れてここまで来たのか、知らないと止められない」


 正論だった。

 少なくとも千歳はそう思っていた。

 感情だけで責めているんじゃない。

 止めるために必要だから聞いている。


 でも、冬真はすぐには答えなかった。

 長い沈黙。

 その沈黙の中で、囲炉裏の火だけが小さく鳴っていた。


「……無理だ」

 やがて落ちた声は、掠れていた。


 千歳の胸がひやりと冷える。

「どうして」

「今、そこまで言うと」

 冬真は言葉を探すように少しだけ間を置く。

「お前が変わる」

「もう変わってる」

 千歳は即座に返す。

「前みたいには戻れない」

「そういう意味じゃない」

「じゃあ何」

「お前、自分を使う方へ寄るだろ」

 低い声だった。

「今の状態で全部知ったら」


 千歳は言葉に詰まる。

 否定したい。

 でも、完全にはできない。

 この人がずっと隠してきた理由が、それだからだ。


「……でも」

 やっと絞り出す。

「今はもう、あなたの方が危ない」

「知ってる」

「知ってるなら」

「だから言えない」

 冬真は言い切った。

「お前が、そこで何か決める方が怖い」


 仮殿の空気が張りつめる。

 千歳は唇を噛む。

 悔しい。

 ここまで来ても、まだ自分は“何かを決めてしまう危うい側”として見られている。


 でも、たぶんそれも本音なのだろう。

 この人にとっては。


「……わたし」

 千歳はゆっくり言う。

「そんなに信用ない?」

 冬真は少しだけ目を伏せた。

「信用してないわけじゃない」

「同じだよ」

「違う」

 掠れた声。

「信用してるから怖いんだ」

 その言葉に、千歳は一瞬だけ息を失う。

 意味が、すぐには飲み込めない。


「何それ」

 冬真はすぐには答えない。

 やがて低く言う。

「お前、ほんとに決めると止まらないだろ」

 千歳は何も言えなかった。

 否定しきれないからだ。

「だから、全部知ったら」

 冬真は続ける。

「今度はお前が、自分を使う方へ行く」

 その確信の強さに、千歳の胸が痛む。

 ずっと見てきたからこそ、そう言えるのだろう。


「でも」

 千歳は声を落とす。

「じゃあ、ずっとこのまま?」

「……」

「わたしは半分だけ知って、あなたは全部抱えたまま?」

 冬真は答えない。

 答えられないのだと、もうわかる。


     ◆


 そのとき、外で札が一枚、ぱち、と小さく鳴った。


 二人の空気が一瞬で変わる。

 戸口の方を見る。

 綾人はまだ戻っていない。


「……来た?」

 千歳が小さく言う。


 冬真はすぐには答えなかった。

 だが、その顔色がわずかに変わる。

「いや」

 低い声。

「今のは、まだ浅い」

「浅い」

「残滓寄りだ」

 そう言いながらも、冬真は立ち上がろうとする。


「だめ」

 千歳がすぐに言う。


「何が」

「一人で見に行かない」

 冬真は眉を寄せる。

「札が焼けたくらいだろ」

「そうやって軽くするのやめて」

 一歩、千歳が前へ出る。

「今それ、一番だめなやつ」

 冬真は舌打ちしそうな顔をしたが、完全には反論しなかった。


 その沈黙のあいだに、綾人が戸を開けて戻ってくる。

「どうした」

「札が鳴った」

 千歳がすぐに言う。

 綾人は外を一瞥し、短く頷いた。

「浅い」

「今、冬真もそう言った」

 綾人は冬真を見る。

「一人で出ようとしたな」

「まだしてない」

「その顔でわかる」

「……」

「やめろ」

 綾人の声は低く、鋭かった。

「呼びが冬真へ向き始めている今、お前が一人で外の反応を拾いに行くな」

「知ってる」

「知っているなら動くな」

 冬真は黙る。

 その顔には苛立ちと、わずかな焦りが混じっていた。

 自分が“行く側”でいられないことに、たぶんまだ慣れていないのだ。


「……綾人さん」

 千歳が呼ぶ。


「何だ」

「やっぱり」

 一拍置く。

「もう時間ないですよね」


 綾人は少しだけ目を細めた。

「どういう意味だ」

「冬真に呼びが来てる」

「……」

「記憶も抜け始めてる」

「……」

「なのに、まだ一番肝心なところは言えないまま」

 千歳は冬真を見る。

「このままだと、全部が中途半端なまま進む」


 綾人は答えなかった。

 けれど、その沈黙は否定ではない。


「だから」

 千歳は続ける。

「今じゃなくてもいい」

 冬真の目が少しだけ動く。

「でも、もう次はないって思ってて」

 それは脅しでも何でもない。

 本音だった。

 次の深い呼びが来たら、もっと聞けなくなるかもしれない。

 もっと抜けるかもしれない。

 もっと遅くなるかもしれない。


 冬真は長く黙っていた。

 その沈黙は、これまでのどれより重い。

 やがて、ほんの少しだけ目を閉じる。


「……わかった」

 掠れた声。


 千歳の呼吸が止まりそうになる。

「え」

「今じゃない」

 冬真はゆっくり言う。

「でも、次に深く来る前に話す」

 その言葉は、綺麗な約束ではなかった。

 猶予つきの、ぎりぎりの合意だ。

 でも今の冬真から引き出せるものとしては、たぶん最大だった。


「本当に?」

 思わず問うと、冬真は少しだけ目を細める。

「何回確認する」

「大事だから」

「……」

「今度は逃げないで」

 冬真はしばらく黙ってから、低く答えた。

「逃げるつもりはない」

 その言葉に、千歳は胸の奥が少しだけ痛みながら、でも少しだけ救われる。

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